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夏目漱石「三四郎」本文と解説5-4 野々宮「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬばかりだ」 美禰子「死んでも、其の方がいいと思ひます」

◇本文

 翌日は日曜である。三四郎は午飯(ひるめし)を済ましてすぐ西片町へ来た。新調の制服を着て、光つた靴を穿()いてゐる。静かな横町を広田先生の前迄来ると、人声がする。

 先生の家は門を這入ると、左り手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかゝらずに、すぐ座敷の縁へ出られる。三四郎は要目(かなめ)垣の間に見える(さん)を外さうとして、ふと、庭のなかの話し声を耳にした。話しは野々宮と美禰子の間に起りつゝある。

「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬ(ばかり)だ」是は男の声である。

「死んでも、其の方が()いと思ひます」是は女の答である。

「尤もそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬ丈の価値は充分ある」

「残酷な事を(おっ)しやる」

 三四郎は此所(こゝ)で木戸を開けた。庭の真中に立つてゐた会話の主は二人とも此方(こつち)を見た。野々宮はたゞ「やあ」と平凡に云つて、頭を首肯(うなづ)かせた丈である。頭に新らしい茶の中折帽を被つてゐる。美禰子は、すぐ、

「端書は何時(いつ)頃着きましたか」と聞いた。二人の今迄 ()つてゐた会話は、これで中絶した。

 縁側には主人が洋服を着て腰を掛けて、相変らず哲学を吹いてゐる。是は西洋の雑誌を手にしてゐた。(そば)によし子がゐる。両手を後ろへ()いて、身体を(くう)に持たせながら、伸ばした足に穿()いた厚い草履を眺めてゐた。――三四郎はみんなから待ち受けられてゐたと見える。

 主人は雑誌を()げ出した。

「では行くかな。とう/\引張り出された」

「御苦労様」と野々宮さんが云つた。女は二人で顔を見合せて、(ひと)に知れない様な笑を洩らした。庭を出るとき、女が二人つゞいた。

(せい)が高いのね」と美禰子が(あと)から云つた。

「のつぽ」とよし子が一言答へた。門の(わき)で並んだ時、「だから、なり(たけ)草履を穿()くの」と弁解をした。三四郎もつゞいて、庭を出様とすると、二階の障子ががらりと開いた。与次郎が手欄(てすり)の所迄出て来た。

「行くのか」と聞く。

「うん、君は」

「行かない。菊細工なんぞ見て何になるものか。馬鹿だな」

「一所に行かう。家に居たつて仕様がないぢやないか」

「今論文を書いてゐる。大論文を書いてゐる。中々それ所ぢやない」

 三四郎は呆れ返つた様な笑ひ方をして、四人の後を追掛た。四人は細い横町を三分の二程広い通りの方へ遠ざかつた所である。此一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が、熊本当時のそれよりも、ずつと意味の深いものになりつゝあると感じた。(かつ)て考へた三個の世界のうちで、第二第三の世界は正に此一団の影で代表されてゐる。影の半分は薄黒い。半分は花野(はなの)の如く明らかである。さうして三四郎の頭のなかでは此両方が渾然として調和されてゐる。のみならず、自分も何時(いつ)の間にか、自然と此 経緯(よこたて)のなかに織り込まれてゐる。たゞそのうちの何所(どこ)かに落ち付かない所がある。それが不安である。歩きながら考へると、今さき庭のうちで、野々宮と美禰子が話してゐた談柄(だんぺい)が近因である。三四郎は此不安の念を()る為めに、二人の談柄を再び剔抉(ほぢく)り出して見たい気がした。

 四人は既に曲り角へ来た。四人とも足を()めて、振り返つた。美禰子は額に手を(かざ)してゐる。 (青空文庫より)


◇解説

みんなで菊人形見物の場面だが、現代なら宗八と美禰子のふたりだけでデートということになるだろう。集団での行動は、明治という時代からか。


「翌日は日曜である。三四郎は午飯(ひるめし)を済ましてすぐ西片町へ来た。新調の制服を着て、光つた靴を穿()いてゐる」

…グループデートにおしゃれして臨む三四郎の様子。東大生であることをまっさらな制服で誇示し、靴は光っている。やや意気込みすぎだ。


「静かな横町を広田先生の前迄来ると、人声がする」

…三四郎の胸は高まるのに対し、町は静かだ。耳をそばだてて広田宅に近づき、その様子をうかがう三四郎。広田宅は、若者たちの交歓の場であり、この日も菊人形見物に皆は浮き立つ。


「先生の家は門を這入ると、左り手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかゝらずに、すぐ座敷の縁へ出られる。三四郎は要目(かなめ)垣の間に見える(さん)を外さうとして、ふと、庭のなかの話し声を耳にした」

…広田宅を訪れるたびに三四郎は、引っ越しの手伝いに来た時の2階での美禰子とのやり取りを思い出すだろう。また、今話でも、縁側が社交場になっている。


(広田宅の間取りはNOTEの方に載せました)


「話しは野々宮と美禰子の間に起りつゝある。

「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬ(ばかり)だ」是は男の声である。

「死んでも、其の方が()いと思ひます」是は女の答である。

「尤もそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬ丈の価値は充分ある」

「残酷な事を(おっ)しやる」

 三四郎は此所(こゝ)で木戸を開けた」

…「死」という語が何度も登場する何やら物騒な会話が、宗八と美禰子の間に交わされている。一体何事かと、三四郎は思っただろう。(そうして読者も) ふたりの意見は対立しているようだ。そこに三四郎は、自ら飛び込む。

ところで、内容が分からないなりに、この部分だけで考えてみると、「そんな事」をする事によって、その結果は「死」しか待っていないと宗八は考える。それに対して美禰子は、「死」んだ「方が()い」とする。彼女は、何かある理由は「死」を超えると考える。宗八はそれを「無謀」・「死ぬ丈の価値は充分ある」愚者・愚行だとする。そんな奴は死んでもいい・仕方ないと言う宗八を「残酷」とする美禰子。

この会話が、多少なりとも真剣な気持ちを帯びているとすれば、ふたりの考え方・人生観・世界観の隔たりは決定的だ。この価値観の違いは、ふたりの間に継続的な愛を生まないだろう。(そうして実際にそうなる)


美禰子の気持ちに寄り添って考えると、物事を「分析」する宗八と、詩的に考える自分は、人生を歩む相手としてふさわしくないのではないかという迷いがあるだろう。それが一方で三四郎への誘惑に表れている・つながるとも考えられる。彼女は人生に迷っている、まさに「ストレイシープ」だ。


「庭の真中に立つてゐた会話の主は二人とも此方(こつち)を見た」

…まるでステージ中央に立つ役者のよう。ふたりのやり取りは、他のメンバーの注目を集めている。


「野々宮はたゞ「やあ」と平凡に云つて、頭を首肯(うなづ)かせた丈である。頭に新らしい茶の中折帽を被つてゐる。美禰子は、すぐ、

「端書は何時(いつ)頃着きましたか」と聞いた。二人の今迄 ()つてゐた会話は、これで中絶した」

…それまでの深刻な内容の会話を簡単に投げ捨て、ふたりはそれぞれの挨拶を三四郎にする。三四郎と同様、宗八も「新らしい茶の中折帽」で洒落ている。ハガキの到着を心配する美禰子は、三四郎が来るかどうかを気にしていた。


「縁側には主人が洋服を着て腰を掛けて、相変らず哲学を吹いてゐる。是は西洋の雑誌を手にしてゐた。(そば)によし子がゐる。両手を後ろへ()いて、身体を(くう)に持たせながら、伸ばした足に穿()いた厚い草履を眺めてゐた」

…この人物たちをそのまま舞台の上に載せても、また映像のカット割りをしても成立する、漱石の設定や描写の巧みさ。野々宮の迎え方、美禰子の心配の焦点、ふたりの深刻な会話を等閑視するかのような広田の悠々とした態度、無邪気なよし子。みんなキャラが立っている。「――三四郎はみんなから待ち受けられてゐたと見える」。


「主人は雑誌を()げ出した。

「では行くかな。とう/\引張り出された」

「御苦労様」と野々宮さんが云つた。女は二人で顔を見合せて、(ひと)に知れない様な笑を洩らした」

…その人工的なところが一見の価値があると自分で言ってしまった結果、広田も同行しなければならなくなった。いやいやながらの様子を見て、宗八はねぎらいの言葉をかけ、女二人は笑みを漏らす。


「庭を出るとき、女が二人つゞいた。

(せい)が高いのね」と美禰子が(あと)から云つた。

「のつぽ」とよし子が一言答へた。門の(わき)で並んだ時、「だから、なり(たけ)草履を穿()くの」と弁解をした」

…いつの時代も背の高さは新しい人たちの特徴だ。前を行く年下のよし子の後ろ姿を見て、美禰子は身長の高さを実感する。ふたりは「門の(わき)で並」び、背比べをする。互いに姉妹のような親しみを感じている。このふたりは、性格が違うからうまくいく。

ところで、自分の背の高さを気にして「なり(たけ)草履を穿()く」よし子が今履いているのは「厚い草履」なのだが、この矛盾はどうしたものか。下駄よりは薄いということか、できるだけ自分を飾りたいという女心か。厚底の草履が流行っていたのか。(いつの時代も同じですね)

よし子の矛盾がかわいい。それが彼女の良さだ。


「三四郎もつゞいて、庭を出様とすると」

…三四郎は、美禰子とよし子の女性二人のやり取りを、後ろから見ていた。


「二階の障子ががらりと開いた。与次郎が手欄(てすり)の所迄出て来た。

「行くのか」と聞く。

「うん、君は」

「行かない。菊細工なんぞ見て何になるものか。馬鹿だな」

「一所に行かう。家に居たつて仕様がないぢやないか」

「今論文を書いてゐる。大論文を書いてゐる。中々それ所ぢやない」

…三四郎でなくても、若く美しい女性二人との菊人形見物にはふつう参加したいと思うだろう。この物語において佐々木は、あまり女性への関心を示さない。また、彼の興味はいま、広田を大学教授に推すところにある。そのための論文制作に忙しい。

佐々木の、「菊細工なんぞ見て何になるものか。馬鹿だな」・「今論文を書いてゐる。大論文を書いてゐる。中々それ所ぢやない」という主張と、三四郎の「家に居たつて仕様がないぢやないか」という主張の違い・対比が面白い。同じ若者であっても、それぞれいま関心があることが全く異なっている。


「三四郎は呆れ返つた様な笑ひ方をして、四人の後を追掛た」

…また何かしらつまらぬ論文を書き始めたなと三四郎は思っている。


「四人は細い横町を三分の二程広い通りの方へ遠ざかつた所である」

…この表現は象徴的だ。三四郎はいま、「四人」を追いかける位置にある。「自分の今の生活が、熊本当時のそれよりも、ずつと意味の深いものになりつゝあると感じ」る。


(かつ)て考へた三個の世界のうちで、第二第三の世界は正に此一団の影で代表されてゐる」

…三つの世界については、4-8に述べられていた。第二の世界は「学問の世界」であり、広田や野々宮が存在する。行こうと思えば行かれるが躊躇していた三四郎にはまだ「薄黒い」世界。

これに対して第三の世界は「女性や恋の世界」だ。その奥深さと危険なにおいは近づきがたいが、自分はその世界の一員になる資格を有しており、またその世界に入るべきだと感じる、「花野(はなの)の如く明らか」な世界。


「さうして三四郎の頭のなかでは此両方が渾然として調和されてゐる。のみならず、自分も何時(いつ)の間にか、自然と此 経緯(よこたて)のなかに織り込まれてゐる。たゞそのうちの何所(どこ)かに落ち付かない所がある。それが不安である。歩きながら考へると、今さき庭のうちで、野々宮と美禰子が話してゐた談柄(だんぺい)が近因である。三四郎は此不安の念を()る為めに、二人の談柄を再び剔抉(ほぢく)り出して見たい気がした」

…初めは別々の世界だったが、三四郎は、「渾然として調和されてゐる」・「何時(いつ)の間にか、自然と此 経緯(よこたて)のなかに織り込まれてゐる」状態までたどり着いた。広田グループに所属することは、学問の世界と恋の世界の両方に所属することになる。しかしまだ「落ち付かない所がある」と感じる三四郎。彼の心の引っ掛かり・「不安の念」は、「今さき庭のうちで、野々宮と美禰子が話してゐた談柄(だんぺい)」だ。


「四人は既に曲り角へ来た。四人とも足を()めて、振り返つた」

…自分たちは三四郎よりも時代の先を行っている。後からたどり着こうとする三四郎をこの人たちは待ってあげる。それを象徴する絵。


「美禰子は額に手を(かざ)してゐる」

…美禰子のこのポーズは、実際の眩しさとともに、彼女が自分の人生とその行く先を遠く見晴るかしていることを表す象徴的な画だ。大学病院近くの池の端で初めて出会った時の美禰子のポーズであり、「ストレイシープ」のポーズ。だから三四郎の記憶に深く残るのだった。

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