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夏目漱石「三四郎」本文と解説5-2 三四郎「こちらへも来ますか」 よし子「美禰子さん? いらつしやいますわ」 三四郎「たびたび?」 よし子「えゝたびたび」

◇本文

 縁側から座敷を見廻すと、しんと静かである。茶の間は無論、台所にも人はゐない様である。

「御母さんはもう御国へ御帰りになつたんですか」

「まだ帰りません。近いうちに立つ筈ですけれど」

「今、()らつしやるんですか」

「今 一寸(ちよつと)買物に出ました」

「あなたが里見さんの所へ御移りになると云ふのは本当ですか」

()うして」

「何うしてつて――此間広田先生の所でそんな話がありましたから」

「まだ(きま)りません。事によると、さうなるかも知れませんけれど」

 三四郎は少しく要領を得た。

「野々宮さんは元から里見さんと御懇意なんですか」

「えゝ。御友達なの」

 男と女の友達といふ意味かしらと思つたが、何だか可笑(おか)しい。けれども三四郎はそれ以上を聞き得なかつた。

「広田先生は野々宮さんの元の先生ださうですね」

「えゝ」

 話しは「えゝ」で(つか)へた。

「あなたは里見さんの所へ()らつしやる方が()いんですか」

「私? さうね。でも美禰子さんの御兄(おあに)いさんに御気の毒ですから」

「美禰子さんの兄さんがあるんですか」

「えゝ。(うち)の兄と同年の卒業なんです」

「矢っ張り理学士ですか」

「いゝえ、科は違ひます。法学士です。其又上の兄さんが広田先生の御友達だつたのですけれども、早く御亡くなりになつて、今では恭助さん丈なんです」

「御父さんや御母さんは」

 よし子は少し笑ひながら、

「ないわ」と云つた。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であると云はぬ許である。余程早く死んだものと見える。よし子の記憶には丸でないのだらう。

「さう云ふ関係で美禰子さんは広田先生のうちへ出入りをなさるんですね」

「えゝ。死んだ兄さんが広田先生とは大変 仲善(なかよし)だつたさうです。それに美禰子さんは英語がすきだから、時々英語を習ひに入らつしやるんでせう」

此方(こちら)へも来ますか」

 よし子は何時(いつ)の間にか、水彩画の続きを描き始めた。三四郎が(そば)にゐるのが丸で苦になつてゐない。それでゐて、()く返事をする。

「美禰子さん?」と聞きながら、柿の木の下にある藁葺き屋根に影をつけたが、

「少し黒過ぎますね」と画を三四郎の前へ出した。三四郎は今度は正直に、

「えゝ、少し黒過ぎます」と答へた。すると、よし子は画筆に水を含ませて、黒い所を洗ひながら、

()らつしやいますわ」と漸く三四郎に返事をした。

「度々(たび/\)?」

「えゝ度々」とよし子は依然として画紙に向つてゐる。三四郎は、よし子が画のつゞきを描き出してから、問答が大変楽になつた。

(青空文庫より)


◇解説

誠に他愛ない会話なのだが、このような若者同士のやりとりを、よく漱石は創作できるものだと感心する。(文豪に失礼でしょうか。わたしゃにゃできない)


野々宮宅に、「なんで来たか三四郎にも実はわからない」(5-1)。家にはよし子だけがいる。ふたりは縁側に座り、よし子は絵を描きかけだ。


前話までの広田の引っ越しの場面でもそうだったのだが、「縁側」がまるで社交場のような空間になっている。外から室内へ出入りする通過点であり、そこに座って談話する場所だ。いまはそこでよし子は絵を描き、三四郎と談話する。


「縁側から座敷を見廻すと、しんと静かである。茶の間は無論、台所にも人はゐない様である」

…若い女性と二人だけという状況は、それだけで若い男の胸をときめかせる。何か間違いが起こっても不思議ではない場面。「台所」には普通、下女がいるはずだが、今はその気配がない。(後に、実はいたことが分かる) いよいよよし子と三四郎ふたりきりの世界だ。


「御母さんはもう御国へ御帰りになつたんですか」

「まだ帰りません。近いうちに立つ筈ですけれど」

「今、()らつしやるんですか」

「今 一寸(ちよつと)買物に出ました」

…家人の所在を確認する三四郎。そこに「母」がいるかいないかは大違いなのだ。


「あなたが里見さんの所へ御移りになると云ふのは本当ですか」

()うして」

…この質問内容が、三四郎をここに来させた主意だ。彼はこれを聞きたくてここに来たのだ。

よし子は、そのことをなぜ三四郎が知っているのかと疑い、また、なぜそれを話題に上せたかも疑っている。


「何うしてつて――此間広田先生の所でそんな話がありましたから」

…これは、なぜそれを話題に上せたかの答えにはなっていない。


「「まだ(きま)りません。事によると、さうなるかも知れませんけれど」

 三四郎は少しく要領を得た」

…「まだ(きま)」らず、「事によると、さうなるかも知れませんけれど」という答えは、三四郎が抱く疑問の答え・解消にはなっていない。従って、普通は、「要領を得」るに至らないのだが、どうなるか何もわからないよりはまだましだと三四郎は考えているようだ。


「「野々宮さんは元から里見さんと御懇意なんですか」

「えゝ。御友達なの」」

…三四郎が一歩踏み込んだ質問。このことも確かめるのが、来訪の理由の一つだ。三四郎は、よし子の言う「御友達」の意味を測りかねただろうが、少なくとも「懇意」という表現には当たらないようだと理解しただろう。ただ、第三者である三四郎に対する答えとして「恋人」とは言い難く、それに代わる表現として「御友達」と言ったとも考えられる。従って、よし子のこの答えでは、三四郎の疑問解決には至らない。

だから三四郎は、「男と女の友達といふ意味かしらと思つたが」、そこに「何」かの「可笑(おか)し」さを感じる。ただの友達に、リボンのプレゼントをするだろうか。ただの友達の後を追いかけ、ふたりだけで何やら話をするだろうか。「けれども三四郎はそれ以上を聞き得なかつた」。


「「広田先生は野々宮さんの元の先生ださうですね」

「えゝ」」

…何とか話をつないで、より情報を得ようとするが、「話しは「えゝ」で(つか)へた」。わかりきった問いに、よし子としても単簡に応えるしかない。


三四郎はよし子の話題に変える。そこに、美禰子の兄が登場する。

〇美禰子の家族

・兄恭助は美禰子と同居

・兄は野々宮宗八と同年の卒業(東大卒)の法学士

・さらに上の兄が広田先生の友人「大変 仲善(なかよし)」だったが、早くに亡くなった

・両親は早く死んだ。「よし子の記憶には丸でないのだらう」


「さう云ふ関係で美禰子さんは広田先生のうちへ出入りをなさる」

「それに美禰子さんは英語がすきだから、時々英語を習ひに入らつしやる」


下世話な話で恐縮だが、兄の男友達は、多少年齢差があっても、その妹にとって恋愛対象になるだろう。広田はまだ35歳くらいだし、物語最終部で美禰子が結婚する相手は、兄・恭助の友人だ。

しかし美禰子は広田を「先生」としか見ていないようだ。もう一方の広田は彼女をどう思っているかに注意しながら、これ以降を見ていきたい。


話の流れに乗る形で、三四郎は知りたい情報を得ようとさらに踏み出す。

此方(こちら)へも来ますか」

この質問は、美禰子の兄は野々宮宗八と同年の卒業であり、また宗八は広田先生に高校で習っていたというつながりから、「此方(こちら)へも来ますか」という意味。多少なりともこれらの理由説明を付け足さないため、三四郎の問は簡潔すぎるしぶっきらぼうだ。とにかく自分が知りたいことを聞きたいという気の焦りが表れた問。


「よし子は何時(いつ)の間にか、水彩画の続きを描き始めた。三四郎が(そば)にゐるのが丸で苦になつてゐない。それでゐて、()く返事をする。

「美禰子さん?」と聞きながら、柿の木の下にある藁葺き屋根に影をつけたが、

「少し黒過ぎますね」と画を三四郎の前へ出した。三四郎は今度は正直に、

「えゝ、少し黒過ぎます」と答へた。すると、よし子は画筆に水を含ませて、黒い所を洗ひながら、

()らつしやいますわ」と漸く三四郎に返事をした」

「度々(たび/\)?」

「えゝ度々」とよし子は依然として画紙に向つてゐる。三四郎は、よし子が画のつゞきを描き出してから、問答が大変楽になつた」

…よし子のこの様子・振る舞いは、三四郎の心持を「大変楽」にする。今回の訪問により、三四郎はよし子との間に親しみや安息を感じるようになるさまが、次話にも続く。

普通であれば、人と会話中に他のことをするのは失礼な行為だ。しかしよし子は三四郎の前ではそれが許されると考え、また三四郎の方もそれを受け入れる。知り合ってまだ日が浅いふたりなのだが、既に気安い関係なのだ。互いが互いのそばにいるのも、そこで別のことをするのも「丸で苦になつてゐない」。三四郎はこれを機会と、素直に知りたい内容を尋ねる。よし子もその背景を疑わずに素直に答える。ふたりには信頼が成立している。


ところで、物語にはっきりとは書かれていないのだが、三四郎は、宗八がまだ帰宅していないことを知った上で野々宮宅を訪れている。そもそも宗八に用事があるのであれば、大学の研究室を訪ねればいい。三四郎はおそらく、宗八がまだ大学にいることを確認し、その上で野々宮宅を訪れている。兄がまだ帰宅しておらず、妹ひとりの可能性も容易に考えられるのに、大学で宗八の所在を確認しないのは不自然だ。兄の居ぬ隙に妹に会いに行ったと勘ぐられても否定できない。

その目的はもちろん、よし子にさまざまな疑問を尋ねるためだ。彼女は、いちばん素直で疑うことを知らず、しかも三四郎が知りたい人間関係をよく把握している存在。自分を憎からず思っているようだし、いろいろ聞きやすい相手。

このように考えると、前話の文中にあった、「なんで来たか三四郎にも実はわからない」(5-1)。という説明は嘘ということになる。われわれ読者は、三四郎と語り手にまんまと騙されてしまった。語り手に欺かれては、読者は何を信じればいいかわからない。

これ以降、われわれはすべての説明を疑いの目で眺めながら、物語をたどることになる。面白い物語だ。

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