夏目漱石「三四郎」本文と解説4-17 野々宮「あなたの所へ置いて呉れませんか」 美禰子「いつでも置いて上げますわ」 与次郎「宗八さんの方をですか、よし子さんの方をですか」 美禰子「どちらでも」
◇本文
美禰子は台所へ立つた。茶碗を洗つて、新らしい茶を注いで、縁側の端迄持つて出る。
「御茶を」と云つた儘、其所へ坐つた。「よし子さんは、どうなすつて」と聞く。
「えゝ、身体の方はもう回復しましたが」と又腰を掛けて茶を飲む。それから、少し先生の方へ向いた。
「先生、折角大久保へ越したが、又 此方の方へ出なければならない様になりさうです」
「何故」
「妹が学校へ行き帰りに、戸山の原を通るのが厭だといひ出しましてね。それに僕が夜実験をやるものですから、遅く迄待つてゐるのが淋しくつて不可ないんださうです。尤も今のうちは母が居るから構ひませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女丈になるものですからね。臆病もの二人では到底辛抱し切れないのでせう。――実に厄介だな」と冗談半分の嘆声を洩らしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客に置いて呉れませんか」と美禰子の顔を見た。
「何時でも置いて上げますわ」
「何方です。宗八さんの方をですか、よし子さんの方をですか」と与次郎が口を出した。
「何方でも」
三四郎丈黙つてゐた。広田先生は少し真面目になつて、
「さうして君はどうする気なんだ」
「妹の始末さへ付けば、当分下宿しても可いです。それでなければ、又 何所かへ引越さなければならない。一層学校の寄宿舎へでも入れ様かと思ふんですがね。何しろ小供だから、僕が始終行けるか、向ふが始終来られる所でないと困るんです」
「それぢや里見さんの所に限る」と与次郎が又注意を与へた。広田さんは与次郎を相手にしない様子で、
「僕の所の二階へ置いて遣つても好いが、何しろ佐々木の様なものがゐるから」と云ふ。
「先生、二階へは是非佐々木を置いてやつて下さい」と与次郎自身が依頼した。野々宮君は笑ひながら、
「まあ、どうかしませう。――身長ばかり大きくつて馬鹿だから実に弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れて行けなんて云ふんだから」
「連れて行つて御上げなされば可いのに。私だつて見たいわ」
「ぢや一所に行きませうか」
「えゝ是非。小川さんも入らつしやい」
「えゝ行きませう」
「佐々木さんも」
「菊人形は御免だ。菊人形を見る位なら活動写真を見に行きます」
「菊人形は可いよ」と今度は広田先生が云ひ出した。「あれ程に人工的なものは恐らく外国にもないだらう。人工的によく斯んなものを拵らへたといふ所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出来て居たら、恐らく団子坂へ行くものは一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四五人は必ずゐる。団子坂へ出掛けるには当らない」
「先生一流の論理だ」と与次郎が評した。
「昔し教場で教はる時にも、よく、あれで遣られたものだ」と野々宮君が云つた。
「ぢや先生も入らつしやい」と美禰子が最後に云ふ。先生は黙つてゐる。みんな笑ひ出した。
台所から婆さんが「どなたか一寸と」と云ふ。与次郎は「おい」とすぐ立つた。三四郎は矢っ張り坐つてゐた。
「どれ僕も失礼しやうか」と野々宮さんが腰を上げる。
「あらもう御帰り。随分ね」と美禰子が云ふ。
「此間のものはもう少し待つて呉れ玉へ」と広田先生が云ふのを、「えゝ、宜うござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出て行つた。其影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思ひ出した様に「さう/\」と云ひながら、庭先に脱いであつた下駄を穿いて、野々宮の後を追掛た。表で何か話してゐる。
三四郎は黙つて坐つてゐた。 (青空文庫より)
◇解説
広田の新居引っ越しの場面。
「美禰子は台所へ立つた。茶碗を洗つて、新らしい茶を注いで、縁側の端迄持つて出る」
…美禰子は引っ越しの手伝いとともに、広田の着替えを手伝ったり、サンドイッチを持ってきて皆に配ったりする。下女を除くとこの場面では女性一人ということもあるが、このようなことをする女性として描かれる。
またここの茶の世話については、下女を呼んでやらせることもできる。しかし美禰子は自分で行う。当然、三四郎、野々宮はそれを見ている。さらにそれを美禰子は意識している。
「「御茶を」と云つた儘、其所へ坐つた。「よし子さんは、どうなすつて」と聞く」
…話題を変える美禰子。
「えゝ、身体の方はもう回復しましたが」と又腰を掛けて茶を飲む。それから、少し先生の方へ向いた」
…これは、野々宮の動作。彼はこの後、再度転居しなければならない状況説明を、広田に向かって語る形で美禰子に伝える。
・「折角大久保へ越したが、又 此方の方へ出なければならない様になりさう」
・「妹が学校へ行き帰りに、戸山の原を通るのが厭だといひ出しましてね。それに僕が夜実験をやるものですから、遅く迄待つてゐるのが淋しくつて不可ないんださうです」
・「臆病もの二人(よし子と下女)では到底辛抱し切れないのでせう。――実に厄介だな」
「「どうです里見さん、あなたの所へでも食客に置いて呉れませんか」と美禰子の顔を見た」
…この言葉を聞いた三四郎は、ドキドキしただろう。野々宮と美禰子が妹を媒介にさらに接近してしまうことになるからだ。みんなの前で、冗談めかしてではあるが、このようなことを依頼するのは、普通の関係ではありえない。
「何時でも置いて上げますわ」
…すぐにあっさりと承諾した美禰子の言葉に、三四郎はまた鼓動が高まっただろう。他人を預かるということは、簡単なことではない。それなのに美禰子は苦も無く返事する。このあたりのやり取りは、野々宮と美禰子の関係の深さを感じさせる。
「「何方です。宗八さんの方をですか、よし子さんの方をですか」と与次郎が口を出した」
…トリックスターは場を乱すとともにそのことによって物語が展開したり人間関係が変化・発展したりする。このセリフも、三四郎をドキドキさせる。
「何方でも」
…ふたたび美禰子は、こともなく発する。ふつうこのようなことは、皆の前では言わないものだ。宗八を受け入れることは、他人ではなくなる可能性を増す。だから「三四郎丈黙つてゐた」。美禰子の心情が推し量れない。真剣なのか、冗談なのか。冗談めかした本音なのか。
「広田先生は少し真面目になつて、
「さうして君はどうする気なんだ」」
…広田は、若者たちのやり取りを、やや浮かれた戯言と捉え、野々宮の話を本筋に戻す。
「妹の始末さへ付けば、当分下宿しても可いです。それでなければ、又 何所かへ引越さなければならない。一層学校の寄宿舎へでも入れ様かと思ふんですがね。何しろ小供だから、僕が始終行けるか、向ふが始終来られる所でないと困るんです」
…よし子は兄に頼っている。何の病気かは明らかにされていないが、恐らく九州からふたりで上京し、一緒に生活している上で、兄は彼女の力となっている。三四郎はよし子の心情を理解しつつ聞いているはずだ。以前、こんな場面があった。
「三四郎は話を転じて、病人の事を尋ねた。野々宮君の返事によると、果して自分の推測通り病人に異状はなかつた。只五六日以来行つてやらなかつたものだから、それを物足りなく思つて、退屈紛れに兄を釣り寄せたのである。今日は日曜だのに来て呉れないのは苛いと云つて怒つてゐたさうである。それで野々宮君は妹を馬鹿だと云つてゐる。本当に馬鹿だと思つてゐるらしい。此忙しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だと云ふのである。けれども三四郎には其意味が殆んど解らなかつた。わざ/\電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩や二晩を潰したつて惜しくはない筈である。さう云ふ人に逢つて過す時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮らす月日は寧ろ人生に遠い閑生涯と云ふべきものである。自分が野々宮君であつたならば、此妹の為めに勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思ふだらう」(3-11)
「「それぢや里見さんの所に限る」と与次郎が又注意を与へた」
…「余計なことをいうやつだ」と、三四郎は思っている。考えも無しに言葉を発する佐々木だが、その内容は、問題の核心をついているところが面白い。トリックスターの役目だ。
「広田さんは与次郎を相手にしない様子で」
…広田は場を収める役割を果たす。
「「僕の所の二階へ置いて遣つても好いが、何しろ佐々木の様なものがゐるから」と云ふ」
…広田はこのセリフで佐々木をやわらかく懲らしめ、また、野々宮の力になれない詫びをする。
「先生、二階へは是非佐々木を置いてやつて下さい」
…自分に都合のいいことにはすぐに飛びつくのが与次郎の役目。
「まあ、どうかしませう。――身長ばかり大きくつて馬鹿だから実に弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れて行けなんて云ふんだから」
…以前、三四郎との会話でも野々宮は、妹を「馬鹿」と評していた。他者の前だからということもあろうが、彼の妹への評価はこれなのだろう。
「団子坂の菊人形」の話題がさり気なく示され、この後皆で出かけることにつながるスムーズな展開に、いつもながら漱石の巧みさを感じる。
「連れて行つて御上げなされば可いのに。私だつて見たいわ」
…美禰子は詩の人なのだ。
「ぢや一所に行きませうか」
…皆の前での会話から、自然とこのような形になってしまったが、野々宮は美禰子を菊人形見物に誘う。三四郎は気が気でないだろう。
「えゝ是非。小川さんも入らつしやい」
…美禰子のこのセリフに、三四郎はうれしかっただろうし、野々宮は少し複雑な心境だ。
「えゝ行きませう」
…美禰子に誘われうれしい三四郎。野々宮のことを考えたら、辞退という選択肢もありえた。
「佐々木さんも」
…三四郎を誘った以上、佐々木をのけ者にするわけにもいかない。
「菊人形は御免だ。菊人形を見る位なら活動写真を見に行きます」
…自分の趣向をそのまま告げる佐々木。
「菊人形は可いよ」と今度は広田先生が云ひ出した。「あれ程に人工的なものは恐らく外国にもないだらう。人工的によく斯んなものを拵らへたといふ所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出来て居たら、恐らく団子坂へ行くものは一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四五人は必ずゐる。団子坂へ出掛けるには当らない」
…「菊人形の「人工的」さ加減はすばらしい。菊で「普通の人間」を作っても面白くない」とする広田。
広田のこの考え方は興味深い。昨今、AI流行りだが、どれもみな「普通の人間」にいかに近づけることができるかに血道をあげている。そうして、いつか人間はAIにとってかわられてしまうのではないかと恐れる。
広田が現状を見たら嘆くだろう。機械・コンピュータを「普通の人間」に仕立てても仕方がない。その「人工的」であることを楽しめばいいではないか、と。
「「先生一流の論理だ」と与次郎が評した。
「昔し教場で教はる時にも、よく、あれで遣られたものだ」と野々宮君が云つた」
…佐々木と野々宮は、普通観客は菊の美しさやそれで造形された人形自体を楽しみに見物するのであり、その「人工的」なさまや「普通の人間」でないさまを見ようとして出かけるのではない、と考えている。広田はまさに「普通の人間」とは、菊人形の鑑賞の仕方・観点が異なっている。広田の独特な「論理」を面白がる若者ふたり。
「「ぢや先生も入らつしやい」と美禰子が最後に云ふ。先生は黙つてゐる。みんな笑ひ出した」
…広田が行きたくないことを知っていて、わざと誘う美禰子。菊人形の鑑賞法を披露したからには、先生も見物に参加しなければならない。しかし行きたくない「先生は黙」るしかなくなった。その様子が皆の笑いを誘う。
美禰子は、先生に対してもからかいの言葉をかける人だ。
「台所から婆さんが「どなたか一寸と」と云ふ。与次郎は「おい」とすぐ立つた。三四郎は矢っ張り坐つてゐた」
…三四郎は、野々宮と美禰子の様子が気になるのだ。
「「どれ僕も失礼しやうか」と野々宮さんが腰を上げる。
「あらもう御帰り。随分ね」と美禰子が云ふ」
…この美禰子の言葉に三四郎は反応しただろう。愛人への恨み言に聞こえるからだ。「もっと一緒にいたいのに、用が済んだらもう帰るの?」
「「此間のものはもう少し待つて呉れ玉へ」と広田先生が云ふのを、「えゝ、宜うござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出て行つた」
…事情を知らない三四郎と読者には、とても気になるセリフだ。これはやがて明らかにされるだろう。また、広田と野々宮の懇ろな交際がうかがわれる場面。
「其影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思ひ出した様に「さう/\」と云ひながら、庭先に脱いであつた下駄を穿いて、野々宮の後を追掛た。表で何か話してゐる。
三四郎は黙つて坐つてゐた」
…三四郎にとっては、こちらの方がさらに気になっただろう。野々宮と美禰子の関係の深浅の度合。会話の内容。聞きたいけれど聞こえない。だから三四郎は「黙って」いるしかないし、「座って」いるしかない。
この美禰子の様子は、彼女にしてはわざとらしい。本当に野々宮に用事があるのならば、彼女ならばもっと上手・スマートな、人に知られぬやり方で、野々宮とコンタクトを取っただろう。周りからひやかされてもおかしくない場面だからだ。
そのように考えると、美禰子はわざと「急に思ひ出した様」なそぶりをし、わざと「「さう/\」と云ひながら、庭先に脱いであつた下駄を穿いて、野々宮の後を追掛た」。そのような自分の姿を、三四郎に見せるためだ。おまけに「表で何か話してゐる」。これでは三四郎は、彼女と野々宮が気になって気になってしようがなくなる。すべては三四郎の気を引くための企みといえる。
美禰子と野々宮は庭木戸から登場した。だから美禰子は庭木戸から去る野々宮を、「庭先に脱いであつた」自分の「下駄を穿いて」、「後を追掛」ることができる。その後ろ姿を、三四郎は直接目にする。
漱石の構想力の高さがうかがわれる。