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夏目漱石「三四郎」本文と解説4-16 与次郎「可哀想だた惚れたつて事よ」。「いかん、いかん、下劣の極だ」と先生が忽ち苦い顔をした。三四郎と美禰子は一度に笑ひ出した。

◇本文

 広田先生は例によつて烟草を呑み出した。与次郎は之を評して鼻から哲学の(けむ)を吐くと云つた。成程烟の出方が少し違ふ。悠然として太く逞ましい棒が二本穴を抜けて来る。与次郎は其 烟柱(えんちう)を眺めて、半分背を唐紙に持たした儘黙つてゐる。三四郎の眼はぼんやり庭の上にある。引越ではない。丸で小集の体に見える。談話も従つて気楽なものである。たゞ美禰子丈が広田先生の(かげ)で、先生がさつき脱ぎ棄てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所為(しよい)と見える。

「今のオルノーコの話だが、君は疎忽(そゝつか)しいから間違へると不可(いけ)ないから序に云ふがね」と先生の烟が一寸途切れた。

「へえ、伺つて置きます」と与次郎が几帳面に云ふ。

「あの小説が出てから、サヾーンといふ人が其話を脚本に仕組んだのが別にある。矢張り同じ名でね。それを一所にしちや不可ない」

「へえ、一所にしやしません」

 洋服を畳んで居た美禰子は一寸与次郎の顔を見た。

「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ といふ句だが……」それ丈で又哲学の烟を(さか)んに吹き出した。

「日本にもありさうな句ですな」と今度は三四郎が云つた。(ほか)のものも、みんな有りさうだと云ひ出した。けれども誰にも思ひ出せない。では一つ訳して見たら()からうといふ事になつて、四人が色々に試みたが一向纏まらない。仕舞に与次郎が、

「これは、どうしても俗謡で行かなくつちや駄目ですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を呈出した。

 そこで、三人が全然翻訳権を与次郎に委任する事にした。与次郎はしばらく考へてゐたが、

「少し無理ですがね、かう云ふなどうでせう。可哀想だた惚れたつて事よ」

不可(いか)ん、不可(いか)ん、下劣の(きよく)だ」と先生が(たちま)(にが)い顔をした。その云ひ方が如何(いか)にも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑ひ出した。此笑ひ声がまだ()まないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんが這入つて来た。

「もう大抵片付いたんですか」と云ひながら、野々宮さんは縁側の正面の所迄来て、部屋のなかにゐる四人を覗く様に見渡した。

「まだ片付きませんよ」と与次郎が早速(さつそく)云ふ。

「少し手伝つて頂きませうか」と美禰子が与次郎に調子を合せた。野々宮さんはにや/\笑ひながら、

「大分 (にぎ)やかな様ですね。何か面白い事がありますか」と云つて、ぐるりと後向きに縁側へ腰を掛けた。

「今僕が翻訳をして先生に叱られた所です」

「翻訳を? どんな翻訳ですか」

「なに詰まらない――可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」

「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違(すぢかひ)に向き直つた。「一体そりや何ですか。僕にや意味が分らない」

「誰にだつて分からんさ」と今度は先生が云つた。

「いや、少し言葉をつめ過ぎたから――当り前に延ばすと、()うです。可哀想だとは惚れたと云ふ事よ」

「アハヽヽ。さうして其原文は何と云ふのです」

「Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ」と美禰子が繰り返した。美くしい奇麗な発音であつた。

 野々宮さんは、縁側から立つて、二三歩庭の方へ歩き出したが、やがて又ぐるりと向き直つて、部屋を正面に(とま)つた。

「成程旨い訳だ」

 三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた。 (青空文庫より)


◇解説

広田の新居への転居の場面。一通り片付けが済み、皆は談話している。


「広田先生は例によつて烟草を呑み出した」

…タバコは間を取る時に良い小道具。三四郎と初めて会った汽車の中でも、広田はタバコをふかしていた。

「男はしきりに烟草をふかしてゐる。長い烟りを鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大変悠長に見える。」(1-6)


「与次郎は之を評して鼻から哲学の(けむ)を吐くと云つた。成程烟の出方が少し違ふ。悠然として太く逞ましい棒が二本穴を抜けて来る」

…鼻筋が通り、西洋人のような風貌の広田。

「髭を濃く生やしてゐる。面長の瘠せぎすの、どことなく神主じみた男であつた。たゞ鼻筋が真直に通つてゐる所丈が西洋らしい。」(1-5)


「与次郎は其 烟柱(えんちう)を眺めて、半分背を唐紙に持たした儘黙つてゐる。三四郎の眼はぼんやり庭の上にある。引越ではない。丸で小集の体に見える。談話も従つて気楽なものである」

…引っ越しの荷物として広田の書籍は量が多く、その片付けの疲労とサンドイッチの満腹とで、みなひと休みしている場面。


「たゞ美禰子丈が広田先生の(かげ)で、先生がさつき脱ぎ棄てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所為(しよい)と見える」

…明治時代の女性として、美禰子のこの所作は普通のことだが、新しい時代を代表する芯の強さと独立心を持つ彼女でもこのようなことをするのだと、現代の目からは見える。これには、美禰子の広田への敬愛もあるだろう。


「Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ 」を「可哀想だた惚れたつて事よ」と訳した佐々木に対し、「不可(いか)ん、不可(いか)ん、下劣の(きよく)だ」と広田は「(たちま)(にが)い顔をした」。「その云ひ方が如何(いか)にも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑ひ出した」。

笑いは人を和ませ結ぶ。やはり佐々木はこの物語におけるトリックスターだ。

この佐々木の訳は端的にして十分にその意味を表しており、決して下品ではない。疲れているみんなを笑わし慰藉する意図で、広田はわざとこのような反応をしたのだ。笑いは苦を解く。沈鬱になりかけた雰囲気をほぐす。また、佐々木が相手だからこのような反応が可能だったのだ。

さらに言うと、美禰子と三四郎も、先生の意を酌んで「笑い出した」のだ。先生がわざとおどけている。生徒はそれに従うものだ。


「此笑ひ声がまだ()まないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんが這入つて来た」

…この作話法がすばらしい。物語の展開がとてもスムーズだ。スムーズすぎて、やや嫌味を感じるほど。広田、美禰子、佐々木、三四郎の和やかな円の中に登場する野々宮。彼が入ることによって、この円は少しの乱れを生じる。


「「もう大抵片付いたんですか」と云ひながら、野々宮さんは縁側の正面の所迄来て、部屋のなかにゐる四人を覗く様に見渡した」

…明るい外から何やら楽し気な四人を覗く野々宮。先ほどまで笑い声が聞こえてきた。


「「まだ片付きませんよ」と与次郎が早速(さつそく)云ふ。

「少し手伝つて頂きませうか」と美禰子が与次郎に調子を合せた」

…加勢として来たからには働いてもらわねばなるまい。佐々木は純粋に現状を伝え、美禰子はそれに乗る形で、わざと少しじゃれつくような言い方をする。


「野々宮さんはにや/\笑ひながら、

「大分 (にぎ)やかな様ですね。何か面白い事がありますか」と云つて、ぐるりと後向きに縁側へ腰を掛けた」

…いつもの佐々木と美禰子の様子に安心しつつ、自分もその輪に入れてくれと、野々宮もいつもの調子で答える。しかし、これまでこのグループにはいなかった三四郎がいる。

「ぐるりと後向きに縁側へ腰を掛けた」姿勢から、野々宮の上半身の後ろ姿とその動きがみんなの目に触れる。


「なに詰まらない――可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」

「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違(すぢかひ)に向き直つた。「一体そりや何ですか。僕にや意味が分らない」

…「縁側で筋違(すぢかひ)に向き直つた」は、縁側に(はす)に座り直し、上半身をひねった形。イケメンの上体がひねられた姿は、世の女子の好物だろう。顔も斜めにしか見えないところがいい。

また野々宮は、「一体そりや何ですか」と語りかける形で上手に話をつないでいく。言葉に嫌味がない。


「「誰にだつて分からんさ」と今度は先生が云つた」

…場面の役割分担が完璧だ。


「いや、少し言葉をつめ過ぎたから――当り前に延ばすと、()うです。可哀想だとは惚れたと云ふ事よ」

…これは、佐々木の言葉だろう。


「「Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ」と美禰子が繰り返した。美くしい奇麗な発音であつた」

…美禰子には英語の教養がある。その「美くしい奇麗な発音」は、その場の男性の耳に響いた。野々宮の耳にも、三四郎の耳にも。佐々木は彼女をどう思っているのかは、まだ明らかにされていない。


「野々宮さんは、縁側から立つて、二三歩庭の方へ歩き出したが、やがて又ぐるりと向き直つて、部屋を正面に(とま)つた。

「成程旨い訳だ」」

…美禰子の「美くしい奇麗な発音」を聞いた野々宮は、庭に向き直り、「縁側から立」ち、「二三歩庭の方へ歩き出したが、やがて又ぐるりと向き直」り、「部屋を正面に(とま)つた」。そうして「成程旨い訳だ」というセリフを発する。まるで舞台俳優のような動きとセリフを、家の中にいる四人は見聞きさせられる。「ただしイケメンに限る」という声が聞こえてくるが、野々宮はイケメンだから許される。

「成程旨い訳だ」というセリフは、当然美禰子に強く向けられたものだ。彼女が「美くしい奇麗な発音で」「繰り返した」「Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ」への答え。


「三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた」

…野々宮は美禰子にリボンを渡す間柄。当然そのしぐさは美禰子に向けられたものであり、視線と言葉は美禰子に注がれる。三四郎は、野々宮のすべてを注意深く観察し、そこから美禰子への愛の深さとふたりの関係の深さを量ろうとしている。


〇「野々宮さん」と「野々宮君」の呼称の使い分けについて

今話では、野々宮に対して、「野々宮さん」と「野々宮君」という呼称の使い分けがなされている。それが意図的なものであると仮定して、もう一度振り返って考察してみたい。


「此笑ひ声がまだ()まないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんが這入つて来た。

「もう大抵片付いたんですか」と云ひながら、野々宮さんは縁側の正面の所迄来て、部屋のなかにゐる四人を覗く様に見渡した。

「まだ片付きませんよ」と与次郎が早速(さつそく)云ふ。

「少し手伝つて頂きませうか」と美禰子が与次郎に調子を合せた。野々宮さんはにや/\笑ひながら、

「大分 (にぎ)やかな様ですね。何か面白い事がありますか」と云つて、ぐるりと後向きに縁側へ腰を掛けた。

「今僕が翻訳をして先生に叱られた所です」

「翻訳を? どんな翻訳ですか」

「なに詰まらない――可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」

「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違(すぢかひ)に向き直つた。「一体そりや何ですか。僕にや意味が分らない」

「誰にだつて分からんさ」と今度は先生が云つた。

「いや、少し言葉をつめ過ぎたから――当り前に延ばすと、()うです。可哀想だとは惚れたと云ふ事よ」

「アハヽヽ。さうして其原文は何と云ふのです」

「Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ」と美禰子が繰り返した。美くしい奇麗な発音であつた。

 野々宮さんは、縁側から立つて、二三歩庭の方へ歩き出したが、やがて又ぐるりと向き直つて、部屋を正面に(とま)つた。

「成程旨い訳だ」

 三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた」。


この場面での「さん」と「君」の使い分けを判別するのは難しいが、強いて言えば、「さん」は三四郎の目から見た野々宮を表しているのに対し、「君」はより客観的に語り手の立場から述べられている。

この考えに立つと、この場面の三四郎は、よほど注意深く野々宮を観察していることが分かる。野々宮の一挙手一投足を、彼は見逃さない。

それに対し語り手は、特に最後の「三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた」に特徴的なのだが、三四郎と野々宮を等価に置いて述べている。語り手は、「野々宮君」と述べることで、三四郎の複雑な心情を表現している。


どうやら野々宮と美禰子は良い仲のようだ。自分も美禰子に強く引き付けられている。それなのになぜ彼女は自分に対して誘惑的な態度をとるのだろう。野々宮との関係はまだ浅いのか? 二股をかけているのか?


自分たちの関係はこれからどうなるのだろうと思案する三四郎だった。

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