夏目漱石「三四郎」本文と解説4-15 「物語を書いてもよくつて」と聞く美禰子の眼を見た時、三四郎は今朝籃をさげて折戸からあらはれた瞬間の女を思ひ出した。
◇本文
二人が書斎から廊下伝ひに、座敷へ来て見ると、座敷の真中に美禰子の持つて来た籃が据ゑてある。蓋が取つてある。中にサンドヰツチが沢山這入つてゐる。美禰子は其傍に坐つて、籃の中のものを小皿へ取り分けてゐる。与次郎と美禰子の問答が始つた。
「能く忘れずに持つて来ましたね」
「だつて、わざ/\御注文ですもの」
「其籃も買つて来たんですか」
「いゝえ」
「家にあつたんですか」
「えゝ」
「大変大きなものですね。車夫でも連れて来たんですか。序でに、少しの間置いて働らかせれば可いのに」
「車夫は今日は使に出ました。女だつて此位なものは持てますわ」
「あなただから持つんです。外の御嬢さんなら、まあ已めますね」
「さうでせうか。夫なら私も已めれば可かつた」
美禰子は食物を小皿へ取りながら、与次郎と応対してゐる。言葉に少しも淀みがない。しかも緩り落付いてゐる。殆んど与次郎の顔を見ない位である。三四郎は敬服した。
台所から下女が茶を持つてくる。籃を取り巻いた連中は、サンドヰツチを食ひ出した。少しの間は静であつたが、思ひ出した様に与次郎が又広田先生に話しかけた。
「先生、序だから一寸聞いて置きますが先刻の何とかベーンですね」
「アフラ、ベーンか」
「全体何です、そのアフラ、ベーンと云ふのは」
「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」
「十七世紀は古る過ぎる。雑誌の材料にやなりませんね」
「古い。然し職業として小説に従事した始めての女だから、それで有名だ」
「有名ぢや困るな。もう少し伺つて置かう。どんなものを書いたんですか」
「僕はオルノーコと云ふ小説を読んだ丈だが、小川さん、さういふ名の小説が全集のうちにあつたでせう」
三四郎は奇麗に忘れてゐる。先生に其梗概を聞いて見ると、オルノーコと云ふ黒ん坊の王族が英国の船長に瞞されて、奴隷に売られて、非常に難義をする事が書いてあるのださうだ。しかも是は作家の実見譚だとして後世に信ぜられてゐたといふ話である。
「面白いな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちやあ」と与次郎は又美禰子の方へ向かつた。
「書いても可ござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でも可いぢやありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護する様に言つたが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いても可くつて」と聞いた。其眼を見た時に、三四郎は今朝籃を提げて、折戸からあらはれた瞬間の女を思ひ出した。自ら酔つた心地である。けれども酔つて竦んだ心地である。どうぞ願ひます抔とは無論云ひ得なかつた。 (青空文庫より)
◇解説
広田の引っ越しの片づけがひと段落した場面。
「二人が書斎から廊下伝ひに、座敷へ来て見ると、座敷の真中に美禰子の持つて来た籃が据ゑてある。蓋が取つてある。中にサンドヰツチが沢山這入つてゐる。美禰子は其傍に坐つて、籃の中のものを小皿へ取り分けてゐる」
…「座敷の真中」に置かれた「籃」と、「其傍に坐」る美禰子。舞台の中央に君臨する女王の様相だ。彼女はかいがいしく「籃の中のものを小皿へ取り分けてゐる」。当然男性たちの視線は彼女と彼女の手、その女性性に集まる。
「与次郎と美禰子の問答が始つた。
「能く忘れずに持つて来ましたね」
「だつて、わざ/\御注文ですもの」」
…この場面で微妙なのは、このサンドイッチをどこかの店で購入したのか、または美禰子お手製のものかということだ。彼女の料理の腕前を発揮する場面であり、また料理にはその人の食生活や品格が表れる。明治時代にサンドイッチは、庶民・三四郎にはまだ目新しかっただろう。美禰子にとっては日常だろうが。
さらにこの会話から、美禰子と佐々木の気安い関係が分かる。佐々木は彼女にサンドイッチを作って持ってくることを依頼できる関係だ。さらにその受け答えも、佐々木がちょっかいを出した言葉にこだわらずに返すというもの。
「「其籃も買つて来たんですか」
「いゝえ」
「家にあつたんですか」
「えゝ」」
…「大変大きな」バスケットは、裕福な家にしかないだろう。それを所有している美禰子の暮らしぶりが察せられる。また、無ければすぐに購入できる様子もうかがえる。
ところで、「其籃も買つて来たんですか」の「も」は、サンドイッチ「も」「買つて来た」という意味にも取れるし、また、佐々木の「注文」・依頼によって美禰子がサンドイッチを作って「忘れずに持つて来」たし、その運搬のために「其籃も買つて」持って「来た」とも取れる。つまり、佐々木の「注文」は、サンドイッチを作ってきてくれというものとも取れる。ここはそのどちらにも解釈できる。
「「大変大きなものですね。車夫でも連れて来たんですか。序でに、少しの間置いて働らかせれば可いのに」
「車夫は今日は使に出ました。女だつて此位なものは持てますわ」」
…「車夫は今日は使に出ました」から、美禰子の家にはお抱えの車夫がいたことが分かる。美禰子は財力のある家のお嬢様なのだ。
「女だつて此位なものは持てますわ」から、美禰子の自立心の高さがうかがえる。
〇車夫について
「車夫は人力車を曳く人のことで、明治から大正時代に多くの車夫が働いていたようである。また車夫には人力車を保有し営業をしている車屋に属する人と地域の富裕な家が所有している人力車を専用に曳くお抱え車夫があった。市域でも医者などが人力を保有していることが多く、人力車の車夫を抱えていた」(亀山市史民俗 交通・交易)
「「あなただから持つんです。外の御嬢さんなら、まあ已めますね」
「さうでせうか。夫なら私も已めれば可かつた」」
…何でも自力でこなそうとする自分を揶揄する佐々木に、美禰子も軽く返す場面。互いに相手にちょっかいを出した言葉。「何を言うの。私もお嬢様よ」と、佐々木を少し責める意味も含む。「せっかくみんなのためにと思っていろいろやってあげてるのに、損したわ」とじゃれる気持ち。
「外の御嬢さんなら」、サンドイッチを配ることも、それは女中の仕事だと言って「已め」るかもしれない。しかし美禰子は作業を続ける。佐々木の言うことにいちいち構っていられないからだ。また、ふたりの言葉には、本心は含まれていない。
「美禰子は食物を小皿へ取りながら、与次郎と応対してゐる。言葉に少しも淀みがない。しかも緩り落付いてゐる。殆んど与次郎の顔を見ない位である」。
佐々木の扱いの巧みさに「三四郎は敬服した」。東京の若い女性は、「三輪田の御光さん」とは違うと。
美禰子はいらぬ恥じらいや媚を見せない。一人の人間として独立して存在しているということを感じさせ、他者に寄り掛からない芯の強さがある。若い男を相手にしても、心に余裕がある。そのような部分に、三四郎はかなわないと感じている。
「思ひ出した様に与次郎が又広田先生に話しかけた。
「先生、序だから一寸聞いて置きますが先刻の何とかベーンですね」
「アフラ、ベーンか」
「全体何です、そのアフラ、ベーンと云ふのは」
「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」」
…「思ひ出した様に」、「序だから一寸聞いて置きますが」とあるが、そもそも一般家庭でこのような会話は成立しない。したがって、広田を中心とするこのグループはやはり、文化・文学サロンと言っていい。佐々木もそのおこぼれに与っているのだ。
「閨秀」…学芸にすぐれた女性。(三省堂「新明解国語辞典」)
「十七世紀は古る過ぎる。雑誌の材料にやなりませんね」
「古い。然し職業として小説に従事した始めての女だから、それで有名だ」
「有名ぢや困るな。もう少し伺つて置かう。どんなものを書いたんですか」
…広田を世に出そうという考えのもとの、佐々木の発言。新しく、皆が知らない事柄についての教養であれば、教授と認めてもらえる可能性が高いと、佐々木は踏んでいるようだ。
「「僕はオルノーコと云ふ小説を読んだ丈だが、小川さん、さういふ名の小説が全集のうちにあつたでせう」
三四郎は奇麗に忘れてゐる」
…東京大学の文学部生であるからには、大学図書館で見かけた本の記憶があるだろうと広田は思っている。しかし三四郎は先生の期待に副うことはできなかった。「三四郎は奇麗に忘れてゐる」のではなく、そもそも認識もしていないだろう。
「先生に其梗概を聞いて見ると、オルノーコと云ふ黒ん坊の王族が英国の船長に瞞されて、奴隷に売られて、非常に難義をする事が書いてあるのださうだ。しかも是は作家の実見譚だとして後世に信ぜられてゐたといふ話である。
「面白いな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちやあ」と与次郎は又美禰子の方へ向かつた。
「書いても可ござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でも可いぢやありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護する様に言つたが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いても可くつて」と聞いた」
…この部分を素直に解釈してみたい。
「オルノーコと云ふ黒ん坊」=三四郎=「瞞され」「売られ」、「非常に難義をする」ことになる。
「アフラ・ベーン」=美禰子=(美禰子の)「実見譚」
「書いても可くつて」=この物語のとおりに、あなたを処遇しても良いか、という戯れ。
三四郎は美禰子の紡ぎ出す物語によって、悲惨な目にあわされそうだ。しかもその現実化を、彼女はたくらむふりをする。さらには「其眼」が妖しく輝く。
「其眼を見た時に、三四郎は今朝籃を提げて、折戸からあらはれた瞬間の女を思ひ出した。自ら酔つた心地である。けれども酔つて竦んだ心地である」
…「折戸からあらはれた瞬間の女」(ここで美禰子を「女」と呼んだのは、まさにこの時彼女は「女」だったからだ)を再掲する。
「「失礼で御座いますが……」
女は此句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例の通り前へ浮かしたが、顔は決して下げない。会釈しながら、三四郎を見詰めてゐる。女の咽喉が正面から見ると長く延びた。同時に其眼が三四郎の眸に映つた。
二三日前三四郎は美学の教師からグルーズの画を見せてもらつた。其時美学の教師が、此人の画いた女の肖像は悉くヴォラプチユアスな表情に富んでゐると説明した。ヴォラプチユアス! 池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴へ方である。甘いものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴へ方である。甘いと云はんよりは苦痛である。卑しく媚びるのとは無論違ふ。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付きである。しかも此女にグルーズの画と似た所は一つもない。眼はグルーズのより半分も小さい。」(4-10)
自分の心を鷲づかみにする「艶なるあるもの」。「官能の骨を透して髄に徹」し、「烈しい刺激と変ずる訴へ方」。「苦痛」を感じさせ、「見られるものの方が是非媚びたくなる程」の「残酷な眼付き」。
まるで千手観音のように美禰子から伸びる触手は、三四郎の官能をくすぐる。「刺激」、「苦痛」、隷従。彼女の妖しい魅力に、三四郎は完全にからめとられようとしている。彼の体と心からは、力が抜けてしまっている。
酒は適量なら心地よい酔いをもたらすが、飲みすぎると酩酊・二日酔いとなる。美禰子という酒を飲んだ三四郎は、悪酔いし、当分回復は無理だろう。
だから彼は、「どうぞ願ひます抔とは無論云ひ得なかつた」のだ。自分と美禰子の「物語」は、まるで結果の予想がつかず、波乱必定だ。
漱石の物語の主人公は、「恐れる男」だ。美禰子によって三四郎もその仲間入りをしたことになる。