夏目漱石「三四郎」本文と解説4-14 「人魚(マーメイド)」「人魚(マーメイド)」 頭を擦(す)り付けた二人は同じ事をさゝやいだ。
◇本文
三人は約三十分 許根気に働いた。仕舞にはさすがの与次郎もあまり焦つ付かなくなつた。見ると書棚の方を向いて胡坐をかいて黙つてゐる。美禰子は三四郎の肩を一寸突つ付いた。三四郎は笑ひながら、
「おい如何した」と聞く。
「うん。先生もまあ、斯んなに入りもしない本を集めて如何する気かなあ。全く人泣かせだ。今 之を売つて株でも買つて置くと儲かるんだが、仕方がない」と嘆息した儘、矢っ張り壁を向いて胡坐をかいてゐる。
三四郎と美禰子は顔を見合せて笑つた。肝心の主脳が動かないので、二人共書物を揃へるのを控へてゐる。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝の上に開いた。勝手の方では臨時雇の車夫と下女がしきりに論判してゐる。大変騒々しい。
「一寸御覧らんなさい」と美禰子が小さな声で云ふ。三四郎は及び腰になつて、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪で香水の匂ひがする。
画はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になつて、魚の胴が、ぐるりと腰を廻つて、向ふ側に尾だけ出てゐる。女は長い髪を櫛で梳きながら、梳き余つたのを手に受けながら、此方を向いてゐる。背景は広い海である。
「人魚」
「人魚」
頭を擦り付けた二人は同じ事をさゝやいだ。此時胡坐をかいてゐた与次郎が何と思つたか、
「何だ、何を見てゐるんだ」と云ひながら廊下へ出て来た。三人は首を鳩めて画帖を一枚毎に繰つて行つた。色々な批評が出る。みんな好加減(いゝかげん)である。
所へ広田先生がフロツクコートで天長節の式から帰つて来た。三人は挨拶をするときに画帖を伏せて仕舞つた。先生が書物丈早く片付様といふので、三人が又根気に遣り始めた。今度は主人公がゐるので、さう油を売る事も出来なかつたと見えて、一時間後には、どうか、かうか廊下の書物が、書棚の中へ詰まつて仕舞つた。四人は立ち並んで奇麗に片付いた書物を一応眺めた。
「あとの整理は明日だ」と与次郎が云つた。是で我慢なさいと云はぬ許である。
「大分御集めになりましたね」と美禰子が云ふ。
「先生是丈みんな御読みになつたですか」と最後に三四郎が聞いた。三四郎は実際参考の為め、この事実を確めて置く必要があつたと見える。
「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」
与次郎は頭を掻いてゐる。三四郎は真面目になつて、実は此間から大学の図書館で、少し宛本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ず誰か目を通してゐる。試しにアフラ、ベーンといふ人の小説を借りて見たが、矢っ張りだれか読んだ痕があるので、読書範囲の際限が知りたくなつたから聞いて見たと云ふ。
「アフラ、ベーンなら僕も読んだ」
広田先生の此一言には三四郎も驚ろいた。
「驚ろいたな。先生は何でも人の読まないものを読む癖がある」と与次郎が云つた。
広田は笑つて座敷の方へ行く。着物を着換へる為だらう。美禰子も尾いて出た。あとで与次郎が、三四郎にかう云つた。
「あれだから偉大な暗闇だ。何でも読んでゐる。けれども些とも光らない。もう少し流行るものを読んで、もう少し出娑婆つて呉れると可いがな」
与次郎の言葉は決して冷評ではなかつた。三四郎は黙つて本箱を眺めてゐた。すると座敷から美禰子の声が聞えた。
「御馳走を上げるから、御二人とも入らつしやい」 (青空文庫より)
◇解説
広田の引っ越しの場面。
三人は手分けして荷物の片づけを「約三十分 許根気に働いた」。「仕舞にはさすがの与次郎もあまり焦つ付かなくなつた。見ると書棚の方を向いて胡坐をかいて黙つてゐる」。先ほど三四郎をたしなめた本人がこれでは示しがつかない。
だから「美禰子は三四郎の肩を一寸突つ付」き、それに応じて「三四郎は笑ひながら、「おい如何した」と聞」いたのだ。
「「うん。先生もまあ、斯んなに入りもしない本を集めて如何する気かなあ。全く人泣かせだ。今 之を売つて株でも買つて置くと儲かるんだが、仕方がない」と嘆息した儘、矢っ張り壁を向いて胡坐をかいてゐる。」
…佐々木は本の内容にも興味があって眺めているのだろうが、書籍に書かれた価値を全く認めず、それを売却して金儲けをたくらむなど、学生の風上にも置けないやつだ。おまけに整理ははかどらない。
金儲けを考え、また、動こうともしない佐々木に、「三四郎と美禰子は顔を見合せて笑つた」。いつもの佐々木の様子を見て、ふたりは共感を深める。同じものを見て、同じように笑うことができる相手なのだということを確認した場面。
「肝心の主脳が動かないので、二人共書物を揃へるのを控へてゐる。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝の上に開いた。勝手の方では臨時雇の車夫と下女がしきりに論判してゐる。大変騒々しい」
…ここは演劇の舞台としてとても良いシーン。若い三人が部屋でそれぞれのことをして静かなのに対し、彼等とは無関係に外で論判しあう人たち。広田を媒介に、さまざまな登場人物が関わり合うことを分かりやすく表現している。とても映像的な描写。
「「一寸御覧らんなさい」と美禰子が小さな声で云ふ。三四郎は及び腰になつて、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪で香水の匂ひがする」
…匂いの記憶は、深く長く記憶に残る。ふたりの顔は接近する。しかもその「画はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になつて、魚の胴が、ぐるりと腰を廻つて、向ふ側に尾だけ出てゐる。女は長い髪を櫛で梳きながら、梳き余つたのを手に受けながら、此方を向いてゐる。背景は広い海である」。裸体の女を男女がふたりで眺める時、そこには様々な感情がわいている。恥じらい、気まずさ、異性とのエロの共有。従って、まだ関係の浅いふたりが眺めるには、刺激的な画ということになる。
「「人魚」
「人魚」
頭を擦り付けた二人は同じ事をさゝやいだ。」
…ふたりの同じ言葉の復唱は、「ストレイシープ」を想起させる。
「マーメイド」は日本でも西洋でも凶兆とされ、やがて嵐が来たり、戦乱となったりする兆しを表す。永遠の命を持つ人魚が寿命を持つ人間と婚姻するためには、
「キリスト教義での寓意的意味
セイレーンが美貌や美声で男を破滅に導く娼婦たる「快楽」の寓意・象徴であることは、早期のキリスト教義にも見える 。加えて櫛や手鏡らの持物は虚栄心(自惚れ)を意味する、ともされる」(人魚 - Wikipedia)
この人魚を美禰子だとすると、彼女も女性性とともに不可解な謎を三四郎に残す。以前述べたとおり、美禰子も様々な小道具を手に持つ。
〇「人魚姫」(人魚姫 - Wikipedia)
「短剣を差し出す姉たち
王妃を失って久しい男やもめの人魚の王は母君に6人の娘の教育をして貰っていた。人魚姫の姉妹は1歳ずつ年齢が異なり、毎年1人ずつ海の上に行った。末の姫は15歳の誕生日にのぼった海の上で船の上にいる美しい人間の王子を目のあたりにして恋心を抱くが、その夜の嵐で彼の乗船した船は難破し、王子は意識を失って海に放り出される。人魚姫はすぐそばまで流れて来た彼が水中にいると死んでしまうことに気が付き、一晩中海面に持ち上げ続けた。朝日が出ても彼が意識を取り戻さないので温かい浜辺の方がよいだろうと考え、岸辺に王子を横たえ、自分は遠巻きにして様子を見ていたところ、近くの修道院から出てきた女性が王子に気が付き連れて行ったのでそのまま人魚姫は海の底に戻っていった。
このことをきっかけに人間に強い興味を持った彼女は祖母に人間についていろいろ質問したところ、300年生きられる自分たちとは違い人間は短命だが、死ねば泡となって消える自分たちとは違い人間は魂というものを持っていて天国に行くと言った。それを手に入れるにはどうしたらいいのかと尋ねると「人間が自分たちを愛して結婚してくれれば可能」だが「全く異形の人間が人魚たちを愛することはないだろう」とほぼ不可能だと告げられる。
そこで人魚姫は海の魔女の家を訪れ、美しい声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰う。魔女から「王子に愛を貰うことが出来なければ、姫は海の泡となって消えてしまう」と警告を受ける。更に人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるとも言われたが、それでも人魚姫の意思は変わらず薬を飲んだ。陸にあがり、人間の姿で倒れている人魚姫を見つけた王子は声をかけるが、人魚姫は声が出ない。その後、王子と一緒に宮殿で暮らすようになった人魚姫であったが、魔女に言われたとおりに歩くたびに足は激痛が走るうえ、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話せず、王子は人魚姫が命の恩人だとは気づかなかった。
それでも王子は彼女を可愛がり、歩くのが不自由な彼女のために馬に乗せてあちこちを連れて回り、また彼女と「おぼれていたところを助けてくれた人」が似ているともいうが、それは浜辺で彼を発見・保護してくれた修道院の女性の事で「彼女は修道院の人(修道女)だから結婚なんてできないだろう」とややあきらめ気味で「僕を助けてくれた女性は修道院から出て来ないだろうし、どうしても結婚しなければならないとしたら彼女に瓜二つのお前と結婚するよ」と人魚姫に告げた。
ところがやがて隣国の姫君との縁談が持ち上がるが、その姫君こそ王子が想い続けていた女性だった。修道院へは修道女としてではなく教養をつけるために入っていたのだという。見も知らぬ姫君を好きにはなれないと思っていたし、心に抱く想い人とは二度と会えないだろうと諦めていた王子は、予想だにしなかった想い人が縁談の相手の姫君だと知り、喜んで婚姻を受け入れて姫君をお妃に迎えるのだった。
悲嘆に暮れる人魚姫の前に現れた姫の姉たちが髪と引き換えに海の魔女に貰ったナイフを差し出し、王子の流した返り血を浴びることで人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝える。眠っている王子にナイフを構えるが、隣で眠る姫君の名前を呟く王子の寝言を聞く。手を震わせた後ナイフを遠くの波間へ投げ捨てると、海はみるみる真っ赤に染まった。人魚姫は愛する王子を殺すことと彼の幸福を壊すことができずに死を選び、海に身を投げて泡に姿を変えた。結局は王子の愛を得られずに泡になってしまった人魚姫だったが、彼女はそのまま消えてしまったわけではなく風の精(空気の精霊)に生まれ変わり、泡の中からどんどん空に浮かび上がっていった。(後略)」
三四郎と美禰子はやはり、結ばれる運命にはない。
「此時胡坐をかいてゐた与次郎が何と思つたか、
「何だ、何を見てゐるんだ」と云ひながら廊下へ出て来た」
…ふたりのいい雰囲気を壊すのが、佐々木の役割だ。
「三人は首を鳩めて画帖を一枚毎に繰つて行つた。色々な批評が出る。みんな好加減(いゝかげん)である」
…いっとき、性別を忘れる、若者たちのざっくばらんな様子。
「所へ広田先生がフロツクコートで天長節の式から帰つて来た。三人は挨拶をするときに画帖を伏せて仕舞つた」
…天長節は、明治天皇の誕生日。その祝賀の儀式が学校で行われた。フロックコートは男性の礼装。厳かな儀式から帰った礼服の先生に、マーメイドの画集は似合わない。先生にとがめられる。また、片付けもせずに画に見入っていたことが分かると、これもまた先生に叱られる。
「先生が書物丈早く片付様といふので、三人が又根気に遣り始めた。今度は主人公がゐるので、さう油を売る事も出来なかつたと見えて、一時間後には、どうか、かうか廊下の書物が、書棚の中へ詰まつて仕舞つた」
…書物を先に片づけるということから、その量の多さが分かる。それを先にしないと、日常生活が成り立たないのだ。先生の前で若者たちはさぼるわけにもいかない。
「四人は立ち並んで奇麗に片付いた書物を一応眺めた」
…とても映像的なシーン。
「「あとの整理は明日だ」と与次郎が云つた。是で我慢なさいと云はぬ許である」
…仲間への宣言は、先生への報告を兼ねている。
「大分御集めになりましたね」という美禰子のセリフはよいが、「先生是丈みんな御読みになつたですか」と最後に三四郎が聞いたセリフは先生をバカにしている。だから語り手は、「三四郎は実際参考の為め、この事実を確めて置く必要があつたと見える」と補足説明したのだ。
広田は隠さず素直に「みんな読めるものか」と答える。広田と若者たちのざっくばらんな関係がうかがわれる。続いて広田は、「佐々木なら読むかもしれないが」と揶揄し、場を和ませる。
三四郎は大学の図書館の本に必ず誰かが目を通していることへの驚きを語る。「読書範囲の際限が知りたくなつたから聞いて見た」のだった。
広田は「アフラ、ベーンなら僕も読んだ」と答え、みな驚く。
「驚ろいたな。先生は何でも人の読まないものを読む癖がある」という佐々木の揶揄に、広田は構わず「笑つて座敷の方へ行」った。世話になっている書生の、自身への公然の揶揄を、広田は「笑って」受け流す。
「「あとで与次郎が、三四郎にかう云つた。
「あれだから偉大な暗闇だ。何でも読んでゐる。けれども些とも光らない。もう少し流行るものを読んで、もう少し出娑婆つて呉れると可いがな」」
…佐々木は真にそう思っているようだ。「決して冷評ではなかつた」。「三四郎は黙つて本箱を眺めて」考える。
「すると座敷から美禰子の声が聞えた。
「御馳走を上げるから、御二人とも入らつしやい」」
…おいしいものには誰でも目が無い。「御馳走」と美禰子という餌につられ、ふたりは声の方へ向かう。