夏目漱石「三四郎」本文と解説4-13 「早いな」と与次郎が先づ声を掛けた。「遅いな」と三四郎が応へた。
◇本文
所へ遠くから荷車の音が聞える。今、静かな横町を曲がつて、此方へ近付いて来るのが地響きでよく分かる。三四郎は「来た」と云つた。美禰子は「早いのね」と云つた儘 凝としてゐる。車の音の動くのが、白い雲の動くのに関係でもある様に耳を澄ましてゐる。車は落付いた秋の中を容赦なく近付いて来る。やがて門の前へ来て留まつた。
三四郎は美禰子を捨てゝ二階を馳け降りた。三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門を這入るのとが同時同刻であつた。
「早いな」と与次郎が先づ声を掛けた。
「遅いな」と三四郎が応へた。美禰子とは反対である。
「遅いつて、荷物を一度に出したんだから仕方がない。それに僕一人だから。余は下女と車屋許でどうする事も出来ない」
「先生は」
「先生は学校」
二人が話を始めてゐるうちに、車屋が荷物を卸し始めた。下女も這入つて来た。台所の方を下女と車屋に頼んで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物が沢山ある。並べるのは一仕事だ。
「里見の御嬢さんは、まだ来てゐないか」
「来てゐる」
「何所に」
「二階にゐる」
「二階に何をしてゐる」
「何をしてゐるか、二階にゐる」
「冗談ぢやない」
与次郎は本を一冊持つた儘、廊下伝ひに階子段の下迄行つて、例の通りの声で、
「里見さん、里見さん。書物を片付けるから、一寸手伝つて下さい」と云ふ。
「たゞ今参ります」
箒とハタキを持つて、美禰子は静かに降りて来た。
「何をして居ゐたんです」と下から与次郎が焦き立てる様に聞く。
「二階の御掃除」と上から返事があつた。
降りるのを待ち兼ねて、与次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて来た。車力の卸した書物が一杯積んである。三四郎が其中へ、向ふむきに跼んで、しきりに何か読み始めてゐる。
「まあ大変ね。是をどうするの」と美禰子が云つた時、三四郎は跼みながら振り返つた。にや/\笑つてゐる。
「大変も何もありやしない。これを室の中へ入れて、片付けるんです。今に先生も帰つて来て手伝ふ筈だから訳はない。――君、跼んで本なんぞ読み出しちや困る。後で借りて行つて緩り読むがいゝ」と与次郎が小言を云ふ。
美禰子と三四郎が戸口で本を揃へると、それを与次郎が受取つて室の中の書棚へ並べるといふ役割が出来た。
「さう乱暴に、出しちや困る。まだ此続きが一冊ある筈だ」と与次郎が青い平たい本を振り廻す。
「だつて無いんですもの」
「なに無い事があるものか」
「有つた、有つた」と三四郎が云ふ。
「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリー、オフ、インテレクチユアル、デェ゛ロツプメント。あら有つたのね」
「あら有つたも無いもんだ。早く御出しなさい」 (青空文庫より)
◇解説
掃除に疲れた二人が雲を眺めていた「所へ遠くから荷車の音が聞える」。ふたりだけの「静かな」世界を壊す音だ。「今、静かな横町を曲がつて、此方へ近付いて来るのが地響きでよく分かる」。
「三四郎は「来た」と云つた」…引越しの手伝いに勇む三四郎は、ただそれだけしか考えられない。だから待っていた一団がやっと「来た」と思う。
「美禰子は「早いのね」と云つた儘 凝としてゐる。車の音の動くのが、白い雲の動くのに関係でもある様に耳を澄ましてゐる」…静かなふたりだけの時間と空間を破られたので、美禰子は不快なのだ。到着が「早」すぎる。ふたりの余韻に浸りたい彼女は、以前の姿勢を崩さない。
「車は落付いた秋の中を容赦なく近付いて来る。やがて門の前へ来て留まつた」…ふたりの「落ち着いた」気も知らず、「容赦なく近付いて来る」車。とうとうそれは新居へ到着した。
もう少し二人きりでいたい美禰子の気も知らず、「三四郎は美禰子を捨てゝ二階を馳け降りた」。美禰子は自分を「捨てて」駆け下りた三四郎を恨めしく思っただろう。だから三四郎はここで、彼女のプライドを傷つけてしまう。そうしてそれに気づかない。
「三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門を這入るのとが同時同刻であつた」…男には男同士の世界がある。
「「早いな」と与次郎が先づ声を掛けた」…ざっくばらんな男の会話。
「「遅いな」と三四郎が応へた。美禰子とは反対である」…同上。三四郎は美禰子の心情を察しない。
広田は高校の英語教師だけあって、「書物が沢山ある。並べるのは一仕事だ」。
「「里見の御嬢さんは、まだ来てゐないか」
「来てゐる」
「何所に」
「二階にゐる」
「二階に何をしてゐる」
「何をしてゐるか、二階にゐる」」
…ここで三四郎は小さなうそをつく。美禰子は流れる雲を見ている。
「「冗談ぢやない」
与次郎は本を一冊持つた儘、廊下伝ひに階子段の下迄行つて、例の通りの声で、「里見さん、里見さん。書物を片付けるから、一寸手伝つて下さい」と云ふ」
…自分たちが到着するまでそこで何があったかを全く知らない佐々木をことさらに描くことで、登場人物それぞれの心情の落差を描いている。
「「たゞ今参ります」
箒とハタキを持つて、美禰子は静かに降りて来た」
…美禰子もそしらぬふりで下界へ降りてきた。
「「何をして居ゐたんです」と下から与次郎が焦き立てる様に聞く。
「二階の御掃除」と上から返事があつた」
…三四郎と同様、美禰子も小さなうそをつく。ふたりはうそで秘密の共有をする。
「降りるのを待ち兼ねて、与次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて来た」
…何も知らぬ佐々木の様子。
「車力の卸した書物が一杯積んである。三四郎が其中へ、向ふむきに跼んで、しきりに何か読み始めてゐる」
…引っ越しや部屋の片づけの時にしがちなこと。これをしだすと片付けが進まない。
「「まあ大変ね。是をどうするの」と美禰子が云つた時、三四郎は跼みながら振り返つた。にや/\笑つてゐる」
…どうするもなにも、片づけなければならない。そんなことにも気づけないお嬢様な美禰子というわけではなく、ここは、そんな大変な自分たちでしなければならない大変さへのつぶやき。そのとぼけたセリフに、三四郎は面白味を感じている。
「美禰子と三四郎が戸口で本を揃へると、それを与次郎が受取つて室の中の書棚へ並べるといふ役割が出来た」
…ここでの人間関係が、そのまま配置と仕事分担という形で表されている。
「「さう乱暴に、出しちや困る。まだ此続きが一冊ある筈だ」と与次郎が青い平たい本を振り廻す」
…言葉と行動が不一致な佐々木の様子。「乱暴」に扱うのは「困る」本を、「振り廻」してはいけない。佐々木は大切だと思っていない。これには作業量の多さもあるだろうが。
「「だつて無いんですもの」
「なに無い事があるものか」
「有つた、有つた」と三四郎が云ふ」
…お嬢様の美禰子は、よくよく探すことをしない。
「「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリー、オフ、インテレクチユアル、デェ゛ロツプメント。あら有つたのね」」
…明治時代のお嬢様は、「どら」といい、また「拝見」と極端な省略をしたのだろうか。美禰子の男っぽい様子。彼女は英語をたしなむ。「あら有つたのね」というセリフは、とぼけたかわいさもあるが、佐々木が言うとおり、「あら有つたも無いもんだ。早く御出しなさい」ということにもなる。
この場面のやり取りから、美禰子と佐々木は懇意にしている様子がうかがえる。当然三四郎も、そのように感じているだろう。
「東京へ着きさへすれば、此位の男は到る所に居るものと信じて、別に姓名を尋ね様ともしなかつた」(1-8)三四郎だったが、上京途中の汽車の中で偶然出会った男=広田を中心として、そのグループ構成員たちとの交流が、彼の大学生活に様々な刺激を与えることとなる。