夏目漱石「三四郎」本文と解説1-4「女は落付いた調子で、「あなたは余つ程度胸のない方ですね」と云つて、にやりと笑つた」
◇本文
そこへ下女が床を延べに来る。広い蒲団を一枚しか持つて来ないから、床は二つ敷かなくては不可ないと云ふと、部屋が狭いとか、蚊帳が狭いとか云つて埒が明かない。面倒がる様にも見える。仕舞には只今番頭が一寸と出ましたから、帰つたら聞いて持つて参りませうと云つて、頑固に一枚の蒲団を蚊帳一杯に敷いて出て行つた。
夫から、しばらくすると女が帰つて来た。どうも遅くなりましてと云ふ。蚊帳の影で何かしてゐるうちに、がらん/\といふ音がした。小供に見舞の玩具が鳴つたに違ない。女はやがて風呂敷包を元の通りに結んだと見える。蚊帳の向ふで「御先へ」と云ふ声がした。三四郎はたゞ「はあ」と答へた儘で、敷居に尻を乗せて、団扇を使つてゐた。いつそ此儘で夜を明かして仕舞ふかとも思つた。けれども蚊がぶん/\来る。外ではとても凌ぎ切れない。三四郎はついと立つて、革鞄の中から、キヤラコの襯衣と洋袴下を出して、それを素肌へ着けて、其上から紺の兵児帯を締めた。それから西洋手拭を二筋持つた儘蚊帳の中へ這入つた。女は蒲団の向ふの隅でまだ団扇を動かしてゐる。
「失礼ですが、私は疳性で他人の布団に寐るのが嫌だから……少し蚤除の工夫を遣るから御免なさい」
三四郎はこんな事を云つて、あらかじめ、敷いてある敷布の余つてゐる端を女の寐てゐる方へ向けてぐる/\捲き出した。さうして布団の真中に白い長い仕切りを拵らへた。女は向ふへ寐返りを打つた。三四郎は西洋手拭を広ひろげて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、其上に細長く寐た。其晩は三四郎の手も足も此幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかつた。女とは一言も口を利かなかつた。女も壁を向いた儘 凝として動かなかつた。
夜はやう/\明けた。顔を洗つて膳に向つた時、女はにこりと笑つて、「昨夜は蚤は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「えゝ、難有う、御蔭さまで」と云ふ様な事を真面目に答へながら、下を向いて、御猪口の葡萄豆をしきりに突つき出した。
勘定をして宿を出て、停車場へ着いた時、女は始めて、関西線で四日市の方へ行くのだと云ふ事を三四郎に話した。三四郎の汽車は間もなく来た。時間の都合で女は少し待ち合せる事となつた。改札場の際迄送つて来た女は、
「色々御厄介になりまして、……では御機嫌よう」と丁寧に御辞儀をした。三四郎は革鞄と傘を片手に持つた儘、空いた手で例の古帽子を取つて、只一言、
「左様なら」と云つた。女は其顔を凝と眺めてゐたが、やがて落付いた調子で、
「あなたは余つ程度胸のない方ですね」と云つて、にやりと笑つた。三四郎はプラツト、フオームの上へ弾き出された様な心持がした。車の中へ這入つたら両方の耳が一層 熱り出した。しばらくは凝と小さくなつてゐた。やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首を出した。女はとくの昔に何処かへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼に着いた。三四郎は又そつと自分の席に返つた。乗合は大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人もない。只筋向ふに坐つた男が、自分の席に返る三四郎を一寸と見た。 (青空文庫より)
◇解説
「そこへ下女が床を延べに来る」以降の部分も、三四郎の言い訳がましさを強く感じる。「床は二つ敷かなくては不可ないと云ふと、部屋が狭いとか、蚊帳が狭いとか云つて埒が明かない」の部分は、下女に強く言えばいいだけだ。「面倒がる様にも見える」と、忖度する必要もない。そもそも、部屋を別にとればよい。「仕舞には只今番頭が一寸と出ましたから、帰つたら聞いて持つて参りませうと云つて、頑固に一枚の蒲団を蚊帳一杯に敷いて出て行つた」というのも、ことさら下女のせいにしている。三四郎は、女との同衾を、下女・他者のせいにしようとしている。
「しばらく」して「帰つて来た」女は、「どうも遅くなりましてと」落ち着いた様子。彼女が「蚊帳の影で何かしてゐるうちに、がらん/\といふ音がした。小供に見舞の玩具が鳴つたに違ない。女はやがて風呂敷包を元の通りに結んだと見える」。女の心の中心には、いとしい子供が存在している。その子に久しぶりに会えると思えばこそ、土産のおもちゃを買うのだし、それを確認するのだ。
ところで、この「蚊帳の影で何かしてゐるうちに、がらん/\といふ音がした。小供に見舞の玩具が鳴つたに違ない」について、このおもちゃには二つの可能性が考えられる。一つは、先日京都の蛸薬師のそばで購入したもの、もう一つはわざわざ外出して名古屋で買ったものだ。後者であれば、女の外出の目的がはっきりし、またそれは納得のいくものだが、前者だとすると、では女はどこに何をしに出掛けたのかということになる。普通に読めば、先ほどの外出はおもちゃを買いに出掛け、そうしてそれを風呂敷包みの中にしまい込んだ時に音が鳴ったと読め、かわいい子の土産はいくつあってもいいということになる。この場合、それほど大切に思う子と遠く離れて暮らしていた女の不憫さが募る。夫は中国に出かけたきり音沙汰なしだ。
「蚊帳の向ふで「御先へ」と云ふ声がした。三四郎はたゞ「はあ」と答へた儘で、敷居に尻を乗せて、団扇を使つてゐた」。
…三四郎にとって、「御先へ」の解釈が難しかったろう。先に布団に入って寝ます。の意味なのか、それとも、先に布団に入って、あなたを待っています。の意味なのか。そもそもこの女は、部屋に布団が一つしか敷いていないことに、何の異議も唱えない。さも当たり前のように過ごしている。きっと女は、三四郎に宿の手配を依頼した時から、彼と一緒の部屋・布団で、一夜を共にしようと思っていたのだ。
しかしそこにも疑問がわく。宿泊代の節約のために、異性との同宿を厭わないだろうか。また、一夜を共にする相手として、三四郎はいかにも貧乏な身なりであり、彼からなにがしかの礼金を得ることは期待できないだろう。そうするとやはり、宿泊費の節約のためか。または女にも、旅の恥は掻き捨て、一夜のロマンスを求める、という気持ちがあったからか。相手はまだ若い学生。どうやら西の国から長旅を続けているようだ。そんなうぶな男にちょっかいを出してみようという浮気心があったのかもしれない。未経験な若者をからかおうとする好奇心。
こんな女を、三四郎は相手にできるはずがない。相手は一枚も二枚も上手だ。「敷居に尻を乗せ」、女のいる部屋との境界に心も体もとまどいながらもとりあえずそこにいる三四郎の様子。様々な理由で熱る体を覚ますため、「団扇を使つてゐた」。これからどうしようか。一体この女は何者なのだ。
「いつそ此儘で夜を明かして仕舞ふかとも思つた」のは正解だ。しかし彼はまたここで他者・「蚊」のせいにする。「けれども蚊がぶん/\来る。外ではとても凌ぎ切れない」と。
次の三四郎の「工夫」が滑稽だ。「革鞄の中から、キヤラコの襯衣と洋袴下を出して、それを素肌へ着けて、其上から紺の兵児帯を締めた。それから西洋手拭を二筋持つた儘蚊帳の中へ這入つた」。
これに対し「女は蒲団の向ふの隅でまだ団扇を動かして」彼を待っている。
「キャラコ」…平織り・広幅の白もめんの総称。(三省堂「新明解国語辞典」)
「平織り綿のキャラコシャツ、股下丈のステテコ、短いつばの麦わら・カンカン帽は昭和初期の夏の風物詩です」。(キャラコシャツ・ステテコ・カンカン帽|時代|NHKアーカイブス より)
「兵児帯」(へこおび)…男や子供が用いるしごき帯。(三省堂「新明解国語辞典」)
「「失礼ですが、私は疳性で他人の布団に寐るのが嫌だから……少し蚤除の工夫を遣るから御免なさい」
三四郎はこんな事を云つて、あらかじめ、敷いてある敷布の余つてゐる端を女の寐てゐる方へ向けてぐる/\捲き出した。さうして布団の真中に白い長い仕切りを拵らへた」。
…この「工夫」は、真の「蚤除」にはならないだろう。だから彼のこの工夫は、女との距離をできるだけ取ろうとしたものだ。「西洋手拭」「二枚」分の「領分」。その領土の「上に細長く寐」、「手も足も此幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかつた」のでは、まともには寝られなかっただろう。「女とは一言も口を利かなかつた。女も壁を向いた儘 凝として動かなかつた」。ふたりのこの冷戦の勝者はどちらだったのだろうか?
何も言わず、三四郎のアプローチを待つ女。細長い木のようにまったく動かない三四郎。おかしな二人であり、誠に滑稽な図だ。
子供のおもちゃを買いに出た女。それを感じさせる音。それらの事実を濃密に感じた男が、相手の女を抱こうという気になるだろうか。女の向こうにその子をイメージしつつ一夜の交歓を為すのは趣味が悪い。
何事もなく「夜はやう/\明けた」。
「顔を洗つて膳に向つた時、女はにこりと笑つて、「昨夜は蚤は出ませんでしたか」と聞いた」
…このような状況に慣れた女の様がうかがえる。女の「にこり」に当てられて、三四郎は「えゝ、難有う、御蔭さまで」と「真面目に答へ」、「下を向いて、御猪口の葡萄豆をしきりに突つき出」すことしかできない。完全に女に支配された状態。九州の田舎出身の純で真面目な三四郎。
「勘定をして宿を出て」…割り勘?
女の行き先は四日市。四日市の明治期の歴史を調べてみた。
「1873年(明治6年)3月 稲葉三右衛門ら四日市港築造工事に着手(同17年完成)
1889年(明治22年)4月 町制施行(四日市、浜田、浜一色合併、当時の人口15,483人)
1894年(明治27年)4月 四日市港波止場(潮吹き防波堤)改築工事竣工
1897年(明治30年)8月 1日 市制施行(45番目の都市、当時の人口は25,326人)
1899年(明治32年)5月 関西鉄道名古屋~湊町間全通。8月 四日市港、開港場に指定される」(沿革、四日市の歴史(年表) | 四日市市役所 より)
「明治30年、全国で45番目の市に」
明治に入り、1889(明治22)年4月1日、四日市は、浜田村、浜一色村の二村を編入し、町制を施行し、四日市町となり港を中心に発展していきました。
その後、年々人口も増加し、町民の間にも市制実施を求める声が高まり、1897(明治30)年5月に県知事に対し、市制実施の申請をし、同年8月1日、全国で45番目の市となりました。
「紡績、製油、製陶などが盛んな工業都市に」
明治時代に入ると、経済の中心は次第に工業へと移っていきました。中でも、近代工業の代表の1つである紡績業では、明治新政府の紡績奨励に応じた「十基紡(※2)」の一つである三重紡績所の創業者である伊藤伝七が、「実業王」渋沢栄一らの援助を受けて1886(明治19)年7月に、三重紡績株式会社を創立し、2年後に四日市浜町に本社・工場がほぼ完成し、本格的な操業を開始しました。業務成績が上がると、各地の紡績会社との合併も進み、1914(大正3)年6月には大阪紡績株式会社と合併して東洋紡績株式会社となりました。また、1886(明治19)年には、渋沢栄一の出資を得た四日市工業株式会社がイギリスから絞油機械を導入し、日本初の機械製油によりごま油の生産を始めるなど、機械力を応用した近代的会社経営への転換が開始されました。このころから、製糸業、漁網工業も同様に近代化を進め、輸出産業の代表へと成長していきました。また、地場産業である四日市萬古焼は
1870(明治3)年に、末永で山中忠左衛門が窯を築いて量産を開始、翌年には堀友直が三ツ谷町に窯を開き、1875(明治8)年には薬の行商人であった川村又助が、萬古陶器問屋を開業して販路開拓に尽力、これらの努力により多くの人が製陶業を営むようになりました。堀友直と川村又助は、1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会や、翌年のパリ万国大博覧会などに出品し、萬古焼の声価を国内外に高めました。
(※2)政府の工業奨励策の1つで、イギリスより購入入した精紡機10セットの払い下げを受けて新たに設立された10カ所の紡績所
「伊勢湾最大の商業港として発展、貿易も盛んに」
市場のある町、宿場町として発展していくに伴い、「十里の渡し(※3)」(四日市-熱田宮間)の評価は次第に高まっていきました。水深の深さと波静かな入り江は天然の良港となり、幕末から明治にかけては伊勢湾最大の商業港として発展し、1870(明治3)年の回漕会社による四日市-東京間の航路開設以降、四日市港を経由する貨客が増加しました。しかし、当時の四日市港は安政の大地震などによる堤防決壊のため、港口が流砂にふさがれるようになり、干潮時には小舟の出入りさえ困難な状態になっていました。この光景を見た廻船問屋の稲葉三右衛門は「四日市の生命は港にある」として、私財を投じて四日市港を築造〈1884(明治17)年完成〉。さらに、近代港
への修築を進め、四日市港は物資の集積地として、外国貿易も活発化していきました。そして、1899(明治32)年8月、正式に開港場に指定され、文字通り国際貿易港としての第一歩をしるすことになりました。その後も、紡績産業の隆盛とともに、綿花・羊毛の輸入港として栄え、1952(昭和27)年には、特定重要港湾にも、指定されました。
(※3)桑名宿と宮宿を結ぶ七里の渡しに対し、四日市宿と宮宿を結んでいた渡しのこと。江戸時代中期から次第に利用客が増えていき、徳川家康が
江戸と上方を往復する際にもこの航路を使用したことが記録されている。
(広報よっかいちより)
以上の資料から、当時の四日市は様々な産業で栄えていたことが分かる。そのような町といとし子を遠く離れ、広島の呉まで夫婦そろって出稼ぎに行く必要性が不明だ。夫の専門が呉の軍需工場での仕事に適したものだったのか?
東京へ向かう「三四郎の汽車は間もなく来た」。
「時間の都合で女は少し待ち合せる事とな」り、「改札場の際迄送つて来た女は」、「「色々御厄介になりまして、……では御機嫌よう」と丁寧に御辞儀をした」。女は実際には、「色々御厄介に」なっていないので、この言葉には皮肉が込められている。また、この女の素性とは似つかわしくない「では御機嫌よう」という言葉も、気取っている。さらにはこれらを「丁寧」な「御辞儀」で締めくくる女の様子からは、三四郎への揶揄が強く感じられる。
勿論三四郎に、これらの彼女の演技への対応能力はまったくない。彼ができることは、「革鞄と傘を片手に持つた儘、空いた手で例の古帽子を取つて、只一言、「左様なら」と」言うことだけだった。彼に気の利いた・洒落た言葉は生み出せない。女の完全に気圧されてしまい、愚鈍な対応しかできないのだった。
「女は其顔を凝と眺めてゐたが、やがて落付いた調子で、「あなたは余つ程度胸のない方ですね」と云つて、にやりと笑つた。三四郎はプラツト、フオームの上へ弾き出された様な心持がした。車の中へ這入つたら両方の耳が一層 熱り出した。しばらくは凝と小さくなつてゐた。やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首を出した。女はとくの昔に何処かへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼に着いた」。
女は三四郎を、完膚なきまでにやっつける。「女は其顔を凝と眺め」、「やがて落付いた調子で」告げる。「あなたは余つ程度胸のない方ですね」。この丁寧で静かな物言い。自分の本性をこのように諭すような口調で言われた日には、全男子は撃沈だろう。二度と立ち上がれないほどの衝撃。しかも追い打ちをかけるような「にやり」攻撃。この様子では三四郎は、無事に東京にたどり着けるのだろうか?
夏目漱石作品の登場人物の特徴は、「恐れる男と決意・決心した女」だ。ここでも三四郎は、「恐れる男」の面目躍如。
大学入学のために東京に向かう三四郎にとって、この女は青天の霹靂だったろう。自分も田舎出身の貧しい身分だが、少なくとも頭脳の面では彼女に勝っているという自負が三四郎にはあったはずだ。そのプライドが、ここまでコテンパンにされてしまったのでは、頭に被る学生帽に申し訳が立たないだろう。今まで何を学んできたのか。これまでの知識は、この状況の対応の仕方に何のヒントも与えてくれない。こんな自分と同じか、自分よりも身分の低い女にかなわないという自覚。
うぶな男に年増の女が手練手管を弄することはよくあることだ。この女は実際の交わりを結ばなかっただけ、三四郎にとってはまだラッキーだったかもしれない。彼はその寸前で止まった。あと一歩はすぐ目の前にあった。そうしてそれを望む気持ちは、自分の中に確かにあった。女にとっても、あと一歩は目前だった。彼女がちょっと手を伸ばせば、あとは勢いのままだっただろう。ふたりはふたりとも、それを望んでいた。
しかしそれは起こらなかった。それは偶然だったとしか言いようがない。夏の暑い夜。蚊帳に閉じ込められた男女。ふたりを隔てるものは、「布団の真中に」三四郎がシーツで築いた「白い長い仕切り」だけ。それはいかにもはかないものだ。木の棒のようにカチンコチンになった状態で身動き一つせず一夜を過ごした三四郎。想像すると笑ってしまう。その精一杯さが滑稽だ。
若い三四郎には性的欲求がある。ましてやこの時が初めての経験だっただろう。しかし彼は1ミリたりとも動けない。そうだとすれば、主導権は女にあった。一夜の恋は、彼女次第だった。
こう考えてくると、女は三四郎にちょっかいを出しただけで、本気で彼と結ばれようとは思っていなかったのかもしれない。彼が望むならそうなってもいい。でも、自分から積極的にというわけでもない。風呂敷包みの中には、幼い子への土産が入っている。
こんな物語設定を考え出す漱石の頭の中を覗いてみたいものだ。
「三四郎は又そつと自分の席に返つた」。
…「そっと」が悲しくもおかしい。
「乗合は大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人もない」。
…若い男に前夜何があったのかを気にするものは世の中にはいないのだ。世間は彼とは無関係に動いている。三四郎にとっては驚天動地の出来事が、世間は興味もなく、また当たり前のことなのだ。
「只筋向ふに坐つた男が、自分の席に返る三四郎を一寸と見た」
…女に代わる次の登場人物である広田先生の登場のさせ方が自然で巧みだ。この男もまた、別のやり方で三四郎を驚かせる。
(三四郎ガンバレ!)