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夏目漱石「三四郎」本文と解説4-11 名刺には里見美禰子とあつた。袖の裏から右の手を出して、ぶらつくたもとを肩の上へかつぐと、奇麗な手が二の腕迄出た。袂の端からは美くしい襦袢の袖が見える。

◇本文

 名刺には里見美禰子(さとみみねこ)とあつた。本郷真砂町だから谷を越すとすぐ向である。三四郎が此名刺を眺めてゐる間に、女は椽に腰を卸した。

「あなたには御目に掛りましたな」と名刺を(たもと)へ入れた三四郎が顔を挙げた。

「はあ。いつか病院で……」と云つて女も此方(こつち)を向いた。

「まだある」

「それから池の(はた)で……」と女はすぐ云つた。能く覚えてゐる。三四郎はそれで云ふ事がなくなつた。女は最後に、

「どうも失礼致しました」と句切りをつけたので、三四郎は、

「いゝえ」と答へた。頗る簡潔である。両人(ふたり)は桜の枝を見てゐた。梢に虫の食つた様な葉が(わずか)ばかり残つてゐる。引越の荷物は中々(なかなか)遣つて来ない。

「何か先生に御用なんですか」

 三四郎は突然かう聞いた。高い桜の枯枝を余念なく眺めて居た女は、急に三四郎の方を振り向く。あら喫驚(びつくり)した、(ひど)いわ、といふ顔付であつた。然し答は尋常である。

「私も御手伝ひに頼まれました」

 三四郎は此時始めて気が付いて見ると、女の腰を掛けてゐる椽に砂が一杯たまつてゐる。

「砂で大変だ。着物が汚れます」

「えゝ」と左右を眺めた(ぎり)である。腰を上げない。しばらく椽を見廻はした眼を、三四郎に移すや否や、

「掃除はもうなすつたんですか」と聞いた。笑つてゐる。三四郎は其笑ひの中に馴れ易いあるものを認めた。

「まだ()らんです」

「御手伝をして、一所に始めませうか」

 三四郎はすぐに立つた。女は動かない。腰を掛けた儘、箒やハタキの在家(ありか)を聞く。三四郎は、たゞ空手(てぶら)で来たのだから、どこにもない。何なら通りへ行つて買つて来やうかと聞くと、それは徒費(むだ)だから、隣で借りる方が好からうと云ふ。三四郎はすぐ隣へ行つた。早速箒とハタキと、それから馬尻(ばけつ)と雑巾迄借りて急いで帰つてくると、女は依然として(もと)の所へ腰をかけて、高い桜の枝を眺めてゐた。

「あつて……」と一口云つた丈である。

 三四郎は箒を肩へ(かつ)いで、馬尻を右の手にぶら下げて、「えゝ、ありました」と当り前の事を答へた。

 女は白 足袋(たび)の儘砂だらけの縁側へ上がつた。あるくと細い足の痕が出来る。(たもと)から白い前垂(まえだれ)を出して帯の上から締めた。其前垂の縁がレースの様に縢(かゞ)つてある。掃除をするには勿体ない程奇麗な色である。女は箒を取つた。

「一旦掃き出しませう」と云ひながら、袖の裏から右の手を出して、ぶらつく(たもと)を肩の上へ(かつ)いだ。奇麗な手が二の腕迄出た。担いだ袂の端からは美くしい襦袢の(そで)が見える。茫然として立つてゐた三四郎は、突然馬尻を鳴らして勝手口へ(まは)つた。 (青空文庫より)


◇解説

広田先生の新居引っ越しの手伝いにやってきた三四郎が待っていると、そこに突然美禰子が姿を現す。素性を尋ねられた彼女は、三四郎に名刺を渡す。

「名刺には里見美禰子(さとみみねこ)とあつた。本郷真砂町だから谷を越すとすぐ向である」。意外に近くに、気になる人は住んでいた。


「三四郎が此名刺を眺めてゐる間に、女は椽に腰を卸した」

…三四郎は彼女の名前と住所を胸に刻む。その様子を美禰子は見ている。見ながら「椽に腰を卸」す。


「「あなたには御目に掛りましたな」と名刺を(たもと)へ入れた三四郎が顔を挙げた。

「はあ。いつか病院で……」と云つて女も此方(こつち)を向いた」。

…三四郎の初めての会話らしい会話。だがそれはぎこちなくぶっきらぼうだ。病院の廊下ですれ違ったことを、美禰子は覚えていた。ここで美禰子は、「三四郎が顔を挙げた」瞬間にいったん彼から視線を外し、そうして「はあ。いつか病院で……」と言いながら再び三四郎の方を向いている。


「まだある」

…これも短く断定的で、美禰子はまるで叱られているかのように感じただろう。恋愛初心者の三四郎は、どう言えばいいのかが分からない。


「「それから池の(はた)で……」と女はすぐ云つた。能く覚えてゐる。三四郎はそれで云ふ事がなくなつた」。

…前に会ったことを二度とも覚えている美禰子。彼女も自分を気にしていたことがここではっきりする。三四郎にしてみれば、こんな美人が、全く見知らぬ自分とのことをすべて覚えてくれていたので、とてもうれしかっただろう。彼は満足と興奮で、「云ふ事がなくなつた」。

美禰子の言葉も短く、最後の部分が省略される。「……」には、余韻・余情が込められる。この省略部には、「御目に掛りました」が補える。つい先ほどまでは「まだ御移りにならないんで御座いますか」と、「明確(はつきり)」言い、「普通の様に(あと)を濁さない」美禰子だったが、ここでは2回続けてわざと「後を濁」す。これは、「恥ずかしくて最後まで言えない」という女性の奥ゆかしさを演じる、恋のテクニックだ。


「女は最後に、「どうも失礼致しました」と句切りをつけたので、三四郎は、「いゝえ」と答へた。頗る簡潔である」。

…ここで美禰子が謝ったのは、以前に2回会ったことを覚えていたにもかかわらず、会話の前に自己紹介をしなかったこと。これは三四郎も同罪なので、美禰子が彼に謝る必要はない。むしろ、男性である三四郎が先に自己紹介をし、その後で美禰子がする方が一般的だろう。さらには、美禰子は名刺まで渡したのに、自分は名乗りもしない三四郎は失礼なヤツだ。


両人(ふたり)は桜の枝を見てゐた。梢に虫の食つた様な葉が(わずか)ばかり残つてゐる。引越の荷物は中々(なかなか)遣つて来ない」。

…同じものを見るという体験の共有は、人と人とを結ぶ。ふたりの視線の先にあるのは、見ても仕方ない「虫の食つた様な葉が(わずか)ばかり」。だからふたりは、それを見ているようで見ていない。ふたりの視線の先にあるものは、すぐ隣にいるとても気になる相手の存在と、さらにはその心だ。ふたりはふたりでいることを楽しんでいる。

三四郎は思っている。ここでこうして「虫の食つた様な葉」をいつまでも眺めていたいな。広田先生たちが、いつまでも来ないといいな。だから三四郎にとって、「引越の荷物は中々(なかなか)遣つて来ない」のはむしろ朗報なのだ。


「「何か先生に御用なんですか」 三四郎は突然かう聞いた。高い桜の枯枝を余念なく眺めて居た女は、急に三四郎の方を振り向く。あら喫驚(びつくり)した、(ひど)いわ、といふ顔付であつた」。

…「虫の食つた様な葉」を眺める男からの「突然」の質問は、当然女を驚かす。ちょっとぼんやりしていたところに、「何か先生に御用なんですか」という現実的な話題を振られても困るだろう。前後の脈絡というものが全くない男だ。自分の心に浮かんだセリフを、何の考えもなく、ムードも間も無視してそのまま吐き出してしまう三四郎。女性に振られること必定だ。

ただ、ふだん落ち着いている美禰子を「喫驚(びつくり)」させることのできる男は、三四郎以外にはいないかもしれない。だから三四郎は、美禰子にとって今まで出会ったことのない男だったろう。今までとは違うタイプの男への興味が彼女の心に湧いたのだ。地方から出て来たばかりの純朴な男。恋には不慣れのようだが、何か変わってて面白い。美禰子はそう思っている。

突然の言葉に、「急に三四郎の方を振り向」いた美禰子の、瞬時の反応はさすがだ。「あら喫驚(びつくり)した、(ひど)いわ、といふ顔付」。しかもこれを言葉にせず、表情で表現。100点です。

この後はふつう、

男「急にゴメン。びっくりさせちゃって」

女「ううん、大丈夫。私の方こそ、びっくりしすぎだよね、ゴメン」

と言って、ふたりは思わず顔を合わせて笑った。

などと続くことが予想されるが、実際は、

「然し答は尋常である。「私も御手伝ひに頼まれました」」と続く。

美禰子の立ち直りの早さ、落ち着きを取り戻し、いつもの自分を演出する手際の良さが見事だ。

美禰子のこの様子は、三四郎の心に刺さっただろう。瞬間垣間見えた彼女の無邪気さ(デレ)と、それをあっという間に押し隠し、いつもの彼女に戻る冷静さ(ツン)。その落差に陥落しない男子はいない。やはり美禰子は、語り手が言うように、生まれながらの「女」なのだ。


「三四郎は此時始めて気が付いて見ると、女の腰を掛けてゐる椽に砂が一杯たまつてゐる。

「砂で大変だ。着物が汚れます」

「えゝ」と左右を眺めた(ぎり)である。腰を上げない」。

…恋愛初心者の三四郎に、女性が腰を掛ける場面での気遣いはできない。「此時始めて気が付い」て、「砂で大変だ。着物が汚れます」と女に注意しても、今更遅い。先刻ご承知の美禰子は、だから「腰を上げない」。汚れることが分かった上で、彼女は座っている。心では、「そんなことに今頃気づくなんて遅いし、それを今更注意されてももう着物は汚れてるから、立ってもしょうがないわ。ホント鈍感なヤツ」と思っている。


そんなことを考えながら「しばらく椽を見廻はし」た美禰子は、「ちょっと意地悪しちゃお」と思い、「眼を、三四郎に移すや否や、「掃除はもうなすつたんですか」と聞いた」のだった。「彼はおそらく引っ越しの手伝いとして掃除も頼まれているはず。それなのに何もせず、ボーッと縁側に座ってた。さっき私をびっくりさせた仕返しに、少し懲らしめてやれ」、と思って「笑つてゐる」。


「三四郎は其笑ひの中に馴れ易いあるものを認めた」。

…ふだんは取澄ました感じの美禰子から、いたずら心を感じたからだ。だから三四郎もそれに対抗するために、わざと、「まだ()らんです」とぶっきらぼうに答える。


美禰子の言葉が続く。「御手伝をして、一所に始めませうか」。広田先生の引っ越しの手伝いとして、掃除をふたりで「一所に始めませう」という提案。


次の場面からふたりの「主従・上下関係」が見て取れる。まるで女王様とその家来のようだ。さきほど美禰子の自己紹介代わりの名刺渡しが終わったばかりなのに。

・「三四郎はすぐに立つた」のに、「女は動かない。腰を掛けた儘、箒やハタキの在家(ありか)を聞く」。

・三四郎は、「何なら通りへ行つて買つて来やうかと聞くと、それは徒費(むだ)だから、隣で借りる方が好からうと云ふ」。

・「三四郎はすぐ隣へ行つた。早速箒とハタキと、それから馬尻(ばけつ)と雑巾迄借りて急いで帰つてくると、女は依然として(もと)の所へ腰をかけて、高い桜の枝を眺めてゐた。

「あつて……」と一口云つた丈である。三四郎は箒を肩へ(かつ)いで、馬尻を右の手にぶら下げて、「えゝ、ありました」と当り前の事を答へた」。

明治時代において、このような場面では、女性の方が素早く動くことが一般的だったろう。美禰子は新しい時代に生きる女性として、また、三四郎との恋愛における上位の存在として描写される。


三四郎の働きによって、とにかく道具一式はそろった。美禰子はやっと動き出す。

「女は白 足袋(たび)の儘砂だらけの縁側へ上がつた。あるくと細い足の痕が出来る」。美禰子はそれを気にしない。「(たもと)から白い前垂(まえだれ)を出して帯の上から締めた。其前垂の縁がレースの様に縢(かゞ)つてある。掃除をするには勿体ない程奇麗な色である」。これも気にしない。この場面は、現実的には「白足袋の儘砂だらけの縁側へ上が」らなければ掃除はできないし、「掃除をするには勿体ない程奇麗な色」の「白い前垂(まえだれ)」を身に付けたのも同様だ。必要に迫られて、我慢すべき場面。だからここは、汚れることを気にしない美禰子の様子を表している。

しかしその一方で、引っ越しの手伝いとなれば当然身に付けているものは汚れるだろうことは簡単に予測できる。それにも関わらず彼女がこのような「よそ行き」の格好をしてきたことから考えると、前回の私の「深読み」はやはり当たっていたことになる。美禰子は三四郎も野々宮も来ることを知っていた。だからいつもどんな場面でも自分を美しく飾ることを最重視する彼女は、このような格好だったのだ。


エプロン(鎧)を身に付け、「箒(刀)を取つた」美禰子。「一旦掃き出しませう」。

しかし彼女の身なりはまだ完成していない。「袖の裏から右の手を出して、ぶらつく(たもと)を肩の上へ(かつ)いだ。奇麗な手が二の腕迄出た。担いだ袂の端からは美くしい襦袢の(そで)が見える」。掃除という戦いに備える美禰子という女性兵士。その勇ましさとともに垣間見える、「ボラプチュアス(官能、色っぽさ)」(4-10)。

恋愛初心者の三四郎は、艶やかな美禰子に見とれて「茫然として立つてゐた」が、「突然馬尻を鳴らして勝手口へ(まは)つた」。マンガである。しかし彼は実際、こうするしかなかったろう。三四郎のかなう相手ではない。

これはたまたまそうなってしまったのではない。美禰子はわざと「奇麗な手」を「二の腕迄出」し、「担いだ袂の端から」「美くしい襦袢の(そで)」を三四郎に見せつけたのだ。

三四郎は、偶然のエロをラッキーな出来事だと捉えただろうが、それは美禰子の罠にまんまとはまっただけだ。


美禰子は自分の魅力をさりげなく、実は意図的に、男の前にさらけ出す。男にとってはまことに捉えどころがなく厄介な女だ。なぜなら、そこがとても魅力的に見えてしまうからだ。

自分を魅惑する女の意図とその有無の不明さ。しかしいずれにせよ魅了されてしまっている男。それが、「美禰子という謎」・「女性という謎」なのだ。

さらに美禰子が厄介なのは、彼女自身、自分という存在がまだ明確には把握・認識できていないところだ。美禰子もまだ若く、様々なことに迷っている青春の過程にある。自己がまだ確立されていない。


三四郎と美禰子という迷うふたり・「ストレイシープ」。

さらには野々宮とその妹もその仲間だ。


(2025.1.18 共通テスト1日目の夜に) 

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