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夏目漱石「三四郎」本文と解説4-10 美禰子は会釈しながら、三四郎を見詰めてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付きである。

◇本文

 二方は生垣で仕切つてある。四角な庭は十坪(とつぼ)に足りない。三四郎は此狭い(かこ)ひの中に立つた池の女を見るや否や、(たちま)ち悟つた。――花は必ず()つて、瓶裏(へいり)に眺むべきものである。

 此時三四郎の腰は縁側を離れた。女は折戸を離れた。

「失礼で御座いますが……」

 女は此句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例の通り前へ浮かしたが、顔は決して下げない。会釈しながら、三四郎を見詰めてゐる。女の咽喉(のど)が正面から見ると長く延びた。同時に其眼が三四郎の(ひとみ)に映つた。

 二三日前三四郎は美学の教師からグルーズの画を見せてもらつた。其時美学の教師が、此人の()いた女の肖像は(ことごと)くヴォラプチユアスな表情に富んでゐると説明した。ヴォラプチユアス! 池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴へ方である。甘いものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴へ方である。甘いと云はんよりは苦痛である。卑しく媚びるのとは無論違ふ。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付きである。しかも此女にグルーズの画と似た所は一つもない。眼はグルーズのより半分も小さい。

「広田さんの御 移転(こし)になるのは、此方(こちら)で御座いませうか」

「はあ、此所(こゝ)です」

 女の声と調子に較べると、三四郎の答は頗るぶつきら棒である。三四郎も気が付いてゐる。けれども(ほか)に云ひ様がなかつた。

「まだ御移りにならないんで御座いますか」女の言葉は明確(はつきり)してゐる。普通の様に(あと)を濁さない。

「まだ来ません。もう来るでせう」

 女はしばし逡巡(ためらつた)。手に大きな(バスケツト)()げてゐる。女の着物は例によつて、分からない。ただ何時(いつ)もの様に光らない丈が眼についた。地が何だかぶつ/\してゐる。()れに(しま)だか模様だかある。その模様が如何にも出鱈目である。

 上から桜の葉が時々落ちて来る。其一つが(バスケツト)(ふた)の上に乗つた。乗つたと思ふうちに吹かれて行つた。風が女を包んだ。女は秋の中に立つてゐる。

「あなたは……」

 風が隣りへ越した時分、女が三四郎に聞いた。

「掃除に頼まれて来たのです」と云つたが、現に腰を掛けてぽかんとしてゐた所を見られたのだから、三四郎は自分でも可笑(おかし)くなつた。すると女も笑ひながら、

「ぢや私も少し御待ち申しませうか」と云つた。其云ひ方が三四郎に許諾を求める様に聞えたので、三四郎は大いに愉快であつた。そこで「あゝ」と答へた。三四郎の料簡では、「ああ、御待ちなさい」を略した積である。女はそれでもまだ立つてゐる。三四郎は仕方がないから、

「あなたは……」と向ふで聞いた様な事を此方(こつち)からも聞いた。すると、女は(ばすけつと)(えん)の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎に呉れた。

(青空文庫より)


◇解説

広田先生の新居への引っ越しの場面。佐々木に9時集合と掃除を依頼された三四郎は、手持無沙汰の状態で縁側に座り待っている。そこに突然現れたのが美禰子だった。彼女が来ることを知らされていない三四郎は、とても驚く。


「二方は生垣で仕切つてある。四角な庭は十坪(とつぼ)に足りない。三四郎は此狭い(かこ)ひの中に立つた池の女を見るや否や、(たちま)ち悟つた。――花は必ず()つて、瓶裏(へいり)に眺むべきものである」

…庭の「二方は生垣で仕切つてあ」り、「四角な庭は十坪(とつぼ)に足りない」。ふたりは、「此狭い(かこ)ひの中に」閉じ込められたような状態だ。気になる女性と、意外なところで突然対面した驚き。今ふたりは近い距離におり、外界から閉ざされた空間にいる(ことが重要だ)。

この時に三四郎が「(たちま)ち悟つた」、「花は必ず()つて、瓶裏(へいり)に眺むべきものである」という感覚に、とてもエロチックなものを感じる。「花」は美禰子。それを「()つて」とは、自分のもの・所有物にすること。しかも「必ず」だ。「瓶裏(へいり)に眺む」は、他の誰にも取られぬように、結婚して家に入れること。さらに言うと、「()つて」には、美禰子の純潔を汚す意味もあるし、「瓶裏(へいり)に眺む」には、家の中に「(かこ)」い、決して外には出さない意味もある。彼女を束縛し、操を奪うということだ。この言葉は、美禰子を「()」り、「瓶裏(へいり)」に飾った後に言うべき言葉だろう。

この一瞬にイメージした三四郎は危険な男だ。美禰子は一刻も早くこの場を立ち去らねばならない。

ただ、三四郎は若い。若者の妄想は時にほとばしる。問題は、それを実際に行動に移すかどうかだ。そこで普通の大学生男子になるか、性的暴行を加える犯罪者になるかが分かれる。


三四郎の静かな興奮(もっと言うと「欲情」)は、確実に美禰子に伝わっている。三四郎が「(たちま)ち悟つた」ように、美禰子も三四郎を敏感に感じている。

「此時三四郎の腰は縁側を離れた。女は折戸を離れた」。ふたりは近づく。今度は、彼女の番だ。


「「失礼で御座いますが……」 女は此句を冒頭に置いて会釈した」。

「腰から上を例の通り前へ浮かしたが、顔は決して下げない。会釈しながら、三四郎を見詰めてゐる。女の咽喉(のど)が正面から見ると長く延びた。同時に其眼が三四郎の(ひとみ)に映つた」。このお辞儀の仕方は、失礼なのだが、とても印象に残るやり方だ。上体は前に折れているのに顔の向きはそのままで、目線は相手をしっかり見続ける。ややもすると挑戦的で決して相手に隙を与えない感じがする。女性らしくない。礼はするが心は反抗している。このように捉えられても仕方がないお辞儀の仕方だ。かわいらしいお辞儀ではない。三四郎の目と心を絶対に離さないという意志が感じられる。閉鎖空間で近距離での視線の絡み合いは、それだけで既にエロだ。


「其眼が三四郎の(ひとみ)に映つた」の部分を読み、読者は、「三四郎の眸に映った」美禰子の「眼」をイメージする。これは三四郎の心には既に美禰子がしっかりと入り込んでいる・入り込まれていることを表す。同時に、美禰子の眸にも三四郎が映っている。ふたりの眸・視線の交錯は、見ている者と見られている者が互いに相互入れ子となって、やがて二人の心までもが一つに溶け合うだろう。たとえるならば、目と目でキスをしているようなものだ。


三四郎は急に気取りだす。美学の話題で心を落ち着けようとする。

「二三日前三四郎は美学の教師からグルーズの画を見せてもらつた。其時美学の教師が、此人の()いた女の肖像は(ことごと)くヴォラプチユアスな表情に富んでゐると説明した」。

三四郎の目を捉えて離さない美禰子の目は、

・三四郎の「官能」「の髄に徹する」ように「艶なるあるものを訴へてゐる」

・「烈しい刺激」・「苦痛」

・「見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付き」

これらをまとめて表現すると、「ヴォラプチユアス」となるのだろう。

こんな目で見据えられたら、メドゥーサに見られたと同様、男は石になるしかない。


「ボラプチュアス」(voluptuous) 英語

 1、肉欲にふける、酒食におぼれる、官能的な

 2、肉感的な、色っぽい、あだっぽい、セクシーな

 3、(感触など)心地よい

 語源…ラテン語「官能の」の意 (研究社「新英和中辞典」より)


「しかも此女にグルーズの画と似た所は一つもない。眼はグルーズのより半分も小さい」

…和製メドゥーサの「眼」は「半分も小さい」。それでも彼女の持つ目の力は絶大だ。


美禰子はまず「失礼で御座いますが……」と「冒頭に置いて会釈」「しながら、三四郎を見詰め」る。「其眼が三四郎の(ひとみ)に映」る。その眸は三四郎の官能を痛いほど強く刺激する。これらの過程を経た上で、美禰子はやっと、「広田さんの御 移転(こし)になるのは、此方(こちら)で御座いませうか」と尋ねる。言葉と所作と間合いが完璧な美禰子。恋愛の匠。

こんな美禰子にすっかり()てられた恋愛初心者の三四郎は、「はあ、此所(こゝ)です」とバカみたいに答えるしかない。もう勝敗は決まった。恋の主導権は、美禰子にある。


「「広田さんの御 移転(こし)になるのは、此方(こちら)で御座いませうか」

「はあ、此所(こゝ)です」」。

魂が抜けたような三四郎の返事。それは他者からは「ぶつきら棒」と聞こえるだろうし、それは「三四郎も気が付いてゐる。けれども(ほか)に云ひ様がなかつた」。恋にのぼせる三四郎。

美禰子は、そこが広田先生の新居であることはちゃんとわかっている。だからこの言葉は、念の為の確認というよりは、三四郎に話しかける方便のセリフだ。


「「まだ御移りにならないんで御座いますか」女の言葉は明確(はつきり)してゐる。普通の様に(あと)を濁さない。

「まだ来ません。もう来るでせう」」

「はあ、此所(こゝ)です」という愚なセリフに仕方なく彼女は言葉をつないだ。それなのに愚者はまた、「まだ来ません。もう来るでせう」と、見ればわかることをそのまま答える。恋愛初心者の三四郎は、このように答えることしか出来なかった。この時代の女性は、語尾を濁すのが奥ゆかしく女性らしいと考えられたのだろう。それに対して美禰子は、あくまで言葉を「明確(はつきり)」話す。新時代、意志の強さ、自我の確立、などを感じさせるシーンだ。それにしても三四郎の情けなさ。ここでは男女が入れ替わっている。


「女はしばし逡巡(ためらつた)。手に大きな(バスケツト)()げてゐる」

そこに三四郎の視線が移ったのは、彼女がそうさせたのだ。

美禰子は毎回必ず手に小道具を持っている。初めて三四郎に東大池の端で会った時の団扇、白い花。2回目に東大の病院で会った時のハンカチ。今回は「大きな(バスケツト)」。それは彼女を引き立たせ、また彼女の心を表現する。


「その模様が如何にも出鱈目である」

着物の乱れ模様は、美禰子の心の乱れを表す。


「上から桜の葉が時々落ちて来る。其一つが(バスケツト)(ふた)の上に乗つた。乗つたと思ふうちに吹かれて行つた。風が女を包んだ。女は秋の中に立つてゐる」

これはとても象徴的な描写だ。「(バスケツト)」は美禰子を、「葉」は男性を表す。「(バスケツト)」(美禰子)には様々な「葉」(男性)が「落ちて来る」(関係する)。「其一つ」(三四郎や野々宮)が「(バスケツト)(ふた)の上に乗つた」(美禰子と関わりを持つ)。しかし、「乗つたと思ふうちに吹かれて行つた」(やがてふたりの関係は終わる)。「風が女を包んだ。女は秋の中に立つてゐる」(三四郎や野々宮との関係が途絶えた美禰子は、別の「風」・関係で結ばれ、「秋」・冷たい淋しさの中にいる)。

この物語の今後を暗示している表現だ。美禰子の未来は「秋」という言葉・季節で表現される。夏という熱く輝く青春の季節を終えた美禰子は、けだるさの中、他の人と結婚する。それが幸福かどうかは不明だ。


「「あなたは……」

 風が隣りへ越した時分、女が三四郎に聞いた」

この「あなたは……」という言葉は、三四郎が「まだ来ません。もう来るでせう」と言った後、美禰子が「しばし」ためらい、三四郎が美禰子のバスケットと着物を鑑賞し、「上から桜の葉が時々落ちて来」て、「其一つが(バスケツト)(ふた)の上に乗つた。乗つたと思ふうちに吹かれて行つた。風が女を包んだ。女は秋の中に立つてゐる」。その「風が隣りへ越した時分、女が三四郎に聞いた」言葉だ。従って、三四郎の、「まだ来ません。もう来るでせう」と、美禰子の「あなたは……」には相当なタイムラグがある。これは普通、言葉通り「間抜け」ということになるのだが、ここはそうではない。ふたりの間には、濃密な時間が流れている。とても濃い、恋の時間だ。


「「掃除に頼まれて来たのです」と云つたが、現に腰を掛けてぽかんとしてゐた所を見られたのだから、三四郎は自分でも可笑(おかし)くなつた。すると女も笑ひながら、

「ぢや私も少し御待ち申しませうか」と云つた」。

こういう少しのおかしみ・ウィットを挟むことを忘れないのが、漱石の良いところだ。また、このやり取りによってふたりの距離は縮まる。「笑ひ」は人の心を和ませ、融和する。


「其云ひ方が三四郎に許諾を求める様に聞えたので、三四郎は大いに愉快であつた。そこで「あゝ」と答へた。三四郎の料簡では、「ああ、御待ちなさい」を略した積である」

こういうところが恋愛初心者のダメなところだ。恋愛初心者はすぐいい気になる。ちょっと相手がなびいたと思うと、すぐ図に乗る。そうして痛い目に合う。


「女はそれでもまだ立つてゐる。三四郎は仕方がないから、「あなたは……」と向ふで聞いた様な事を此方(こつち)からも聞いた」

ここは、「あなたもお座りなさい。みんなが来るまで待ちましょう」と言うべきところだ。そうして、それから、「ところであなたは広田先生のお知合いですか?」とでも話をつなぐべきだ。これだから恋愛初心者は……。


「すると、女は(ばすけつと)(えん)の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎に呉れた」

相手の気が利かないので、美禰子は少し趣向を変えて、「名刺」を渡したのだ。言葉で自己紹介しても良い場面だが、名刺であれば自分の名前と住所を形にして相手に渡すことができる。(次話4-11「名刺には里見美禰子(さとみみねこ)とあつた。本郷真砂町だから谷を越すとすぐ向である」) 

自分と相手をより強くつなぐ「名刺」。

それにしても、当時の女性は名刺を作り、それを携帯していたのか。


〇少し深読みしてみます。

美禰子はすべてを承知していた。

三四郎が手伝いに来ること。広田先生の荷物は多く、また、急な引っ越しなので荷造りも大変で、9時の約束の時間にはとても間に合わないだろうこと。当然佐々木はその手伝いだ。だから時間通りに行けば、三四郎とふたりっきりになれるし、自分と相手との距離を近づけることができること。そうだ、名刺を渡そう。彼の中に、私をしっかりと刻み込ませよう。帯の間に一枚だけ潜ませてと……。


〇今話を、実際の会話の部分だけ抜き出してみる。

美禰子「失礼で御座いますが……」

美禰子「広田さんの御 移転(こし)になるのは、此方(こちら)で御座いませうか」

三四郎「はあ、此所(こゝ)です」

美禰子「まだ御移りにならないんで御座いますか」

三四郎「まだ来ません。もう来るでせう」

美禰子「あなたは……」

三四郎「掃除に頼まれて来たのです」

美禰子「ぢや私も少し御待ち申しませうか」

三四郎「あゝ」

三四郎「あなたは……」

以上、これだけ。このように会話だけまとめると、まことにそっけなく何の面白みも無い、普通の会話がなされている。この会話だけ読んで、このふたりが互いに異性として意識し合っているとは誰も思わないだろう。

しかしこれらの言葉と言葉の間には、三四郎と美禰子の様々な感情が隠れて存在する。人の言葉の裏には、複雑な感情が渦巻く。


この事務的・無機的な会話を恋愛の物語にできるかどうかは、作者の腕にかかっている。今話でもやはり漱石の力量の高さを感じる。 

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