表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/117

夏目漱石「三四郎」本文と解説4-9 庭木戸がすうとあいた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた。

◇本文

 翌日学校へ出ると講義は例によつて詰らないが、室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以て、追分の交番の前迄来ると、ぱつたり与次郎に出逢つた。

「アハヽヽ。アハヽヽ」

 偉人の態度は是が為に全く崩れた。交番の巡査さへ薄笑ひをしてゐる。

「なんだ」

「なんだも無いものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいゝ。丸で浪漫的(ロマンチツク)アイロニーだ」

 三四郎には此洋語の意味がよく分からなかつた。仕方がないから、

「家はあつたか」と聞いた。

「その事で今君の所へ行つたんだ――明日愈(いよいよ)引越す。手伝ひに来て呉れ」

何所(どこ)へ越す」

「西片町十番地への三号。九時迄に向へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから。いゝか、九時迄だぜ。への三号だよ。失敬」

 与次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ帰つた。其晩取つて返して、図書館で浪漫的(ロマンチツク)アイロニーと云ふ句を調べて見たら、独乙(ドイツ)のシユレーゲルが唱へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら/\ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して、下宿へ帰つて、すぐ寐た。

 翌日(あくるひ)は約束だから、天長節にも拘はらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ。

 玄関の代りに西洋間が一つ突き出してゐて、それと(かぎ)の手に座敷がある。座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向が勝手、下女部屋と順に並んでゐる。(ほか)に二階がある。但し何畳だか分らない。

 三四郎は掃除を頼まれたのだが、別に掃除をする必要もないと認めた。無論奇麗ぢやない。然し何と云つて、取つて捨てべきものも見当らない。強ひて捨てれば畳建具位なものだと考へながら、雨戸丈を明けて、座敷の縁側へ腰を掛けて庭を眺めて居た。

 大きな百日紅がある。然し是は根が隣りにあるので、幹の半分以上が横に杉垣から、此方(こつち)の領分を冒してゐる丈である。大きな桜がある。是は慥かに垣根の中に生えてゐる。其代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊と見えて、一向咲いて居ない。此外には何にもない。気の毒な様な庭である。たゞ土丈は平らで、肌理(きめ)(こま)かで甚だ美くしい。三四郎は土を見てゐた。実際土を見る様に出来た庭である。

 そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘(ベル)が鳴り出した。三四郎は号鐘(ベル)を聞きながら九時が来たんだらうと考へた。何もしないでゐても悪いから、桜の枯葉でも掃かうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと()いた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた。 (青空文庫より)


◇解説

前話で三四郎は、自分の当面している「三つの世界」について、床の中で思索をめぐらせた。(妄想を膨らました)


「翌日学校へ出ると講義は例によつて詰らないが、室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以て、追分の交番の前迄来ると、ぱつたり与次郎に出逢つた」

…三四郎は、「講義」は「詰らない」としながら、「室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて」というが(ここで語り手と三四郎は一体となっている)、この態度・姿勢では、「第二の世界」(学問)の「人となり終せ」ることは不可能だ。彼は「俗を離れ」たような気になっているが、油断するとたちまち「第三の世界」の人になっているだろう。だから「偉人」への道は遠い。彼は今まさに「さも偉人の様な態度を以て」ふるまっているだけだ。これではヘーゲルに叱られる。講義に出て、教室の人となれば、その内容が身につかなくとも自然と「第二の世界」の人となることができるし、やがては「偉人」と称えられると安易に考える三四郎。漱石の作品の男性の主人公は、恋愛・「第三の世界」を中心とした人生の様々な悩みを抱えて考え込む人が多いのだが、まだ若い大学新入生ということもあり、三四郎は少し違っている。彼は、悩んでいるようで実はそれほど悩まない。彼の悩みは主に、「第三の世界」についてだけだし、そこにエゴイズムの問題は出てこないのが特徴的だ。女性という存在そのものへの疑問が、三四郎の心を魅了しまた不安にさせる。


真に学問の世界の人とはなっていないことを見破られた三四郎は、佐々木だけでなく、「交番の巡査」にも笑われる。三四郎は学問の世界の人を仮装しているだけだ。

そのような三四郎に佐々木は、「もう少し普通の人間らしく歩くがいゝ。丸で浪漫的(ロマンチツク)アイロニーだ」と揶揄する。三四郎はまだ一人前の「普通の人間」にもなっていない。彼はまずそれを目指すべきだと友人らしく指摘する佐々木。


佐々木は、「明日愈(いよいよ)引越す。手伝ひに来て呉れ」という。新居は「西片町十番地への三号」。今の家の大家と約束した引っ越しの期限は守られるようだ。


「図書館で浪漫的(ロマンチツク)アイロニーと云ふ句を調べて見たら、独乙(ドイツ)のシユレーゲルが唱へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら/\ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して、下宿へ帰つて、すぐ寐た」

…「天才」ではない三四郎は、「安心」もできないし、「すぐ寝」てはいけない。学問の世界を志す者は、日夜勉学に励まなければならない。単なる憧れでは目的地点にたどり着けない世界だ。この「説」をうのみにし、そのまま信じるようでは、成業の見込みは無い。三四郎の油断、なまけ。


翌日(あくるひ)は約束だから、天長節にも拘はらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ」

…「天長節」は現在の天皇誕生日のことで、明治天皇の誕生日は11月3日。休暇日だった。


〇広田先生の新居の様子

・玄関の代りに西洋間が一つ突き出してゐて、それと(かぎ)の手に座敷がある。

・座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向が勝手、下女部屋と順に並んでゐる。

(ほか)に二階がある。但し何畳だか分らない。

・庭に大きな百日紅がある。然し是は根が隣りにあるので、幹の半分以上が横に杉垣から、此方(こつち)の領分を冒してゐる丈。

・大きな桜がある。是は慥かに垣根の中に生えてゐる。其代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。

・菊が一株ある。けれども寒菊と見えて、一向咲いて居ない。

・此外には何にもない。気の毒な様な庭である。

・たゞ土丈は平らで、肌理(きめ)(こま)かで甚だ美くしい。実際土を見る様に出来た庭である…三四郎は肌理(きめ)(こま)かなものに魅かれる。人の肌だけでなく、土の表面もだ。

(広田先生新居間取図を、NOTEの

方に掲載しました)


「そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘(ベル)が鳴り出した。三四郎は号鐘(ベル)を聞きながら九時が来たんだらうと考へた」

…佐々木との約束は、「九時迄に向へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから」である。


「何もしないでゐても悪いから、桜の枯葉でも掃かうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと()いた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた」

…美禰子登場。意外な人物の突然の登場で、三四郎の鼓動は早く高くなる。三四郎は第三の世界でどう立ち居振舞うのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ