夏目漱石「三四郎」本文と解説4-9 庭木戸がすうとあいた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた。
◇本文
翌日学校へ出ると講義は例によつて詰らないが、室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以て、追分の交番の前迄来ると、ぱつたり与次郎に出逢つた。
「アハヽヽ。アハヽヽ」
偉人の態度は是が為に全く崩れた。交番の巡査さへ薄笑ひをしてゐる。
「なんだ」
「なんだも無いものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいゝ。丸で浪漫的アイロニーだ」
三四郎には此洋語の意味がよく分からなかつた。仕方がないから、
「家はあつたか」と聞いた。
「その事で今君の所へ行つたんだ――明日愈引越す。手伝ひに来て呉れ」
「何所へ越す」
「西片町十番地への三号。九時迄に向へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから。いゝか、九時迄だぜ。への三号だよ。失敬」
与次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ帰つた。其晩取つて返して、図書館で浪漫的アイロニーと云ふ句を調べて見たら、独乙のシユレーゲルが唱へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら/\ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して、下宿へ帰つて、すぐ寐た。
翌日は約束だから、天長節にも拘はらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ。
玄関の代りに西洋間が一つ突き出してゐて、それと鉤の手に座敷がある。座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向が勝手、下女部屋と順に並んでゐる。外に二階がある。但し何畳だか分らない。
三四郎は掃除を頼まれたのだが、別に掃除をする必要もないと認めた。無論奇麗ぢやない。然し何と云つて、取つて捨てべきものも見当らない。強ひて捨てれば畳建具位なものだと考へながら、雨戸丈を明けて、座敷の縁側へ腰を掛けて庭を眺めて居た。
大きな百日紅がある。然し是は根が隣りにあるので、幹の半分以上が横に杉垣から、此方の領分を冒してゐる丈である。大きな桜がある。是は慥かに垣根の中に生えてゐる。其代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊と見えて、一向咲いて居ない。此外には何にもない。気の毒な様な庭である。たゞ土丈は平らで、肌理が細かで甚だ美くしい。三四郎は土を見てゐた。実際土を見る様に出来た庭である。
そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘が鳴り出した。三四郎は号鐘を聞きながら九時が来たんだらうと考へた。何もしないでゐても悪いから、桜の枯葉でも掃かうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと明いた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた。 (青空文庫より)
◇解説
前話で三四郎は、自分の当面している「三つの世界」について、床の中で思索をめぐらせた。(妄想を膨らました)
「翌日学校へ出ると講義は例によつて詰らないが、室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以て、追分の交番の前迄来ると、ぱつたり与次郎に出逢つた」
…三四郎は、「講義」は「詰らない」としながら、「室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて」というが(ここで語り手と三四郎は一体となっている)、この態度・姿勢では、「第二の世界」(学問)の「人となり終せ」ることは不可能だ。彼は「俗を離れ」たような気になっているが、油断するとたちまち「第三の世界」の人になっているだろう。だから「偉人」への道は遠い。彼は今まさに「さも偉人の様な態度を以て」ふるまっているだけだ。これではヘーゲルに叱られる。講義に出て、教室の人となれば、その内容が身につかなくとも自然と「第二の世界」の人となることができるし、やがては「偉人」と称えられると安易に考える三四郎。漱石の作品の男性の主人公は、恋愛・「第三の世界」を中心とした人生の様々な悩みを抱えて考え込む人が多いのだが、まだ若い大学新入生ということもあり、三四郎は少し違っている。彼は、悩んでいるようで実はそれほど悩まない。彼の悩みは主に、「第三の世界」についてだけだし、そこにエゴイズムの問題は出てこないのが特徴的だ。女性という存在そのものへの疑問が、三四郎の心を魅了しまた不安にさせる。
真に学問の世界の人とはなっていないことを見破られた三四郎は、佐々木だけでなく、「交番の巡査」にも笑われる。三四郎は学問の世界の人を仮装しているだけだ。
そのような三四郎に佐々木は、「もう少し普通の人間らしく歩くがいゝ。丸で浪漫的アイロニーだ」と揶揄する。三四郎はまだ一人前の「普通の人間」にもなっていない。彼はまずそれを目指すべきだと友人らしく指摘する佐々木。
佐々木は、「明日愈引越す。手伝ひに来て呉れ」という。新居は「西片町十番地への三号」。今の家の大家と約束した引っ越しの期限は守られるようだ。
「図書館で浪漫的アイロニーと云ふ句を調べて見たら、独乙のシユレーゲルが唱へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら/\ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して、下宿へ帰つて、すぐ寐た」
…「天才」ではない三四郎は、「安心」もできないし、「すぐ寝」てはいけない。学問の世界を志す者は、日夜勉学に励まなければならない。単なる憧れでは目的地点にたどり着けない世界だ。この「説」をうのみにし、そのまま信じるようでは、成業の見込みは無い。三四郎の油断、なまけ。
「翌日は約束だから、天長節にも拘はらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ」
…「天長節」は現在の天皇誕生日のことで、明治天皇の誕生日は11月3日。休暇日だった。
〇広田先生の新居の様子
・玄関の代りに西洋間が一つ突き出してゐて、それと鉤の手に座敷がある。
・座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向が勝手、下女部屋と順に並んでゐる。
・外に二階がある。但し何畳だか分らない。
・庭に大きな百日紅がある。然し是は根が隣りにあるので、幹の半分以上が横に杉垣から、此方の領分を冒してゐる丈。
・大きな桜がある。是は慥かに垣根の中に生えてゐる。其代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。
・菊が一株ある。けれども寒菊と見えて、一向咲いて居ない。
・此外には何にもない。気の毒な様な庭である。
・たゞ土丈は平らで、肌理が細かで甚だ美くしい。実際土を見る様に出来た庭である…三四郎は肌理が細かなものに魅かれる。人の肌だけでなく、土の表面もだ。
(広田先生新居間取図を、NOTEの
方に掲載しました)
「そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘が鳴り出した。三四郎は号鐘を聞きながら九時が来たんだらうと考へた」
…佐々木との約束は、「九時迄に向へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから」である。
「何もしないでゐても悪いから、桜の枯葉でも掃かうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと明いた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた」
…美禰子登場。意外な人物の突然の登場で、三四郎の鼓動は早く高くなる。三四郎は第三の世界でどう立ち居振舞うのだろうか。