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夏目漱石「三四郎」本文と解説4-8 三四郎には三つの世界が出来た。

◇本文

 三四郎には三つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂(いわゆる)明治十五年以前の()がする。凡てが平穏である代りに凡てが寐坊気(ねぼけ)てゐる。(もっと)も帰るに世話は()らない。戻らうとすれば、すぐに戻れる。たゞ、いざとならない以上は戻る気がしない。云はゞ立退場(たちのきば)の様なものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、此立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さへ此所(こゝ)に葬つたかと思ふと、急に勿体(もったい)なくなる。そこで手紙が来た時丈は、しばらく此世界に彽徊して旧歓を温める。

 第二の世界のうちには、(こけ)の生えた錬瓦造りがある。片隅から片隅を見渡すと、向ふの人の顔がよく分からない程に広い閲覧室がある。梯子(はしご)を掛けなければ、手の届きかねる迄高く積み重ねた書物がある。手摺(てずれ)、指の(あか)、で黒くなつてゐる。金文字で光つてゐる。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上に積つた塵がある。此塵(このちり)は二三十年かゝつて漸く積つた貴とい塵である。静かな月日に打ち勝つ程の静かな塵である。

 第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしてゐる。あるものは空を見て歩いてゐる。あるものは(うつ)向いて歩いてゐる。服装(なり)は必ず(きた)ない。生計(くらし)は屹度貧乏である。さうして(あん)如としてゐる。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚からない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸である。広田先生は此内にゐる。野々宮君も此内にゐる。三四郎は此内の空気を略(ほゞ)解し得た所にゐる。出れば出られる。然し折角 ()し掛けた趣味を思ひ切つて捨てるのも残念だ。

 第三の世界は燦として春の如く(うご)いてゐる。電燈がある。銀匙(ぎんさじ)がある。歓声がある。笑語(しょうご)がある。泡立つ三鞭(シャンパン)(さかづき)がある。さうして凡ての上の(かんむり)として美くしい女性がある。三四郎はその女性の一人に口を()いた。一人を二遍見た。此世界は三四郎に取つて最も深厚な世界である。此世界は鼻の先にある。たゞ近づき難い。近づき難い点に於て、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くから此世界を眺めて、不思議に思ふ。自分が此世界のどこかへ這入らなければ、其世界のどこかに陥欠が出来る様な気がする。自分は此世界のどこかの主人公であるべき資格を有してゐるらしい。それにも(かか)はらず、円満の発達を(こいねが)ふべき筈の此世界が、却つて(みづか)らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでゐる。三四郎にはこれが不思議であつた。

 三四郎は床のなかで、此三つの世界を並べて、互に比較して見た。次に此三つの世界を掻き混ぜて、其中からひとつの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美くしい細君を迎へて、さうして身を学問に委ねるに越した事はない。

 結果は頗る平凡である。けれども此結果に到着する前に色々考へたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身から見ると、夫程平凡ではなかつた。

 たゞかうすると広い第三の世界を(びょう)たる一個の細君で代表させる事になる。美くしい女性は沢山ある。美くしい女性を翻訳すると色々になる。――三四郎は広田先生にならつて、翻訳と云ふ字を使つて見た。――(いや)しくも人格上の言葉に翻訳の出来る限りは、其翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を(まった)からしむる為に、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人を知つて甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである。

 三四郎は論理を此所(こゝ)迄延長して見て、少し広田さんにかぶれたなと思つた。実際の所は、これ程痛切に不足を感じてゐなかつたからである。 (青空文庫より)


◇解説

「三四郎には三つの世界が出来た」。

「第一の世界」…懐かしくも温かい故郷・過去。しかしもう積極的に戻ろうとは思わない。

・遠くにある。

・与次郎の所謂(いわゆる)明治十五年以前の()がする。

・凡てが平穏である代りに凡てが寐坊気(ねぼけ)てゐる。

(もっと)も帰るに世話は()らない。戻らうとすれば、すぐに戻れる。

・たゞ、いざとならない以上は戻る気がしない。云はゞ立退場(たちのきば)の様なものである。

・三四郎は脱ぎ棄てた過去を、此立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さへ此所(こゝ)に葬つたかと思ふと、急に勿体(もったい)なくなる。そこで手紙が来た時丈は、しばらく此世界に彽徊して旧歓を温める。


「第二の世界」…学問の世界。広田や野々宮が存在。行こうと思えば行かれるが躊躇。

(こけ)の生えた錬瓦造りがある…大学や研究室のこと。

・片隅から片隅を見渡すと、向ふの人の顔がよく分からない程に広い閲覧室がある。梯子(はしご)を掛けなければ、手の届きかねる迄高く積み重ねた書物がある。手摺(てずれ)、指の(あか)、で黒くなつてゐる。金文字で光つてゐる。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上に積つた塵がある。此塵(このちり)は二三十年かゝつて漸く積つた貴とい塵である。静かな月日に打ち勝つ程の静かな塵である…図書館や、知の集積のこと。

・第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしてゐる。あるものは空を見て歩いてゐる(未来への想像・創造)。あるものは(うつ)向いて歩いてゐる(研究内容や課題の沈思黙考)。服装(なり)は必ず(きた)ない(身なりを気にせず研究や思索に取り組む)。生計(くらし)は屹度貧乏である。さうして(あん)如としてゐる(利益や富を求めない)。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚からない(俗世を超越)。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸である。

・広田先生、野々宮君が存在。

・三四郎は此内の空気を略(ほゞ)解し得た所にゐる。出れば出られる(この世界に行こうと思えば行かれる)。

・然し折角 ()し掛けた趣味を思ひ切つて捨てるのも残念だ(世の中には学問や研究に限らず、さまざまな知識や教養、面白味があり、研究に没頭するあまりにそれらを遠ざけるのも惜しい気持ちがある)。


火宅(かたく)」…(火事にあって燃え盛る邸宅の意) (仏教で)煩悩の()む時が無く、安らぎを得ない三界(さんがい)

三界(さんがい)」…(仏教的世界観で)人間初めすべての生き物が過去・現在・未来にわたって次つぎに生まれ変わるという境遇。大きく「欲界」「色界」「無色界」の三つに分かれる。(広義では、世界中や、生きている限りのこの世を指す) (ともに、三省堂「新明解国語辞典」より)


「第三の世界」…女性、恋の世界。その奥深さと危険なにおいに、近づきがたい。しかし自分はその世界の一員になる資格を有しており、またその世界に入るべきだと感じる。自由に出入することが困難。

・燦として春の如く(うご)いてゐる。

・電燈がある。銀匙(ぎんさじ)がある。歓声がある。笑語(しょうご)がある。泡立つ三鞭(シャンパン)(さかづき)がある。さうして凡ての上の(かんむり)として美くしい女性がある…とても華やかで心が浮き立つ場所

・三四郎はその女性の一人に口を()いた(…よし子)。一人を二遍見た(…美禰子)。

・此世界は三四郎に取つて最も深厚な世界である。

・此世界は鼻の先にある。たゞ近づき難い。近づき難い点に於て、天外の稲妻と一般(同じ)である…触れれば感電死。

・三四郎は遠くから此世界を眺めて、不思議に思ふ。自分が此世界のどこかへ這入らなければ、其世界のどこかに陥欠が出来る様な気がする。自分は此世界のどこかの主人公であるべき資格を有してゐるらしい。それにも(かか)はらず、円満の発達を(こいねが)ふべき筈の此世界が、却つて(みづか)らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでゐる。


「三四郎は床のなかで、此三つの世界を並べて、互に比較して見た。次に此三つの世界を掻き混ぜて、其中からひとつの結果を得た」。その結果は、「要するに、国から母を呼び寄せて(第一の世界)、美くしい細君を迎へて(第三の世界)、さうして身を学問に委ねる(第二の世界)に越した事はない」という「頗る平凡」なものとなった。

「けれども此結果に到着する前に色々考へたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身から見ると、夫程平凡ではなかつた」とは、あれこれ一生懸命考えて得た結論に価値を置く思索家の立場からすると、この結論は平凡なようでいて実は価値も意味もあるということ。


「たゞかうすると広い第三の世界を(びょう)たる一個の細君で代表させる事になる。美くしい女性は沢山ある。美くしい女性を翻訳すると色々になる。――三四郎は広田先生にならつて、翻訳と云ふ字を使つて見た。――(いや)しくも人格上の言葉に翻訳の出来る限りは、其翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を(まった)からしむる為に、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人を知つて甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである」

…こういう論理を詭弁という。三四郎はあれこれ無理に理由付けして自分の考えを主張しようとするが、結局彼が言いたいのは、「交際相手が一人では不満だから、「色々」な「なるべく多くの美しい女性と接触」(交際)したい」ということ。それをカッコつけていっているだけだ。三四郎の「自己の個性を(まった)からしむる為に」利用されたら、相手の女性はたまったものでない。「ほんと何言ってんの」の一言だ。いろんな女性と付き合って、あれやこれや楽しみたいっていうだけの男。まだ女性と付き合ったことないのに。よし子さん、美禰子さん、避難して下さい!

生意気でぜいたくな夢想をする三四郎。


「三四郎は論理を此所(こゝ)迄延長して見て、少し広田さんにかぶれたなと思つた。実際の所は、これ程痛切に不足を感じてゐなかつたからである」

…特に第三の世界について言うと、こんなものは「論理」とは言わない。ただの欲求不満。女性の尻を追いかけるストーカー。だから、「かぶれたな」と言われた「広田さん」(ここで「広田先生」と言わなかったのは、多少の後ろめたさがあったからだ)はいい迷惑で気の毒だ。若い未経験な三四郎は、「実際の所」第三の世界に対し「痛切に不足を感じて」いるはずだ。従って、最後の一文は嘘ということになる。若い大学生男子が、女性の不足を感じないことは無い。 (違う趣味の場合は除く)  「実際のところ」三四郎は、よし子にも美禰子にも、会うとドキドキしっぱなしだ。


まだ女性と付き合ったことも無いのに、たくさんの女性と交際したい・できると考える三四郎。いい気なものです。妄想もいい加減にせいと言われるだろう。  

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