夏目漱石「三四郎」本文と解説4-7 三四郎は母の手紙を巻き返して、封に入れて、枕元へ置いた儘眼を眠つた。鼠が急に天井で暴れ出したが、やがて静まつた。
◇本文
与次郎の帰つたのは彼是十時近くである。一人で坐つて居ると、何処となく肌寒の感じがする。不図気が付いたら、机の前の窓がまだ閉てずにあつた。障子を明けると月夜だ。目に触れるたびに不愉快な檜に、蒼い光が射して、黒い影の縁が少し烟つて見える。檜に秋が来たのは珍しいと思ひながら、雨戸を閉てた。
三四郎はすぐ床へ這入つた。三四郎は勉強家といふより寧ろ彽徊家なので、割合書物を読まない。其代りある掬すべき情景に逢ふと、何遍もこれを頭の中で新たにして喜んでゐる。其の方が命に奥行がある様な気がする。今日も、何時もなら、神秘的講義の最中に、ぱつと電燈が点く所などを繰返して嬉しがる筈だが、母の手紙があるので、まづ、それから片付け始めた。
手紙には新蔵が蜂蜜を呉れたから、焼酎を混ぜて、毎晩 盃に一杯づゝ飲んでゐるとある。新蔵は家の小作人で、毎年冬になると年貢米を二十俵づゝ持つてくる。至つて正直ものだが、疳癪が強いので、時々女房を薪で擲る事がある。――三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼ひ出した昔の事迄思ひ浮べた。それは五年程前である。裏の椎の木に蜜蜂が二三百疋ぶら下がつてゐたのを見付けて、すぐ籾漏斗に酒を吹きかけて、悉く生捕にした。それから之を箱へ入れて、出入りの出来る様な穴を開けて、日当りの好い石の上に据ゑてやつた。すると蜂が段々 殖えて来る。箱が一つでは足りなくなる。二つにする。又足りなくなる。三つにする。と云ふ風に殖やして行つた結果、今では何でも六箱か七箱ある。其うちの一箱はこを年に一度づゝ石から卸して蜂の為に蜜を切り取ると云つてゐた。毎年休みに帰るたびに蜜を上げませうと云はない事はないが、ついに持つて来た例がなかつた。が今年は物覚が急に善くなつて、年来の約束を履行したものであらう。
平太郎が親爺の石塔を建てたから見に来て呉れろと頼みにきたとある。行つて見ると、木も草も生えてゐない庭の赤土の真中に、御影石で出来てゐたさうである。平太郎は其御影石が自慢なのだと書いてある。山から切り出すのに幾日とか掛かつて、それから石屋に頼んだら十円取られた。百姓や何かには分わからないが、貴所のとこの若旦那は大学校へ這入つてゐる位だから、石の善悪は屹度分かる。今度手紙の序に聞いて見て呉れ、さうして十円も掛けて親爺の為に拵てやつた石塔を賞めて貰つてくれと云ふんださうだ。――三四郎は独りでくす/\笑ひ出した。千駄木の石門より余程烈しい。
大学の制服を着た写真を寄こせとある。三四郎は何時か撮つて遣らうと思ひながら、次へ移ると、案の如く三輪田の御光さんが出て来た。――此間御光さんの御母さんが来て、三四郎さんも近々大学を卒業なさる事だが、卒業したら宅の娘を貰つて呉れまいかと云ふ相談であつた。御光さんは器量もよし気質も優しいし、家に田地も大分あるし、其上家と家との今迄の関係もある事だから、さうしたら双方共都合が好いだらうと書いて、そのあとへ但し書が付けてある。――御光さんも嬉しがるだらう。――東京のものは気心が知れないから私はいやぢや。
三四郎は手紙を巻き返して、封に入れて、枕元へ置いた儘眼を眠つた。鼠が急に天井で暴れ出したが、やがて静まつた。 (青空文庫より)
◇解説
「与次郎の帰つたのは彼是十時近くである」…夜まで話し込み、この時間になっても気にしないのは、学生同士だからできること。
「一人で坐つて居ると、何処となく肌寒の感じがする」…うるさい人がやっと帰ったので、急に静けさが増した。
「不図気が付いたら、机の前の窓がまだ閉てずにあつた」
…冷気を急に感じる。季節はもう秋。
「障子を明けると月夜だ。目に触れるたびに不愉快な檜に、蒼い光が射して、黒い影の縁が少し烟つて見える。檜に秋が来たのは珍しいと思ひながら、雨戸を閉てた」
…秋には月がよく似合う。三四郎の下宿の部屋からは、「目に触れるたびに不愉快な檜」が見える。なおこの情報はここで初めて示される。
「檜に秋が来たのは珍しい」について。
檜は常緑高木なので、その葉は年中緑色だが、それがまるで秋に紅葉したかのように「縁が少し烟つて見え」、色が変わった様子が「珍しい」ということ。戸を開くたびにその葉の緑色が目に付くほどであることを「不愉快」と言い、その葉が少し変色していることに気づく三四郎。葉の黄変は、病気によるものか、枯れようとしているのか。
この場面には、「月夜」や「秋」という語が用いられており、秋の深まりが色が変わらないはずの檜にまで及んでいる様子を表す。季節や風物の変化は、物語の展開の場面に表れる。
「三四郎は勉強家といふより寧ろ彽徊家なので、割合書物を読まない」。
「彽徊」…考え事をしながら、庭園などを行ったり来たりすること。
「低回趣味」…傍観者の立場で、ゆったりと自然・芸術・人生を味わおうとする態度。(ともに三省堂「新明解国語辞典」)
「其代りある掬すべき情景に逢ふと、何遍もこれを頭の中で新たにして喜んでゐる」…何か気に入った出来事があると、それを何べんも繰り返し頭の中で考えるさま。
「其の方が命に奥行がある様な気がする。今日も、何時もなら、神秘的講義の最中に、ぱつと電燈が点く所などを繰返して嬉しがる筈だが、母の手紙があるので、まづ、それから片付け始めた」
…「命に奥行がある様な気がする」とは、心に感じたものを何度も想起し考える方が、自分の趣味や教養を深め、想像力を豊かにするということ。三四郎は、読書によって知識を得ることよりも、想像・思索を大切にしている。
「思ひて学ばざれば即ち殆ふし」(考えるだけで学ばないと危険だよ)と孔子は言ったが、三四郎大丈夫?
〇「母の手紙」の内容。
・「新蔵が蜂蜜を呉れたから、焼酎を混ぜて、毎晩 盃に一杯づゝ飲んでゐる」…自分の健康管理は自分でちゃんとやっているから心配しなくて大丈夫だと息子に伝えたい。
・続いて新蔵の説明がされる。それに続き、「三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼ひ出した昔の事迄思ひ浮べた」内容が述べられる。実家の小作人の新蔵は、真面目だが粗暴。懐かしい田舎の風景が三四郎の脳裏にありありと浮かぶ。
・「平太郎が親爺の石塔を建てたから見に来て呉れろと頼みにきたとある」。「木も草も生えてゐない庭の赤土の真中に、御影石で出来てゐた」。「平太郎は其御影石が自慢なのだ」。「山から切り出すのに幾日とか掛かつて、それから石屋に頼んだら十円取られた」。「貴所のとこの若旦那は大学校へ這入つてゐる位だから、石の善悪は屹度分かる。今度手紙の序に聞いて見て呉れ、さうして十円も掛けて親爺の為に拵てやつた石塔を賞めて貰つてくれ」。このように、いかにもものを知らぬ田舎者らしい愛すべき様子に、「三四郎は独りでくす/\笑ひ出した」。都会でも「千駄木の石門」が話題になっているが、それ「より余程烈しい」。田舎では大学生をありがたがる。しかし実際に入学した者は、夢うつつで講義を聞いている始末・落差。
・「大学の制服を着た写真を寄こせとある」→「三四郎は何時か撮つて遣らうと思」う。写真を撮るのは恥ずかしいし手間がかかるが、このくらいのことをしてあげて、母の願いをかなえるのは親孝行になるだろうと思っている。
・「次へ移ると、案の如く三輪田の御光さんが出て来た。――此間御光さんの御母さんが来て、三四郎さんも近々大学を卒業なさる事だが(三四郎はまだ入学したばかりなので、間違うにしてもずいぶん気が早い「御光さんの御母さん」だ)、卒業したら宅の娘を貰つて呉れまいか(あと3年後のことだ)と云ふ相談であつた。御光さんは器量もよし気質も優しいし(これは三四郎の評価とは異なる)、家に田地も大分あるし(財産目的か?)、其上家と家との今迄の関係もある(田舎ではこれが最重要視される)事だから、さうしたら双方共都合が好いだらう(家と家との「都合」で結婚させられてはたまらない)と書いて、そのあとへ但し書が付けてある。――御光さんも嬉しがるだらう。――東京のものは気心が知れないから私はいやぢや」
…最後の部分の「御光さんも嬉しがるだらう」は、御光さんは女で恥ずかしいから言えないので、自分が代わりに言ってあげる、という気持ちからの言葉なのだが、これは結局、「東京のものは気心が知れないから私はいやぢや」が言いたいのであり、その意思の補強として、御光さんの三四郎への恋愛感情を借用したものだ。いずれも三四郎にとっては、田舎めいてうるさく感じる言葉だ。御光さんとその家族、母親は、自分との結婚を望むのだろうが、肝心の自分の気持ちについては全く考慮されていない主張が述べられた手紙。自分たちはこうしたい。それに従ってくれ。そうでなければ「いやぢや」。この言い方には、反発しか感じないだろう。「俺の気持ちはどーなるの?」ということ。自分の都合しか考えない田舎者・母親。つい数か月前まではそこで暮らしていた三四郎には、その気持ちが分かる部分もあり、すべてを否定するわけではないが、それでもやはり不快に思っただろう。
だからこの母の手紙は、母への懐かしさや、故郷への帰属意識を薄める働きしか持たなず、三四郎を故郷から遠ざける作用を持つ。なぜなら三四郎は、田舎を出発した時の彼とはもう違ってしまっているからだ。彼は東京で様々な人と出会い、さまざまなことを考え始めている。「頭の中」で「広い」「世界」を考える三四郎。
「三四郎は手紙を巻き返して、封に入れて、枕元へ置いた儘眼を眠つた」
…今話での語り手の説明はこれで終わる。この後三四郎の心情を推し量るのは、読者の役目・仕事だ。
「鼠が急に天井で暴れ出したが、やがて静まつた」
…三四郎の心も母の手紙によってざわめいた。彼には既に新しい場所、新しい人間関係、新しい世界が開かれている。いつまでも「田舎者」ではないし、「田舎者」のままではいられない。
それと同時に、母の手紙のありがたさも、彼は感じている。それによって故郷をあたたかく思い出すことができる。自分という人間をこれまで育んでくれた、懐かしい場所だ。
このように、三四郎の心に波が立ったり、やがてそれが静まったりした様子を、「鼠が急に天井で暴れ出したが、やがて静まつた」と喩えた。
さきほど、「三四郎の心情を推し量るのは、読者の仕事だ」と述べたが、以前も述べたように、「三四郎」で漱石は比較的分かりやすく説明してくれることが多い。床の中で三四郎が考えていることは、次話で詳しく説明される。有名な、「三つの世界」だ。