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夏目漱石「三四郎」本文と解説4-6 与次郎「広田先生の名は萇(ちよう)。くさかんむりが余計だ。妙な名を付けたものだね。昔から今日に至る迄高等学校の先生。もう十二三年になるだらう」

◇本文

 そのうち与次郎の尻が次第に落ち付いて来て、燈火親しむべし抔といふ漢語さへ借用して嬉しがる様になつた。話題は端なく広田先生の上に落ちた。

「君の所の先生の名は何と云ふのか」

「名は(ちよう)」と指で書いて見せて、「艸冠(くさかんむり)が余計だ。字引きにあるか知らん。妙な名を付けたものだね」と云ふ。

「高等学校の先生か」

「昔から今日に至る迄高等学校の先生。えらいものだ。十年一日の如しと云ふが、もう十二三年になるだらう」

「子供は居るのか」

「小供どころか、まだ独身だ」

 三四郎は少し驚ろいた。あの年迄一人で居られるものかとも疑つた。

「何故奥さんを貰はないのだらう」

「そこが先生の先生たる所で、あれで大変な理論家なんだ。細君を貰つて見ない先から、細君はいかんものと理論で(きま)つてゐるんださうだ。愚だよ。だから始終矛盾ばかりしてゐる。先生、東京程汚ない所はない様に云ふ。それで石の門を見ると恐れを()して、不可(いか)ん/\とか、立派過ぎるとかいふだらう」

「ぢや細君も試みに持つて見たら()からう」

「大いに()しとか何とかいふかも知れない」

「先生は東京が汚ないとか、日本人が醜いとか云ふが、洋行でもした事があるのか」

「なにするもんか。あゝ云ふ人なんだ。万事頭の方が事実より発達してゐるんだから、あゝなるんだね。其代り西洋は写真で研究してゐる。巴理(パリ)の凱旋門だの、倫敦(ロンドン)の議事堂だの沢山持つてゐる。あの写真で日本を律するんだから(たま)らない。汚い訳さ。それで自分の住んでる所は、いくら汚くつても存外平気だから不思議だ」

「三等汽車へ乗つて居つたぞ」

「汚ない/\つて不平を云やしないか」

「いや別に不平も云はなかつた」

「然し先生は哲学者だね」

「学校で哲学でも教へてゐるのか」

「いや学校ぢや英語丈しか受持つてゐないがね、あの人間が、(おのづか)ら哲学に出来上つてゐるから面白い」

「著述でもあるのか」

「何にもない。時々論文を書く事はあるが、ちつとも反響がない。あれぢや駄目だ。丸で世間が知らないんだから仕様がない。先生、僕の事を丸行燈だといつたが、夫子(ふうし)自身は偉大な暗闇だ」

「どうかして、世の中へ出たら好ささうなものだな」

「出たら好ささうなものだつて、――先生、自分ぢや何にも()らない人だからね。第一僕が居なけりや三度の飯さへ食へない人なんだ」

 三四郎は真逆(まさか)と云はぬ許に笑ひ出した。

「嘘ぢやない。気の毒な程何にも()らない人でね。何でも、僕が下女に命じて、先生の気に入る様に始末を付けるんだが――そんな瑣末な事は兎に角、是から大いに活動して、先生を一つ大学教授にして()らうと思ふ」

 与次郎は真面目である。三四郎は其大言に驚ろいた。驚ろいても構はない。驚ろいた儘に進行して、仕舞に、

「引越をする時は是非手伝に来て呉れ」と頼んだ。丸で約束の出来た家が、とうからある如き口吻である。さうして()ぐ帰つた。

(青空文庫より)


◇解説

三四郎との会話の合間に広田が住む新しい借家の話題をうるさいほど挟んでいた佐々木だったが、そのせわしなさが話すうちにだいぶ落ち着いてくる。しかし前話にあったとおり、「今の持主が高利貸で、家賃を無暗に上げるのが、業腹(ごうはら)だと云ふので、与次郎が此方(こつち)から立退きを宣告したのださうだ。それでは与次郎に責任がある訳だ」。しかも、「先月中に越す(はづ)の所を明後日(あさつて)の天長節迄待たしたんだから、どうしたつて明日中(あしたぢう)に探さなければならない」という切羽詰まった状態に変わりはない。


「話題は端なく広田先生の上に落ちた」。広田の情報が示される。

・「名は(ちよう)」…これに対し佐々木は、「艸冠(くさかんむり)が余計だ。字引きにあるか知らん。妙な名を付けたものだね」と批判する。

・高校教師…これについても、「昔から今日に至る迄高等学校の先生。えらいものだ」と揶揄する。

・子供はいない…佐々木は、「小供どころか、まだ独身だ」と言い切る。

 三四郎が「あの年迄一人で居られるものかとも疑」い、また先に佐々木は、広田が高校教師になって「もう十二三年になるだらう」とあるから、仮に大学を23歳で卒業してすぐに教師になったとすると、35、6歳だろう。

・妻帯していない…これについても佐々木は「愚だよ。だから始終矛盾ばかりしてゐる」と痛烈に批判する。広田の前とは正反対だ。「そこが先生の先生たる所で、あれで大変な理論家なんだ。細君を貰つて見ない先から、細君はいかんものと理論で(きま)つてゐるんださうだ」。石の門を嫌がるが、その根拠はない。早く決めてしまえばいいのに、と、佐々木は思っている。

また、「細君も試みに持つて見たら」、「大いに()しとか何とかいふかも知れない」と批判。

洋行の経験もなく、「万事頭の方が事実より発達してゐるんだから、あゝなるんだね」。「其代り西洋は写真で研究して」おり、「あの写真で日本を律するんだから(たま)らない。汚い訳さ」。さらには「それで自分の住んでる所は、いくら汚くつても存外平気だから不思議だ」とする。このように佐々木は広田のすべてを手ひどく批判する。ならばそのような人を慕って、なぜ「先生」と呼ぶのか。不思議な男だ。三四郎を前に、強がっているのか。

次に、「然し先生は哲学者だね」と、今度は急に褒め出す。

「学校ぢや英語丈しか受持つてゐないがね、あの人間が、(おのづか)ら哲学に出来上つてゐるから面白い」。いつか図書館の本に落書きされていたヘーゲルのようだ。

「著述」も「何にもない。時々論文を書く事はあるが、ちつとも反響がない。あれぢや駄目だ。丸で世間が知らないんだから仕様がない。先生、僕の事を丸行燈だといつたが、夫子(ふうし)自身は偉大な暗闇だ」。「偉大な暗闇」では、褒めているのか(けな)しているのかわからない。

「出たら好ささうなものだつて、――先生、自分ぢや何にも()らない人だからね。第一僕が居なけりや三度の飯さへ食へない人なんだ」。考え方の堅い哲学者で世に出ようともしないダメな人だから、自分が世話をしているのだと言い出す佐々木。「気の毒な程何にも()らない人でね。何でも、僕が下女に命じて、先生の気に入る様に始末を付けるんだが」。ダメ人間をサポートしていると自慢する佐々木。


「――そんな瑣末な事は兎に角、是から大いに活動して、先生を一つ大学教授にして()らうと思ふ」。散々(けな)しておきながら、急に真面目に言い出しので、「三四郎は其大言に驚ろいた」。

佐々木は最後に、「引越をする時は是非手伝に来て呉れ」と頼む。「丸で約束の出来た家が、とうからある如き口吻である。さうして()ぐ帰つた」。

どこかいい貸家は無いかと散々聞いていたかと思うと、「丸で約束の出来た家が、とうからある如き口吻」。三四郎はガクッとしたろう。全く人騒がせな男だ。

人に散々気をもませ心配させておいて、実は大丈夫そう。これは一番ガクッとくる。何だそれ!?と思う。


いずれにせよ「明後日(あさつて)」までには引っ越しを済ませなければならない。

また、「広田先生大学教授化計画」は、事件になりそうな不穏な気配がする。

与次郎、いろいろホントに大丈夫?

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