夏目漱石「三四郎」本文と解説4-5 与次郎「先月中に越すはづの所をあさつての天長節迄待たしたんだから、どうしたつて明日中に探さなければならない。どこか心当りはないか」
◇本文
翌日学校へ出て見ると与次郎が居ない。午から来るかと思つたが来ない。図書館へも這入つたが矢っ張り見当らなかつた。五時から六時迄純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記をするには暗過ぎる。電燈が点くには早過ぎる。細長い窓の外に見える大きな欅の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、室の中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしてゐる。従つて暗闇で饅頭を食ふ様に、何となく神秘的である。三四郎は講義が解らない所が妙だと思つた。頬杖を突いて聴いてゐると、神経が鈍くなつて、気が遠くなる。これでこそ講義の価値がある様な心持がする。所へ電燈がぱつと点いて、万事が稍明瞭になつた。すると急に下宿へ帰つて飯が食ひたくなつた。先生もみんなの心を察して、好い加減に講義を切り上げて呉れた。三四郎は早足で追分迄帰つてくる。
着物を脱ぎ換えて膳に向ふと、膳の上に、茶碗蒸しと一所に手紙が一本載せてある。其上封を見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟つた。済まん事だが此半月あまり母の事は丸で忘れてゐた。昨日から今日へ掛けては時代錯誤だの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影も一向頭の中へ出て来なかつた。三四郎は夫で満足である。母の手紙はあとで緩り覧る事として、取り敢ず食事を済まして、烟草を吹かした。其 烟を見ると先刻の講義を思ひ出す。
そこへ与次郎がふらりと現はれた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家探しで学校所ぢやないさうである。
「そんなに急いで越すのか」と三四郎が聞くと、
「急つて先月中に越す筈の所を明後日の天長節迄待たしたんだから、どうしたつて明日中に探さなければならない。どこか心当りはないか」と云ふ。
こんなに忙がしがる癖に、昨日は散歩だか、貸家探しだか分らない様にぶら/\ 潰してゐた。三四郎には殆んど合点が行かない。与次郎は之を解釈して、それは先生が一所だからさと云つた。「元来先生が家を探すなんて間違つてゐる。決して探した事のない男なんだが、昨日はどうかしてゐたに違ない。御蔭で佐竹の邸で苛い目に叱られて好い面の皮だ。――君 何所かないか」と急に催促する。与次郎が来たのは全くそれが目的らしい。能く/\原因を聞いて見ると、今の持主が高利貸で、家賃を無暗に上げるのが、業腹だと云ふので、与次郎が此方から立退きを宣告したのださうだ。それでは与次郎に責任がある訳だ。
「今日は大久保迄行つて見たが、矢っ張りない。――大久保と云へば、序に宗八さんの所へ寄つて、よし子さんに逢つて来た。可哀さうにまだ色光沢が悪い。――辣薑性の美人――御母さんが君に宜しく云つて呉れつてことだ。しかし其後はあの辺も穏やかな様だ。轢死もあれぎりないさうだ」
与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平生から締りのない上に、今日は家探しで少し焦き込んでゐる。話が一段落つくと、相の手の様に、何所かないか/\と聞く。仕舞には三四郎も笑ひ出した。 (青空文庫より)
◇解説
「翌日学校へ出て見ると与次郎が居ない」。
「五時から六時迄純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た」。「細長い窓の外に見える大きな欅の枝の奥が、次第に黒くなる時分」の講義は、「講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりして」おり、「何となく神秘的である」。夕方の「五時から六時迄」「の講義」とは、なかなか大変だ。朝から暗くなるまで、講座がぎっしり設定されている。以前三四郎は、週に40時間も受講していた。月から金の5日間に振り分けると、一日8時間にもなる。
三四郎は変なことを考える。「講義が解らない所が妙だ(かえって面白い)」。「頬杖を突いて聴いてゐると、神経が鈍くなつて、気が遠くなる。これでこそ講義の価値がある様な心持がする」。分からない講義と退屈な大学生活に慣れた三四郎の様子。毎日が惰性で過ぎていく。そこに「講義の価値」はない。妙な論理を展開したものだ。
※純文科…この名称で検索しましたが、何もヒットしませんでした。
・「純文学」…(通俗文学・大衆文学と違って)多く売れることを期待せず、純粋に芸術的な意図の下に作られる文芸作品。(三省堂「新明解国語辞典」)
・「1886(明治19)年3月2日、伊藤博文内閣は帝国大学令を発し、東京大学を帝国大学へと改組します。帝国大学令には「国家の須要に応ずる学術技芸を教授し並に其蘊奥を攷究する」場が帝国大学だと明記されていました。前年になされた内閣制度への移行に象徴される、新しい国家体制のもとで、文部省所管の東京大学、司法省所管の法学校、工部省所管の工部大学校、農商務省の東京農林学校を統合した、唯一の帝国大学として学校体系の頂点に立つ大学とされたのです。
これにともない文学部も、法・医・工・文・理の五分科大学の一つとしての文科大学となり、これまでの第一科哲学科、第二科和文学科、第三科漢文学科に加え、第四科として博言学科(のちの言語学科)の設置をみます。この後、史学科、英文学科、独逸文学科、仏蘭西文学科も順次設置されていきました。この頃の教授陣としては、博言学を講じたチェンバレン、史学を講じたリース、哲学・美学を講じたケーベル、英文学を講じたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やディクソンなどの名が挙げられ、外国人教授の活躍が目立ちます。後進の「帝国」の一つとして、学問においても促成が求められた時代の雰囲気が伝わってくるようです」(文学部の歴史 - 起源と沿革 │ 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科)
下宿に帰ると、母からの手紙が届いていた。
「済まん事だが此半月あまり母の事は丸で忘れてゐた。昨日から今日へ掛けては時代錯誤だの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影も一向頭の中へ出て来なかつた」。当面していた様々な課題への屈託からしばし解放されていた三四郎の様子。女性への関心も薄れ、「三四郎は夫で満足である」。(ホント?)
「そこへ与次郎がふらりと現はれた」。「貸家探しで学校所ぢやないさうである」…主客転倒。
「能く/\原因を聞いて見ると、今の持主が高利貸で、家賃を無暗に上げるのが、業腹だと云ふので、与次郎が此方から立退きを宣告したのださうだ。それでは与次郎に責任がある訳だ」…人騒がせな男だ。自分の不手際により先生にまで迷惑が掛かっている。
「今日は大久保迄行つて見たが、矢っ張りない。――大久保と云へば、序に宗八さんの所へ寄つて、よし子さんに逢つて来た。可哀さうにまだ色光沢が悪い。――辣薑性の美人――御母さんが君に宜しく云つて呉れつてことだ」
…佐々木からよし子の情報が語られる。佐々木からも「美人」と認められるよし子。この言葉を聞いた時、三四郎はちょっとドキッとしたろう。佐々木も彼女に好感を持っているのではないかと。
他動性な「与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平生から締りのない上に、今日は家探しで少し焦き込んでゐる。話が一段落つくと、相の手の様に、何所かないか/\と聞く。仕舞には三四郎も笑ひ出した」。
佐々木は憎めない男なのだ。たまに失敗をして人に迷惑をかけるが、彼がいることによって場が明るくなる。他者の心を軽くする良き放縦さ。考え込みがちな三四郎の対極に位置する最適なパートナーだ。彼がいるから三四郎は「笑」える。