夏目漱石「三四郎」本文と解説3-12 馴々しいのとは違ふ。初めから古い知り合ひなのだ。
◇本文
三四郎は新らしい四角な帽子を被つてゐる。此帽子を被つて病院に行けるのが一寸得意である。冴々しい顔をして野々宮君の家を出た。
御茶の水で電車を降りて、すぐ俥に乗つた。いつもの三四郎に似合はぬ所作である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘が鳴り出した。いつもなら手帳と印気壺を以て、八番の教室に這入る時分である。一二時間の講義位聴き損なつても構はないと云ふ気で、真直ぐに青山内科の玄関迄乗り付けた。
上がり口を奥へ、二つ目の角を右へ切れて、突当りを左へ曲がると東側の部屋だと教つた通り歩いて行くと、果してあつた。黒塗の札に野々宮よし子と仮名でかいて、戸口に懸けてある。三四郎は此名前を読んだ儘、しばらく戸口の所で佇(たゞず)んでゐた。田舎者だから敲するなぞと云ふ気の利いた事はやらない。
「此中にゐる人が、野々宮君の妹で、よし子と云ふ女である」
三四郎は斯う思つて立つてゐた。戸を開けて顔が見度もあるし、見て失望するのが厭でもある。自分の頭の中に往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似てゐないのだから困る。
後ろから看護婦が草履の音を立てゝ近付いて来た。三四郎は思ひ切つて戸を半分程開けた。さうして中にゐる女と顔を見合せた。(片手に握りハンドルを把つた儘)
眼の大きな、鼻の細い、唇の薄い、鉢が開いたと思ふ位に、額が広くつて顎が削けた女であつた。造作は夫丈である。けれども三四郎は、かう云ふ顔だちから出る、此時にひらめいた咄嗟の表情を生れて始めて見た。蒼白い額の後ろに、自然の儘(まゝ)に垂れた濃い髪が、肩迄見える。それへ東窓を洩れる朝日の光が、後ろから射すので、髪と日光の触れ合ふ境の所が菫色に燃えて、活きた暈を脊負てる。それでゐて、顔も額も甚だ暗い。暗くて蒼白い。其中に遠い心持のする眼がある。高い雲が空の奥にゐて容易に動かない。けれども動かずにも居られない。たゞ崩れる様に動く。女が三四郎を見た時は、かう云ふ眼付であつた。
三四郎は此表情のうちに嬾い憂鬱と、隠さゞる快活との統一を見出した。其統一の感じは三四郎に取つて、最も尊き人生の一片である。さうして一大発見である。三四郎は握りハンドルを把つた儘、――顔を戸の影から半分部屋の中に差し出した儘、此刹那の感に自己を放下し去つた。
「御這入りなさい」
女は三四郎を待ち設けた様に云ふ。其調子には初対面の女には見出す事の出来ない、安らかな音色があつた。純粋の小供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、かうは出られない。馴々(なれ/\)しいのとは違ふ。初めから旧い相識なのである。同時に女は肉の豊かでない頬を動かしてにこりと笑つた。蒼白いうちに、なつかしい暖味(あたゝかみ)が出来た。三四郎の足は自然と部屋の内へ這入つた。其時青年の頭の裡には遠い故郷にある母の影が閃めいた。 (青空文庫より)
◇解説
「三四郎は新らしい四角な帽子を被つてゐる。此帽子を被つて病院に行けるのが一寸得意である。冴々しい顔をして野々宮君の家を出た」
…カッコをつける三四郎。未知の若い女性に会えるのだから、その心の高揚は当然だ。上京の汽車の中では高等学校時代の帽子をかぶっていたから、東京で「新らしい」学生帽を購入したのだ。その帽子は大学生のしるしである。大学生という身分で若い女性の見舞いをする「得意」な気持ち。彼女はそんな自分の姿をどのように見、どのように感じるだろう。もしかしてそこから恋が始まるかもしれない。そんなことを「だらしなく」考える三四郎。おっと、口元までだらしなくなっては男が廃る。彼の「顔」(表情)は「冴え冴えしい」。大学で受講している時とはまるで違うイキイキとした表情。
「御茶の水で電車を降りて、すぐ俥に乗つた。いつもの三四郎に似合はぬ所作である」…謎の答え合わせに急ぐ三四郎は、余分に金がかかるのもいとわず、いつもは乗らぬ人力車にさっそうと飛び乗る。若い女性に会うためには、これくらいの出費はいとわない。景気づけのためだ。今彼は、人力車に乗る自分をカッコイイと思っている。
「威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘が鳴り出した。いつもなら手帳と印気壺を以て、八番の教室に這入る時分である。一二時間の講義位聴き損なつても構はないと云ふ気で、真直ぐに青山内科の玄関迄乗り付けた」
…女の答え合わせではなく、学問の答え合わせに急がなくてもいいのだろうか? そう、彼の頭は今、女性のことでいっぱいだ。女で飽和状態となった頭を抱え、三四郎は一直線に「青山内科の玄関迄乗り付けた」。良く言えば青春時代の異性へのときめき。悪く言えばただの性的衝動。「よし子ちゃん、逃げてー」と叫びたい。今まさにケダモノがあなたを襲わんとしている。「威勢よく」・「真直ぐに」が、いかにも恋愛初心者らしい気の焦りを表す。
週に40時間も講義を受けようとしていたあの三四郎がこのていたらく。故郷のママが知ったら、さぞかし嘆くことだろう。学問の世界はいま、恋愛の世界の後方に追いやられた。
「上がり口を奥へ、二つ目の角を右へ切れて、突当りを左へ曲がると東側の部屋だと教つた通り歩いて行くと、果してあつた」
…この詳細な順路を野々宮から聞かされている時の三四郎の姿が目に浮かぶ。うぶな彼は、ここまでの道のりを、何度も復唱しただろう。そうして、実際に病院に着いた後も、口ずさみながら順路をたどったに違いない。「果してあつた」には、そのような意味があり、また、目的地に無事到着できた、いよいよ妹に会えるという興奮が表れている。
「黒塗の札」には確かに「野々宮よし子と仮名でかいて」あり、それが「戸口に懸けてある」。胸の鼓動はうるさいほど打っているだろう。それを鎮める意図もあり、「三四郎は此名前を読んだ儘、しばらく戸口の所で佇(たゞず)んでゐた」。語り手からは、「田舎者だから敲するなぞと云ふ気の利いた事はやらない」とつつかれ揶揄される。
「「此中にゐる人が、野々宮君の妹で、よし子と云ふ女である」 三四郎は斯う思つて立つてゐた」
…今更何度も確認するようなことではない。ちゃんとその名が書いてある札が、三四郎の目の前に下がっている。しかし読まずにはいられない。彼は心を落ち着けようとしているのだ。新しい恋の予感に心がときめく三四郎。
「戸を開けて顔が見度もあるし、見て失望するのが厭でもある」…これはよし子に失礼だ。
「自分の頭の中に往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似てゐないのだから困る」…三四郎はよし子と美禰子の区別がまだついていない。
「後ろから看護婦が草履の音を立てゝ近付いて来た。三四郎は思ひ切つて戸を半分程開けた」…看護婦の、いわば促しによってドアを開く三四郎。そうでなければ彼にはなかなかドアを開くタイミングが訪れなかっただろう。
「思ひ切つて」開けた割には、その「半分程」というところがかわいい。矛盾が矛盾として成立している妙。
「さうして中にゐる女と顔を見合せた。(片手に握りハンドルを把つた儘)」
…このカッコはとても珍しい表記法で、漱石の作品にはあまり見られない。しかしこれにより、三四郎のとまどい・遠慮・ドキドキが鮮明に感じられ、読者はその場面をありありとイメージすることができる。三四郎のドキドキが読者にも伝わり、読者もドキドキしてしまう。
次に、よし子が描写される。当然それは、三四郎の目によってとらえられたものだ。
◆よし子の描写
・眼の大きな、鼻の細い、唇の薄い、鉢が開いたと思ふ位に、額が広くつて顎が削けた女。
・造作は夫丈と感じられる。
・けれども三四郎は、かう云ふ顔だちから出る、此時にひらめいた咄嗟の表情を生れて始めて見た。
・蒼白い額の後ろに、自然の儘(まゝ)に垂れた濃い髪が、肩迄見える。
・それへ東窓を洩れる朝日の光が、後ろから射すので、髪と日光の触れ合ふ境の所が菫色に燃えて、活きた暈を脊負てる。
・それでゐて、顔も額も甚だ暗い。暗くて蒼白い。
・其中に遠い心持のする眼がある。高い雲が空の奥にゐて容易に動かない。けれども動かずにも居られない。たゞ崩れる様に動く。女が三四郎を見た時は、かう云ふ眼付であつた。
「髪と日光の触れ合ふ境の所が菫色に燃えて、活きた暈を脊負てる」姿は、まるで如来か菩薩のようだ。美人である上に仏のような包容力や許し、「尊」さを感じる三四郎。
◆三四郎の印象
・此表情のうちに嬾い憂鬱と、隠さゞる快活との統一を見出した。其統一の感じは三四郎に取つて、最も尊き人生の一片である。さうして一大発見である。
「三四郎は握りハンドルを把つた儘、――顔を戸の影から半分部屋の中に差し出した儘、此刹那の感に自己を放下し去つた」
…初めて会った相手の女性に、すっかり心が奪われた様子。自分の心からすべてのもの・感情・記憶が消え去り、真白・真空となったかのよう。これは、圧倒的な美を前にしたことのある者なら理解できるだろう。
「「御這入りなさい」
女は三四郎を待ち設けた様に云ふ。其調子には初対面の女には見出す事の出来ない、安らかな音色があつた。純粋の小供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、かうは出られない。馴々(なれ/\)しいのとは違ふ。初めから旧い相識なのである」
…「御這入りなさい」という言葉は、三四郎と初めて会った野々宮の、「こっちへ」に似ている。やはり兄と妹なのだ。しかし兄の方は三四郎よりも年上であり、そのような言葉遣いも可能だろうが、初対面の女性からこのような言葉をかけられる事はあまりないだろう。よし子の年齢はまだわからないが、野々宮の妹だから三四郎と同年代か下だろうと推定される。この時の三四郎も、そのように思っていただろう。
よし子はとても落ち着いた態度で初めから三四郎に接する。「待ち設けた様」な「調子には初対面の女には見出す事の出来ない、安らかな音色があつた」。三四郎は、「純粋の小供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、かうは出られない」と考える。決して「馴々(なれ/\)しいのとは違」い、ふたりは「初めから旧い相識なの」だ。よし子の「にこり」という「笑」いにも、「なつかしい暖味(あたゝかみ)」があった。よし子も三四郎も、互いに「なつかし」さを感じている。これは運命の出会いとしか言いようがない。前世からの知り合いのようだ。
「三四郎の足は自然と部屋の内へ這入つた。其時青年の頭の裡には遠い故郷にある母の影が閃めいた」。
まるで昔からの知り合いのような感覚・印象を抱くふたり。女の促しに、「自然」・素直に従う男。それをあたたかな目で迎える女。さらには、女に対し、故郷・母性までもイメージする男。
運命の出会いを果たした二人は、このまま物語が進めば結ばれるはずなのだが、そうはならない。そこには例の、池の女の影が差すからだ。それもまた、運命のいたずらなのだろう。
今話は、よし子の説明がとても詳しい。
「それから」の三千代は、これに比べるとその描写・説明がとても少ない。彼女は病弱なことと意志を持った眉くらいしか説明されない。
この詳しさは勿論、一瞬でこれほどまでに魅了された女性に、三四郎は人生で初めて出会ったためだ。しかも三四郎の観察と感慨は、よし子よりも先に出会った池の女・美禰子に対するよりも詳しいし心に響いている。彼はよし子に、故郷の母を重ねる。母性までも感じているのだ。その瞬間の映像が、鋭く鮮明に三四郎の胸に刻まれた。
後に三四郎は、美禰子とよし子の間で心が揺れるのだが、今話では、よし子が圧倒している。
一方、美禰子がまとう「謎」は、彼女の美を妖しく増大させる。「女は悪い男に魅かれる」とはよく言われるが、三四郎は美禰子という謎に妖しく魅かれるのだった。つまり、よし子への好感は、三四郎自身その理由を認識し説明できるのに対し、なぜ自分は美禰子に魅かれるのかがわからないのだ。分からないものは覗いてみたくなるのが人の習性だろう。これは怖いもの見たさに近い感覚かもしれない。しかし、「奇麗な花には棘がある」。やがてその棘にチクリと刺されて、痛い思いをすることになる。植物の棘は厄介だ。小さなほどその棘先はなかなか取り除くことができず、手にいつまでも残る。そうして時にチクリと痛みを感じさせる。
美禰子という「ストレイシープ(迷える羊)」の棘も、やがて三四郎の心に諦念となって長く残る。