夏目漱石「三四郎」本文と解説3-11 妹に届けて貰ひたいと袷(あわせ)を一枚病院迄頼まれた三四郎は、大いに嬉しかつた。
◇本文
寐慣ない所に寐た床のあとを眺めて、烟草を一本 吸んだが、昨夜の事は、凡て夢の様である。縁側へ出て、低い廂の外にある空を仰ぐと、今日は好い天気だ。世界が今 朗らかに成つた許りの色をしてゐる。飯を済まして茶を飲んで、縁側に椅子を持ち出して新聞を読んでゐると、約束通り野々宮君が帰つて来た。
「昨夜、そこに轢死があつたさうですね」と云ふ。停車場か何かで聞いたものらしい。三四郎は自分の経験を残らず話した。
「それは珍しい。滅多に逢へない事だ。僕も家に居れば好かつた。死骸はもう片付けたらうな。行つても見られないだらうな」
「もう駄目でせう」と一口答へたが、野々宮君の呑気なのには驚ろいた。三四郎は此無神経を全く夜と昼の差別から起るものと断定した。光線の圧力を試験する人の性癖が、かう云ふ場合にも、同じ態度であらはれてくるのだとは丸で気が付かなかつた。年が若いからだらう。
三四郎は話を転じて、病人の事を尋ねた。野々宮君の返事によると、果して自分の推測通り病人に異状はなかつた。只五六日以来行つてやらなかつたものだから、それを物足りなく思つて、退屈紛れに兄を釣り寄せたのである。今日は日曜だのに来て呉れないのは苛いと云つて怒つてゐたさうである。それで野々宮君は妹を馬鹿だと云つてゐる。本当に馬鹿だと思つてゐるらしい。此忙しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だと云ふのである。けれども三四郎には其意味が殆んど解らなかつた。わざ/\電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩や二晩を潰したつて惜しくはない筈である。さう云ふ人に逢つて過す時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮らす月日は寧ろ人生に遠い閑生涯と云ふべきものである。自分が野々宮君であつたならば、此妹の為めに勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思ふだらう。位に感じたが、其時は轢死の事を忘れてゐた。
野々宮君は昨夜よく寐られなかつたものだから茫然して不可ないと云ひ出した。今日は幸ひ午から早稲田の学校へ行く日で、大学の方は休みだから、それ迄寐やうと云つてゐる。「大分遅く迄起きてゐたんですか」と三四郎が聞くと、実は偶然高等学校で教はつた、もとの先生の広田といふ人が妹の見舞に来て呉れて、みんなで話をしてゐるうちに、電車の時間に後れて、つい泊まる事にした。広田のうちへ泊まるべきのを、又妹が駄々を捏ねて、是非病院に泊まれと云つて聞かないから、已を得ず狭い所へ寐たら、何だか苦しくつて寐つかれなかつた。どうも妹は愚物だ。と又妹を攻撃する。三四郎は可笑しくなつた。少し妹の為に弁護しやうかと思つたが、何だか言ひ悪いので已めにした。
其代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前を是で三四遍耳にしてゐる。さうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名を付けてゐる。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑はれたのも矢張り広田先生にしてある。所が今承つて見ると、馬の件は果して広田先生であつた。それで水蜜桃も必ず同先生に違ひないと極めた。考へると、少し無理の様でもある。
帰るときに、序でだから、午前中に届けて貰ひたいと云つて、袷を一枚病院迄頼まれた。三四郎は大いに嬉しかつた。 (青空文庫より)
◇解説
「寐慣ない所に寐た床のあとを眺め」ていると、「昨夜の事は、凡て夢の様」だ。「縁側へ出て、低い廂の外にある空を仰ぐと、今日は好い天気」で、三四郎は、「世界が今 朗らかに成つた許りの色をしてゐる」と感じる。死への直面は夜の闇に消えた夢のようだ。困惑・憂鬱からすぐに解放されるのが、若さの特権だろう。三四郎は若く、生気にあふれている。「床のあと」には、昨日までの自分の殻があり、そこから脱皮した三四郎がいま存在し、過去の自分を眺める。彼は日々成長している。
やがて「約束通り野々宮君が帰つて来た」。
彼は、「昨夜、そこに轢死があつたさうですね」と言い、三四郎の説明に、「それは珍しい。滅多に逢へない事だ。僕も家に居れば好かつた。死骸はもう片付けたらうな。行つても見られないだらうな」と、「呑気」で「無神経」なことを平気で言う。これにはさすがの三四郎も「驚ろい」た。そうして、「此無神経を全く夜と昼の差別から起るものと断定した」。昨夜自分があれほど驚き、死という現実を感じたのに対し、今は昼間なので、野々宮がそれほど轢死事件について心の痛みを感じず、その「死骸」を見てみたいと平気に言うことができるのだろうということ。
語り手は野々宮の「性癖」を説明する。「光線の圧力を試験する人の性癖が、かう云ふ場合にも、同じ態度であらはれてくるのだ」と。野々宮は人の死に心を打たれるのではなく、轢死した人はどうなるのかを、客観的・科学的に知りたいと思うタイプの人間なのだ。さうして、三四郎はまだ「年が若いから」「丸で気が付かなかつた」のだろうと想像する。野々宮の態度は理系の人に多い。頭の中の、人の心の温かさや悲しみを理解する経路が切れているのではないかと思うほどだ。言うまでもなく轢死は、理科の実験ではない。そこにはやむにやまれぬ事情がある。そのことへの配慮や想像力が、野々宮には欠けている。三四郎にやさしく接してはいるが、野々宮にはこのような「性癖」(性格・気質)もあることを押さえておきたい。なぜならこの気質が高じると、他者との関係を円滑に取り結ぶことができなくなるからだ。この後に出てくる妹とのエピソードにもそれはうかがわれる。また、彼が愛する美禰子との関係にもそれは、影響を及ぼすだろう。
「三四郎は話を転じて、病人の事を尋ねた」。彼が今一番気になる人だ。
続く「野々宮君の返事」から、兄妹の関係と、それぞれの性格が分かるように描かれている。
・自分の推測通り病人に異状はなかつた…妹の仮病
・只五六日以来行つてやらなかつたものだから、それを物足りなく思つて、退屈紛れに兄を釣り寄せた。今日は日曜だのに来て呉れないのは苛いと云つて怒つてゐた…妹は兄を愛し、兄は甘える対象なのだ。
・それに対し野々宮は妹を馬鹿だと云つてゐる。本当に馬鹿だと思つてゐるらしい。此忙しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だ…性格が理系の野々宮は、自分の研究の時間が一番大事であり、それが奪われることを最も嫌っている。だから、単に寂しかったからという理由で自分の貴重な時間を奪う妹はバカだということになる。彼は妹の情愛を理解しない。まるでロボットのようだ。
これに対して三四郎が「感じ」たこと。
・野々宮が妹をバカだという意味が殆んど解らない…その理由は次に述べられる。
・わざ/\電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩や二晩を潰したつて惜しくはない筈だ…大切な妹が今病気にかかっており、人と会えずに病室に閉じこもっているのは、さぞかしさびしかろうと、なぜ野々宮は思わないのだろう。貴重な時間は、自分を慕ってくれる愛する妹のために使うべきだ。
・さう云ふ人に逢つて過す時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮らす月日は寧ろ人生に遠い閑生涯と云ふべきものだ。自分が野々宮君であつたならば、此妹の為めに勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思ふだらう…ここに三四郎と野々宮の性格・考え方の決定的な違いがみられる。三四郎は、人の情を解する男なのだ。(さすが文科・文学部だけある) 少しぐらい「妨害」されることが、そんなに嫌なのか。自分なら逆に「嬉し」いと感じるはずだと考える。そこには、三四郎にとって野々宮の妹が愛の対象になっているということもあるし、野々宮にとって妹は、昔から一緒に育ってきた兄妹という慣れ親しんだ間柄ということもある。野々宮に妹を愛する気持ちが全く無いわけではない。しかし、女性への愛よりも妹への愛のほうが、ドライになるだろう。
ところで、三四郎に兄弟がいるかどうかは説明されていない。
野々宮兄妹について考えていたら、いつの間にか「轢死の事を忘れてゐた」。若い三四郎にとって「死」は、やはり遠い存在だ。
野々宮の情報。
・「午から早稲田の学校へ行く日」がある。
・広田に「高等学校で教はつた」が、今は「妹の見舞に来て呉れ」る仲になっている。
妹の性格と野々宮の反応。
・「広田のうちへ泊まるべきのを、又妹が駄々を捏ねて、是非病院に泊まれと云つて聞かない」→「妹は愚物だ」
自分を慕う妹を「愚物」と「攻撃する」野々宮に、それほどひどく批評せずとも好いではないかと思う「三四郎は可笑しくなつた」。人の気持ちを理解しない野々宮に、妹の代理となって「少し妹の為に弁護しやうかと思つたが、何だか言ひ悪いので已めにした」。三四郎はまだ妹本人に会ったことがないし、兄妹関係に他人の三四郎がしゃしゃり出るのはおこがましいと思ったからだ。
三四郎の広田の見立てはすべて当たっている。「水蜜桃の先生」、「青木堂の先生」、「正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑はれた」のは、いずれも広田だった。
「帰るときに、序でだから、午前中に届けて貰ひたいと云つて、袷を一枚病院迄頼まれた。三四郎は大いに嬉しかつた」
…野々宮は三四郎と気安い関係だ。急な留守を頼み、ここでも妹への使いを頼む。若い三四郎は、これ幸いと妹のもとに向かう。ずっと気になっていた女に、やっと会うことができる「嬉し」さ。
三四郎が推測していた広田の答え合わせはだいぶ進んだ。今度は池の女と、兄思いの野々宮の妹の答え合わせをしなければならぬ。しかも野々宮の依頼という正当な訪問理由を携えて。三四郎は、大手を振って若い女性を見舞うことが許された。彼の期待はいやがうえにも高まるだろう。