夏目漱石「三四郎」本文と解説3-10 「轢死ぢやないですか」。三四郎は何か答へやうとしたが一寸声が出なかつた。
◇本文
五六間行くか行かないうちに、又一人土手から飛び下りたものがある。――
「轢死ぢやないですか」
三四郎は何か答へやうとしたが一寸声が出なかつた。其うち黒い男は行き過ぎた。是は野々宮君の奥に住んでゐる家の主人だらうと、後を跟けながら考へた。半町程くると提燈が留つてゐる。人も留つてゐる。人は灯を翳した儘黙つてゐる。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳(ちゝ)の下を腰の上迄 美事に引き千切つて、斜掛の胴を置き去りにして行つたのである。顔は無創である。若い女だ。
三四郎は其時の心持を未だに覚えてゐる。すぐ帰らうとして、踵(かゝと)を回らしかけたが、足がすくんで殆んど動けなかつた。土堤を這ひ上つて、座敷へ戻つたら、動悸が打ち出した。水を貰はうと思つて、下女を呼ぶと、下女は幸ひに何にも知らないらしい。しばらくすると、奥の家で、何だか騒ぎ出した。三四郎は主人が帰つたんだなと覚つた。やがて土手の下ががや/\する。それが済むと又静かになる。殆んど堪え難い程の静かさであつた。
三四郎の眼の前には、あり/\と先刻の女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」と云つた力のない声と、其二つの奥に潜んで居るべき筈の無残な運命とを、継ぎ合はして考へて見ると、人生と云ふ丈夫さうな命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時でも暗闇へ浮き出して行きさうに思はれる。三四郎は慾も得も入らない程怖かつた。たゞ轟と云ふ一瞬間である。其前迄は慥かに生きてゐたに違ない。
三四郎は此時不図汽車で水蜜桃を呉れた男が、危い/\、気を付けないと危い、と云つた事を思ひ出した。危い/\と云ひながら、あの男はいやに落付いて居た。つまり危い/\と云ひ得る程に、自分は危くない地位に立つてゐれば、あんな男にもなれるだらう。世の中にゐて、世の中を傍観してゐる人は此所(こゝ)に面白味があるかも知れない。どうもあの水蜜桃の食ひ具合から、青木堂で茶を呑んでは烟草を吸ひ、烟草を吸つては茶を呑んで、凝と正面を見てゐた様子は、正に此種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家と云ふ字を使つて見た。使つて見て自分で旨いと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しやうかと迄考へ出した。あの凄い死顔を見るとこんな気も起る。
三四郎は室の隅にある洋机と、洋机の前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、其本箱の中に行儀よく並べてある洋書を見廻して、此静かな書斎の主人は、あの批評家と同じく無事で幸福であると思つた。――光線の圧力を研究する為に、女を轢死させる事はあるまい。主人の妹は病気である。けれども兄の作つた病気ではない。自ら罹(かゝ)つた病気である。抔と夫から夫へと頭が移つて行くうちに、十一時になつた。中野行きの電車はもう来ない。或は病気がわるいので帰らないのかしらと、又心配になる。所へ野々宮から電報が来た。妹無事、明日朝帰るとあつた。
安心して床に這入つたが、三四郎の夢は頗る危険であつた。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知つて家へ帰つて来ない。只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽はりで、今夜轢死のあつた時刻に妹も死んで仕舞つた。さうして其妹は即ち三四郎が池の端で逢つた女である。……
三四郎は明日例になく早く起きた。 (青空文庫より)
◇解説
「「轢死ぢやないですか」
三四郎は何か答へやうとしたが一寸声が出なかつた」
…遠くから聞こえてきた「ああ、ああ」という声。それは轢死した人の最期の声だった。そのように想像した三四郎は、他者の死にまるで立ち会ったかのような感じがして、恐怖に包まれる。また三四郎はおそらく人の死に立ち会うのが初めてなのだろう。
「人は灯を翳した儘黙つてゐる。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳(ちゝ)の下を腰の上迄 美事に引き千切つて、斜掛の胴を置き去りにして行つたのである。顔は無創である。若い女だ」。
…(解説するのがはばかられるが、してみます)
死に接した「人は」、「黙つて」・「無言で」それを見つめることしかできない。この後の説明が妙に詳しいのは、漱石が三四郎に、死の現実を見つめさせ、死の意味を深く考えさせるためだ。三四郎はまだ若いが、これからを生きる彼にはそうする必要がある。人の生と死、それについて考えることは人生に必要だ。
「汽車は右の肩から乳(ちゝ)の下を腰の上迄 美事に引き千切つて、斜掛の胴を置き去りにして行つた」。「みごとに」は不謹慎な表現だが、命を持たぬ汽車が何の感情もためらいもなく人を引きちぎる様子。
「無創」な「顔」は、次の瞬間に目を開くかもしれないようにも見える。しかしその目は二度と開かない。
断ち切られた女の体。断ち切られた女の人生。この女はまだ「若い」にもかかわらず、自殺しなければならない事情があった。自殺の理由は三四郎には想像もつかないが、彼女には死を代償にしなければならない何かがあった。「其前迄は慥かに生きてゐた」命が、「たゞ轟と云ふ一瞬間」で簡単に途絶えてしまう無常。
死の場面の記憶は、この後三四郎の心に深く長く残ることになる。彼は、生とともに死を見つめて、この後生きていく。そうしてそれを、漱石は三四郎に強いた。
それを予想してこの後の部分を読むと、我々の期待は三四郎によって裏切られる。彼の思索は深まらない。「広田のような「批評家」もいいな。そのようにして生きていこうか」とか、池の女や野々宮の妹を恋愛対象として思い出すなど。若いからしょうがないことなのだが、それでは三四郎がこの轢死事件を体験した意味がない。
漱石は三四郎の若さ・未熟さを表現しようとしたのか、それとも物語制作上の不備か。確かに、死にあまりにも偏ると、大学1年生の明るい学生生活(の物語)は奪われる・成立しないかもしれない。しかしこの物語において、生と死の二つの両立をもう少し図っても良かったのではないか。轢死事件があまりにも唐突だとか、この物語における意味・意図が不明だとか言われるのはそこから来る。
「三四郎は此時不図汽車で水蜜桃を呉れた男が、危い/\、気を付けないと危い、と云つた事を思ひ出した」
…人の死に直面した三四郎は、広田を想起する。そうして、「だらしなく」未来をイメージする。
「危い/\と云ひながら、あの男はいやに落付いて居た。つまり危い/\と云ひ得る程に、自分は危くない地位に立つてゐれば、あんな男にもなれるだらう。世の中にゐて、世の中を傍観してゐる人は此所(こゝ)に面白味があるかも知れない」
…まず不審なのは、女の命の極限である死を経験し、広田を思い出すだろうか。そこに何か深い理由があるかと思えば、「世の中にゐて、世の中を傍観してゐる人は此所(こゝ)に面白味があるかも知れない」と考える。まず「面白味」が女に対して失礼だし不謹慎だ。女には「世の中を傍観してゐる」余裕などなかった。だから死を選んだのだ。三四郎の考え方と態度は、とても不真面目だ。
「どうもあの水蜜桃の食ひ具合から、青木堂で茶を呑んでは烟草を吸ひ、烟草を吸つては茶を呑んで、凝と正面を見てゐた様子は、正に此種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家と云ふ字を使つて見た。使つて見て自分で旨いと感心した」
…「傍観」者を「批評家」と名付けたことを「自分で旨いと感心」する三四郎。もはやこの人の感覚は理解できない。これでは、女の死の厳粛さが消えてしまっている。死を正面から理解し、そこから人生における何かを学ぼうとする姿勢が、三四郎には無い。
「のみならず自分も批評家として、未来に存在しやうかと迄考へ出した。あの凄い死顔を見るとこんな気も起る」
…「あの凄い死顔を見るとこんな気も起る」のは、三四郎だけだ。
つまり三四郎は、女の悲しみや辛さに全く寄り添わないのだ。死に至ろうとする女の心を感じ理解しようとしない。人の悲しみがわからない人。
三四郎は、死んだ女の人生を、どう「批評」しようというのか。私には三四郎の思考が理解できない。
次に、野々宮の部屋の備品が述べられる。
・室の隅にある洋机
・洋机の前にある椅子
・椅子の横にある本箱
・本箱の中に行儀よく並べてある洋書
「此静かな書斎の主人は、あの批評家と同じく無事で幸福であると思つた。――光線の圧力を研究する為に、女を轢死させる事はあるまい。主人の妹は病気である。けれども兄の作つた病気ではない。自ら罹(かゝ)つた病気である。抔と夫から夫へと頭が移つて行くうちに、十一時になつた」。
…外観からは、その人が今どういう状態なのか、何を心に抱いているのかはわからない。そのことを三四郎は知らない。だから彼は、外側から見える野々宮の様子から勝手に、「無事で幸福である」と簡単に断定する。本当に見た目通りかどうかは他人にはうかがい知れないということを、若い三四郎は顧慮しない。
また、「光線の圧力を研究する為に、女を轢死させる事はあるまい」という思考はおかしい。「光線の圧力を研究」している野々宮自身が死にたいと思っているかもしれない。また、野々宮の研究が他者に悪く作用して、相手を「轢死させる」というのは、論理がやや飛躍している。
さらに、「主人の妹は病気である。けれども兄の作つた病気ではない。自ら罹(かゝ)つた病気である」は、何を言っているのかわからない。野々宮が作為的に妹を病気にしたのではないことは明らかなのに、「妹の病気は兄のせいではない」などとわかりきったことをことさらに述べるのは、意味がないしナンセンスだ。また、妹は妹で、自分で罹りたくて罹った病気ではないし、それを本人のせいにするのはやはりナンセンスだ。妹は決して自ら積極的に病気になったのではないし、病気を望む人はいない。
これらは勿論、今述べたような意味で書かれているわけではなかろうが、現代の用語の意味・理解からすると、このように読めてしまう。
女は何かの事情で自ら命を絶った。であるならば三四郎は、その事情や命の意味を沈思黙考すべきなのではないか。そうしないと、この物語において女の死は文字通り無駄死にになってしまう。
夜が深くなる。
「中野行きの電車はもう来ない」。「病気がわるいので帰らないのかしらと、又心配に」なった三四郎のもとへ、「野々宮から電報が来た。妹無事、明日朝帰るとあつた」。
「安心して床に這入つた」「三四郎の」「頗る危険」な夢。
・「轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知つて家へ帰つて来ない」…ずいぶん飛躍しすぎな想像。
・「只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた」…これはまた手の込んだことを。
・「妹無事とあるのは偽はりで、今夜轢死のあつた時刻に妹も死んで仕舞つた」…自分を愛する女を同時にふたりも死に追いやる野々宮君、罪な男です
・「さうして其妹は即ち三四郎が池の端で逢つた女である」…三四郎、失恋
この悪夢により三四郎は、「明日例になく早く起きた」。野々宮と妹と池の女のことが気になり、心がざわめいて仕方がなかっただろう。