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夏目漱石「三四郎」本文と解説3-7 野々宮の越した大久保の家は頗る遠い

◇本文

 其翌日は丁度日曜なので、学校では野々宮君に逢ふ訳に行かない。然し昨日自分を探してゐた事が気掛かりになる。幸ひまだ新宅を訪問した事がないから、此方(こつち)から行つて用事を聞いて()様と云ふ気になつた。

 思ひ立つたのは朝であつたが、新聞を読んで愚図々々してゐるうちに(ひる)になる。午飯(ひる)を食べたから、出掛様とすると、久し振に熊本 ()の友人が来る。漸くそれを帰したのは彼是(かれこれ)四時過ぎである。ちと遅くなつたが、予定の通り出た。

 野々宮の家は頗る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる。何でも停車場の近辺と聞いてゐるから、探すに不便はない。実を云ふと三四郎はかの平野家行き以来飛んだ失敗をしてゐる。神田の高等商業学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗つた所が、乗り越して九段迄来て、序でに飯田橋迄持つて行かれて、其所(そこ)で漸く外濠線へ乗り換へて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉 河岸(がし)を数寄屋橋の方へ向いて急いで行つた事がある。それより以来電車は兎角(とかく)物騒な感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗つた。

 大久保の停車場を下りて、(なか)百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切りからすぐ横へ折れると、ほとんど三尺許りの細い路になる。それを爪先上がりにだら/\と上ると、(まばら)な孟宗 (やぶ)がある。其藪の手前と先に一軒づゝ人が住んでゐる。野々宮の家は其手前の分であつた。小さな門が路の向きに丸で関係のない様な位置に筋違(すぢかひ)に立つてゐた。這入ると、家が又見当違ひの所にあつた。門も入口も全く後から付けたものらしい。

 台所の(わき)に立派な生垣があつて、庭の方には却つて仕切りも何にもない。只大きな萩が人の(せい)より高く延びて、座敷の縁側を少し隠してゐる許である。野々宮君は此縁側に椅子を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでゐた。三四郎の這入つて来たのを見て、

此方(こつち)へ」と云つた。丸で理科大学の穴倉の中と同じ挨拶である。庭から這入るべきのか、玄関から廻るべきのか、三四郎は少しく躊躇してゐた。すると又

「此方へ」と催促するので、思ひ切つて庭から上がる事にした。座敷は即ち書斎で、広さは八畳で、割合に西洋の書物が沢山ある。野々宮君は椅子を離れて坐つた。三四郎は、閑静な所だとか、割合に御茶の水迄早く出られるとか、望遠鏡の試験はどうなりましたとか、――締りのない当座の話をやつたあと、

「昨日私を探して御出でだつたさうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒さうな顔をして、

「何実は何でもないですよ」と云つた。三四郎はたゞ「はあ」と云つた。

「それでわざ/\来て呉れたんですか」

「なに、さう云ふ訳でもありません」

「実は御国の御母(おつか)さんがね、(せがれ)が色々御世話になるからと云つて、結構なものを送つて下さつたから、一寸あなたにも御礼を云はうと思つて……」

「はあ、さうですか。何か送つて来きましたか」

「えゝ赤い魚の粕漬(かすづけ)なんですがね」

「ぢやひめいちでせう」

 三四郎は詰らんものを送つたものだと思つた。しかし野々宮君はかのひめいちに就いて色々な事を質問した。三四郎は特に食ふ時の心得を説明した。粕共(かすごと)焼いて、いざ皿へ写すと云ふ時に、粕を取らないと味が抜けると云つて教へてやつた。

 二人がひめいちに就て問答をしてゐるうちに、日が暮れた。三四郎はもう帰らうと思つて挨拶をしかける所へ、どこからか電報が来た。野々宮君は封を切つて、電報を読んだが、口のうちで、「困つたな」と云つた。

(青空文庫より)


◇解説

まだあまり交流のない野々宮の「新宅」を、「日曜」日に事前の連絡もなく突然「夕方」訪れようとする三四郎。「幸ひまだ新宅を訪問した事がないから、此方(こつち)から行つて用事を聞いて()様と云ふ気になつた」。無作法・無遠慮なのか、若さゆえか。当時の人たちにとって彼のこの行動は気にならなかったのだろうか。

 「朝」「思ひ立」ち、「新聞を読んで愚図々々してゐるうちに(ひる)にな」り、「午飯(ひる)を食べたから、出掛様とすると、久し振に熊本 ()の友人が来る。漸くそれを帰したのは彼是(かれこれ)四時過ぎである。ちと遅くなつたが、予定の通り出た」。

このように作者が三四郎を夕方に野々宮の家に訪問させたのには理由がある。彼を野々宮の家に泊まらせるためだ。


ところで、この「友人」は、「久し振に」「来る」とあるから、東大の学生ではないようだ。同じ「熊本 ()」である友人は、他の専門学校等に進学した者か。


〇野々宮の家について

・頗る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる…「大久保」を「頗る遠い」と感じる三四郎。今なら都心に近いが、当時の東京人たちにとっては、まだ郊外だったのだろう。東京大学で一生懸命研究し、世界に名の知られている野々宮の給料の安さが察せられる。

・停車場の近辺

・甲武線で向かえる


※野々宮の給料について後に三四郎が説明する部分がある。

「聞く所によると、あれ丈の学者で、月にたつた五十五円しか、大学から貰つてゐないさうだ。だから已を得ず私立学校へ教へに行くのだらう。それで妹に入院されては(たま)るまい。大久保へ越したのも、或はそんな経済上の都合かも知れない」。(3-9)


〇甲武鉄道について

甲武鉄道こうぶてつどうは、明治時代に日本に存在していた鉄道事業者(私鉄)である。現在の中央本線のうち、東京都内の大部分を横断する御茶ノ水駅から八王子駅までの区間の前身に当たる。 甲武鉄道は1889年(明治22年)に開業した。当時社長は大久保利和であった。

東京市内の御茶ノ水を起点として、飯田町や新宿 を経由して多摩郡を東西へ横断し、国分寺や立川等を貫いて八王子に至る鉄道を保有・運営していた。

動力は始め蒸気で、後に一部区間では電気を併用した。軌間は1,067mmであった。

1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により同年10月1日に国有化され、中央本線の一部となった。」

「開業後 1889年(明治22年)4月に新宿 - 立川間、8月には 立川 - 八王子間が開通した」

「東京市内区間での旅客が増えたことから1904年8月21日に飯田町 - 中野間を電化し、日本の普通鉄道では初めて電車運転を行った」(甲武鉄道 - Wikipediaより)


路線は

御茶ノ水-水道橋-飯田橋-牛込-市ヶ谷-四谷-信濃町-千駄ヶ谷-代々木-新宿-大久保~八王子


「かの平野家行き」

…「次に大通りから細い横町へ曲がつて、(ひら)()と云ふ看板のある料理屋へ上がつて、晩食を食つて酒を呑んだ。其所(そこ)の下女はみんな京都弁を使ふ。甚だ纏綿(てんめん)してゐる。表へ出た与次郎は赤い顔をして、又「どうだ」と聞いた」(3-4)を指す。


三四郎は、「神田の高等商業学校」へ何の用事があったのだろう。


「頗る遠い」「大久保」にある野々宮の家に向かう三四郎。大久保の停車場を下り→(なか)百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切りからすぐ横へ折れ→三尺許りの細い路を爪先上がりにだら/\と上る→(まばら)な孟宗 (やぶ)の手前と先に一軒づゝ人が住んでゐる。野々宮の家は其手前の分であつた。


そこにあった家は、ひどいものだった。

・「小さな門が路の向きに丸で関係のない様な位置に筋違(すぢかひ)に立つてゐた」。門は道路と家の間にあり、その二つをつないだり境界を示したりするものだ。だからそれが「路の向きに丸で関係のない様な位置に筋違(すぢかひ)に立つてゐた」のでは、門の役目を果たさない。何のための門なのだということになる。まさにとってつけたような杜撰(ずさん)さが表れている。

・門を「這入ると、家が又見当違ひの所にあつた。門も入口も全く後から付けたものらしい」。もとからある古い家。そこにあとから体裁を整えたという形。使いずらいし、風水的にも良くないだろう。X軸とY軸のゆがみ・不調和は、平衡感覚が乱され、そこに住む人の心にも悪影響を及ぼす。だから普通は、そんな家には住まないだろう。「庭から這入るべきのか、玄関から廻るべきのか、三四郎は少しく躊躇してゐた」のも、家屋の配置や作りがめちゃくちゃだったことも要因としてある。


野々宮の家の中の様子について、3-9に次のような説明がある。

「三四郎は看病をやめて、座敷を見廻した。いか(さま)古い建物と思はれて、柱に(さび)がある。其代り唐紙の立附(たてつけ)が悪い。天井は真黒だ。洋燈許(らんぷばかり)が当世に光つてゐる。野々宮君の様な新式な学者が、物数奇(ものずき)にこんな家を借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である」。


・「台所の(わき)に立派な生垣があつて、庭の方には却つて仕切りも何にもない。只大きな萩が人の(せい)より高く延びて、座敷の縁側を少し隠してゐる許」。植生もめちゃくちゃで、日当たりや使い勝手に悪影響だ。


「野々宮君は此縁側に椅子を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでゐた」

…場所も作りも悪い家に住む野々宮は、それらを気にせず勉強している。そこが彼の偉さだ。ところでこの表現は、「西洋」を目指して汲々としている当時の日本を象徴している。西洋に学べと一生懸命励んでいるが、その足元・住む家はつぎはぎだらけ。「それから」の平岡の家もひどいものだった。


※「平岡の家は、此十数年来の物価騰貴に()れて、中流社会が次第々々に切り詰められて行く有様を、住宅の上に()く代表してゐる、尤も粗悪な見苦しき(かま)へである。とくに代助には左様(さう)見えた。

 門と玄関の間が一間(いつけん)位しかない。勝手口も其通りである。さうして裏にも、横にも同じ様な窮屈な家が建てられてゐる。東京市の貧弱なる膨脹に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手(もとで)を二割乃至三割の高利(こうり)(まは)さうと目論(もくろん)で、あたぢけなく(こし)らへ上げた、生存競争の記念(かたみ)である。

 今日(こんにち)の東京市、ことに場末の東京市には、至る所に此種(このしゆ)の家が散点してゐる、のみならず、梅雨に入つた蚤の如く、日毎に、格外の増加律を以て殖えつゝある。代助はかつて、是を敗亡の発展と名づけた。さうして、之を目下の日本を代表する最好の象徴(シンボル)とした。

 彼等のあるものは、石油缶の底を()ぎ合はせた四角な(うろこ)で蔽はれてゐる。彼等の一つを借りて、夜中に柱の割れる音で眼を()まさないものは一人もない。彼等の戸には必ず節穴がある。彼等の襖は必ず狂ひが出ると極つてゐる。資本を頭の中へ()ぎ込んで、月々頭から利息を取つて生活しやうと云ふ人間は、みんな斯ういふ所を借りて立て籠つてゐる。平岡も其 一人(いちにん)である」。(「それから」6-4)


前日に野々宮が三四郎を探していた理由は、三四郎の母から贈り物をもらった礼を伝えたかったということだった。

ところで野々宮は三四郎と同郷の先輩という設定に読めるのだが、その彼が「赤い(ひめいち)粕漬(かすづけ)」と、その食べ方について知らず、三四郎に質問をするというのはやや不審だ。これだと、野々宮の出身は別の場所ということになる。

ただ、同郷の先輩というのも、はっきりとそう述べられているわけではなく、前に母の手紙に、「勝田の政さんの従弟に当る人が大学校を卒業して、理科大学とかに出でてゐるさうだから、尋ねて行つて、万事よろしく頼むがいゝ」(2-1)とあるだけだ。「勝田の政さん」はここにしか登場せず、素性がわからない。母の知り合いか親戚か。またその「従弟に当る人」が野々宮なのだが、その出身地は語られない。そうすると野々宮はやはり他郷出身かまたは東京の人か。


やがて「日が暮れ」、「三四郎はもう帰らうと思つて挨拶をしかける所へ、どこからか電報が来た。野々宮君は封を切つて、電報を読んだが、口のうちで、「困つたな」と云つた」。読者の関心を次話に誘うのが上手です、漱石さん。


〇三四郎が野々宮を訪れる場面について

今話で三四郎は突然野々宮宅を訪れるのだが、以前初めて野々宮の実験室を訪れた時も前触れなしだった。突然現れた三四郎に対し、野々宮は全く驚いたり嫌な顔をしたりせず、いずれも同じく「こっちへ」と簡単なあいさつで済ませてしまう。ものにこだわらないあっさりとした性格だ。

しかもその時間は、いずれも「午後4時ごろ」・「4時すぎ」。普通夕方に他人の家を訪問するのははばかられる。夕食が近く、夜へと続く時間だからだ。しかし三四郎も野々宮も、そのことをまったく気にしない。はじめから、旧知の仲のような気安い間柄になっている。

ところで、この設定は、野々宮の人物像に影響を与える。読者も野々宮に、夕方から夜に続く時間・場面で会うことになる。この時間・空間は、闇、静けさ、無意識をイメージさせる。静かで三四郎の面倒をよく見る野々宮の心の奥底にあるものは、まだ表面に現れてはいない。

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