夏目漱石「三四郎」本文と解説3-6 「ヘーゲルの講義は、真を体せる人の講義なり。心の講義なり。道の為めの講義なり」
◇本文
其日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで例になく面白い勉強が出来たので、三四郎は大いに嬉しく思つた。二時間程読書三昧に入つた後、漸く気が付いて、そろ/\帰る支度をしながら、一所に借りた書物のうち、まだ開けて見なかつた、最後の一冊を何気なく引つぺがして見ると、本の見返しの空いた所に、乱暴にも、鉛筆で一杯何か書いてある。
「ヘーゲルの伯林大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化一致せる時、其説く所、云ふ所は、講義の為めの講義にあらずして、道の為めの講義となる。哲学の講義は茲に至つて始めて聞くべし。徒らに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨を以て、死したる紙の上に、空しき筆記を残すに過ぎず。何の意義かこれあらん。……余今試験の為め、即ち麺麭の為めに、恨を呑み涙を呑んで此書を読む。岑々(しんしん)たる頭を抑へて未来永劫に試験制度を呪咀する事を記憶せよ」
とある。署名は無論ない。三四郎は覚えず微笑した。けれども何所か啓発された様な気がした。哲学ばかりぢやない、文学も此通りだらうと考へながら、頁をはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」余程ヘーゲルの好きな男と見える。
「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方より伯林に集まれる学生は、此講義を衣食の資に利用せんとの野心を以て集まれるにあらず。唯哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝ふると聞いて、向上 求道の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現に外ならず。此故に彼等はヘーゲルを聞いて、彼等の未来を決定し得たり。自己の運命を改造し得たり。のつぺらぽうに講義を聴いて、のつぺらぽうに卒業し去る公等日本の大学生と同じ事と思ふは、天下の己惚なり。公等らはタイプ、ライターに過ぎず。しかも慾張つたるタイプ、ライターなり。公等のなす所、思ふ所、云ふ所、遂に切実なる社会の活気運に関せず。死に至る迄のつぺらぽうなるかな。死に至る迄のつぺらぽうなるかな」
と、のつぺらぽうを二遍繰返してゐる。三四郎は黙然として考へ込んでゐた。すると、後ろから一寸と肩を叩いたものがある。例の与次郎であつた。与次郎を図書館で見掛けるのは珍らしい。彼は講義は駄目だが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張通りに這入る事も少ない男である。
「おい、野々宮宗八さんが、君を探してゐた」と云ふ。与次郎が野々宮君を知らうとは思ひがけなかつたから、念の為め理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんと云ふ答を得た。早速本を置いて入口の新聞を閲覧する所迄出て行つたが、野々宮君が居ない。玄関迄出て見たが矢っ張り居ない。石階を下りて、首を延ばして其辺を見廻したが影も形も見えない。已を得ず引き返した。元の席へ来て見ると、与次郎が、例のヘーゲル論を指さして、小さな声で、
「大分振つてる。昔しの卒業生に違ない。昔しの奴は乱暴だが、どこか面白い所がある。実際此通りだ」とにや/\してゐる。大分気に入つたらしい。三四郎は
「野々宮さんは居らんぜ」と云ふ。
「先刻入口に居たがな」
「何か用がある様だつたか」
「ある様でもあつた」
二人は一所に図書館を出た。其時与次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓してゐる広田先生の、元の弟子でよく来る。大変な学問好きで、研究も大分ある。其道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知つてゐる。
三四郎は又、野々宮君の先生で、昔正門内で馬に苦しめられた人の話を思ひ出して、或はそれが広田先生ではなからうかと考へ出した。与次郎に其事を話すと、与次郎は、ことによると、家の先生だ、そんな事を遣りかねない人だと云つて笑つてゐた。 (青空文庫より)
◇解説
今話は私が好きな場面です。これでヘーゲルを知りました。
「其日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで例になく面白い勉強が出来たので、三四郎は大いに嬉しく思つた」。
…昼から青木堂でワインをたしなんだ三四郎は、そのアルコールの勢いで再び図書館に舞い戻る。「一種の精神作用」とは、上京後の様々な体験がワインのように次第に醸成された結果、学問に向き合おうという気持ちが甦ったということか。佐々木に勧められた図書館での学びに、「面白」さや「嬉し」さを感じ、いつのまにか「二時間程読書三昧」に浸る三四郎。(よかったね)
三四郎はもう一つの出会いを、図書館で果たすことができた。それがヘーゲルについての落書きだった。その部分をまとめたい。
「伯林大学で哲学を講じたヘーゲルは、講義によって給料を稼ごうという気持ちがなかった。彼の講義は真実・真理を説くものではなく、彼自身が真理を体得・体現した人だった。だから彼の講義は心の講義となり、道の為めの講義となった。このような人の講義こそ、聞くべきだ」。
ここまでは、大学の教授や講義に対する批判が述べられる。次に、鋭い大学生批判が続く。
「ヘーゲルの講義を聞こうと集まった学生は、此講義を衣食の資に利用しようという野心から集まったのではない。唯哲人ヘーゲルなるものがいて、無上普遍の真を伝えていると聞き、向上求道の念に切なるがため、また、自分が抱く不穏底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現から集まったのだ。だから彼等はヘーゲルを聞いて、自らの未来を決定し得たのだ。自己の運命を改造し得たのだ。それに対し、ボーっと講義を聴き、何も考えず何も得ずに卒業だけをする日本の大学生と同じと考えるのは、プライドだけが高い愚か者だ。お前たちの行動、思考、言論はすべて、切実なる社会の活気運にはまったく関係しない。何も考えず何も気づかず、無為に人生を送るのみだ」
大学図書館の貴重な図書に落書きをするふとどき者の、真理を突いた箴言。そのコントラストのおかしさと同時に、大学で学ぶ意味にはっと気づかされる大学生は多いだろう。特に三四郎は、以前にも述べたとおり、何のために大学に入ったのかが曖昧だ。彼には、大学入学の具体的な目的意識が無い。ただぼんやりと「学問の世界っていいなー」と思っている。だからこの言葉は、彼にとって痛かった・刺さっただろう。「三四郎は黙然として考へ込んでゐた」。(いいことです)
ところで、「哲学ばかりぢやない、文学も此通りだらうと考へながら」とあり、また以前、語学や文学論を聴講していたところから、三四郎は、文学部に入学したと考えられる。
「与次郎を図書館で見掛けるのは珍らしい。彼は講義は駄目だが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張通りに這入る事も少ない男である」。
…語り手と三四郎の心情が一体となった揶揄が面白い。
「「おい、野々宮宗八さんが、君を探してゐた」と云ふ。与次郎が野々宮君を知らうとは思ひがけなかつたから、念の為め理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんと云ふ答を得た」や、「其時与次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓してゐる広田先生の、元の弟子でよく来る。大変な学問好きで、研究も大分ある。其道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知つてゐる」、また、「野々宮君の先生で、昔正門内で馬に苦しめられた人の話を思ひ出して、或はそれが広田先生ではなからうかと考へ出した。与次郎に其事を話すと、与次郎は、ことによると、家の先生だ、そんな事を遣りかねない人だと云つて笑つてゐた」などはすべて、これまで点だったものが線となってつながり、暗示や伏線が回収される。一見無関係に見えた登場人物や出来事が、実は関係していたのだ。
それにしても野々宮の用事とは何なのだろうと思いつつ、読者は次のページをめくる。
次話(3-7)の冒頭は「其翌日は丁度日曜なので、学校では野々宮君に逢ふ訳に行かない。然し昨日自分を探してゐた事が気掛かりになる」となっており、今話(3-6)は土曜日だったということになる。そこで今話を確認すると、3-5からの続きとなっており、3-5には「次の日は空想をやめて、這入ると早速本を借りた。然し借り損なつたので、すぐ返した」とあり、大学図書館は土曜日も開館していたことになる。