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夏目漱石「三四郎」本文と解説3-4 「是から先は図書館でなくつちや物足りない」

◇本文

 それから当分の間三四郎は毎日学校へ通つて、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席して見た。それでも、まだ物足りない。そこで遂には専攻課目に丸で縁故のないもの迄へも折々は顔を出した。然し大抵は二度か三度で已めて仕舞つた。一ヶ月と続いたのは少しも無かつた。それでも平均一週に約四十時間程になる。如何(いか)な勤勉な三四郎にも四十時間はちと多過ぎる。三四郎は断へず一種の圧迫を感じてゐた。然るに物足りない。三四郎は楽しまなくなつた。

 或日佐々木与次郎に逢つて其話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、眼を丸くして、「馬鹿々々」と云つたが、「下宿屋のまづい飯を一日に十返食つたら物足りる様になるか考へて見ろ」といきなり警句でもつて三四郎を()やしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入つて、「どうしたら()からう」と相談をかけた。

「電車に乗るがいゝ」と与次郎が云つた。三四郎は何か寓意でもある事と思つて、しばらく考へて見たが、別に是と云ふ思案も浮ばないので、

「本当の電車か」と聞き直した。其時与次郎はげら/\笑つて、

「電車に乗つて、東京を十五六返乗り回してゐるうちには(おのづか)ら物足りる様になるさ」と云ふ。

何故(なぜ)

「何故つて、さう、()きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちや、助からない。外へ出て風を入れるさ。其上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩で(かつ)尤も軽便だ」

 其日の夕方、与次郎は三四郎を(らつ)して、四丁目から電車に乗つて、新橋へ行つて、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこで下りて、

「どうだ」と聞いた。

 次に大通りから細い横町へ曲がつて、(ひら)()と云ふ看板のある料理屋へ上がつて、晩食を食つて酒を呑んだ。其所(そこ)の下女はみんな京都弁を使ふ。甚だ纏綿(てんめん)してゐる。表へ出た与次郎は赤い顔をして、又

「どうだ」と聞いた。

 次に本場(ほんば)の寄席へ連れて行つてやると云つて、又細い横町へ這入つて、木原店(きはらだな)と云ふ寄席へ上がつた。此所(こゝ)で小さんといふ話し家を聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、又

「どうだ」と聞いた。

 三四郎は物足りたとは答へなかつた。然し満更物足りない心持もしなかつた。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。

 小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものぢやない。何時(いつ)でも聞けると思ふから安つぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。――円遊も旨い。然し小さんとは趣が違つてゐる。円遊の(ふん)した太鼓持は、太鼓持になつた円遊だから面白いので、小さんの()る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌々地に躍動する許りだ。そこがえらい。

 与次郎はこんな事を云つて、又

「どうだ」と聞いた。実を云ふと三四郎には小さんの味はひが善く分らなかつた。其上円遊なるものは未だ(かつ)て聞いた事がない。従つて与次郎の説の当否は判定しにくい。然し其比較のほとんど文学的と云ひ得る程に要領を得たには感服した。

 高等学校の前で分かれる時、三四郎は、

難有(ありがと)う、大いに物足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、

「是から先は図書館でなくつちや物足りない」と云つて片町(かたまち)の方へ曲がつて仕舞つた。此一言で三四郎は始めて図書館に這入る事を知つた。 (青空文庫より)


◇解説

「それから当分の間三四郎は毎日学校へ通つて、律義に講義を聞いた」

…相変わらず真面目な三四郎。


「必修課目以外のものへも時々出席して見た。それでも、まだ物足りない。そこで遂には専攻課目に丸で縁故のないもの迄へも折々は顔を出した。然し大抵は二度か三度で已めて仕舞つた。一ヶ月と続いたのは少しも無かつた」

…大学で学んだ者には、前半の積極的な態度も、その後に襲う物足りなさ・虚無感も、共感できるだろう。大学生はみな「物足りなさ」を感じている。それをどう変えていくか、道を開いていくかは、学生自身にかかっている。

三四郎は講義への期待を捨てていない。「それでも平均一週に約四十時間程」の講義を履修する。「如何(いか)な勤勉な三四郎にも四十時間はちと多過ぎる」と同情する語り手。「一種の圧迫」・「物足りな」さを感じる「三四郎は楽しまなくなつた」。

つまらぬ学生生活。憧れて入った大学が期待外れ。5月病ですね。(当時の大学の始業は秋ですけど)


三四郎の5月病を回復せんがために登場したのが佐々木与次郎だ。

「下宿屋のまづい飯を一日に十返食つたら物足りる様になるか考へて見ろ」というのは面白くも良いたとえだ。それにしても相変わらず彼は大学に手厳しい。この喩えでは、初めから講義は「まづい飯」とディスられている。「まづい飯」は、一杯目で降参だ。

「どうしたら()からう」と相談をかけた三四郎への答えは、「電車に乗るがいゝ」というものだった。「電車に乗つて、東京を十五六返乗り回してゐるうちには(おのづか)ら物足りる様になる」。「さう、()きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちや、助からない。外へ出て風を入れるさ。其上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩で(かつ)尤も軽便だ」ということで、佐々木をバスガイド代わりにふたりは実際に東京を周遊する。四丁目から電車に乗り、新橋、又引き返して日本橋、そこで電車を下り、大通りから細い横町へ曲がり、平の家という料理屋へ上がり、晩食を食つて酒を呑んだ。

東京なのに、「其所(そこ)の下女はみんな京都弁を使ふ」。「甚だ纏綿(てんめん)してゐる」おかしな店だ。


・「纏綿」…1、まといつくこと。からみつくこと。 2、ろいろな事情が二重三重に入り組み、複雑になっている様子。(三省堂「新明解国語辞典」)


「四丁目」とは「本郷四丁目」→新橋→日本橋→平の家

「平の家」は、京都に本店があった「平野家」の支店で、京都料理の専門店だったようだ。


ふたりは「赤い顔」で「又細い横町へ這入つて、木原店(きはらだな)と云ふ寄席へ上が」り、「十時過ぎ」まで「小さんといふ話し家を聞いた」。

「三四郎は物足りた」気はしなかったが、「満更物足りない心持もしなかつた」。様々な初めての体験がまだ未整理な三四郎。それらが自分の感覚にフィットするかどうかも判断できない。


三四郎の曖昧な態度に、佐々木は「小さん論を始めた」。

三四郎には小さんの味わいがよくわからず、円遊も聞いたことがない。だから「与次郎の説の当否は判定しにく」かったが、「然し其比較のほとんど文学的と云ひ得る程に要領を得たには感服した」。

三四郎も佐々木も、これでいいのだ。三四郎には東京での様々な実地の体験が圧倒的に不足している。それらは大学に閉じこもっていたのでは知りえないものだ。佐々木はそう考えて、三四郎をあちこち連れまわした。佐々木の小さん論もこれでいい。彼は彼の考えを三四郎にぶつけた。その当否・判断は三四郎自身がすることだ。佐々木はこの夜、体験と考え方を、三四郎にプレゼントしたのだった。

大学生っていいですね。こんなことができるのは、学生時代だけですから。


だから「三四郎は、「難有(ありがと)う、大いに物足りた」と礼を述べた」のだ。実際に三四郎はまだ「物足り」てはいない。しかしその手がかりを、佐々木から受け取ったように思ったのだ。

佐々木はもう一つの指針を三四郎に与える。「是から先は図書館でなくつちや物足りない」。社会体験・趣味・教養と学問はともに大切なのだということ。「此一言で三四郎は始めて図書館に這入る事を知つた」。


大学図書館は独特の雰囲気がある。これほどの本があること。それを書いた人がいること。これらすべてを読みつくすことは到底不可能だと、巨大な知の集積に若者は圧倒されそうになる。三四郎はどうだろうか。


野々宮も佐々木をはじめとして、三四郎に関わる人たちはみな良心の持ち主だ。(美禰子を除く) 地方から出て来たばかりの彼を、率直であたたかな目で見守り導こうとしている。意地悪しようとか、だまそうとか思っている人は一人もいない。このことは上京した三四郎にとって最大の幸運だった。彼は良き人たちに導かれ、学生生活を過ごしていく。


それにしても、まさか佐々木から、「図書館に向かえ」という言葉が出てくるとは、夢にも思わなかった。彼も一見不真面目なようで、実は真面目な人なのだ。(ときどき大きくズッコケるけど)

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