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夏目漱石「三四郎」本文と解説3-3 「第一彼等の講義を聞いても解るぢやないか。話せるものは一人もゐやしない」

◇本文

 其日は何となく気が(うつ)して、面白くなかつたので、池の周囲(まはり)(まは)る事は見合せて家へ帰つた。晩食後筆記を繰り返して読んで見たが、別に愉快にも不愉快にもならなかつた。母に言文一致の手紙をかいた。――学校は始まつた。是から毎日出る。学校は大変広い好い場所で、建物も大変美くしい。真中に池がある。池の周囲(まはり)を散歩するのが楽しみだ。電車には近頃漸く乗り馴れた。何か買つて上げたいが、何が好いか分からないから、買つて上げない。欲しければ其方(そつち)から云つて来て呉れ。今年の米は今に()が出るから、売らずに置く方が得だらう。三輪田の御光さんにはあまり愛想を()くしない方が好からう。東京へ来て見ると人はいくらでもゐる。男も多いが女も多い。と云ふ様な事をごた/\並べたものであつた。

 手紙を書いて、英語の本を六七頁(ページ)読んだら(いや)になつた。こんな本を一冊位読んでも駄目だと思ひ出した。床を取つて寐る事にしたが、寐つかれない。不眠症になつたら早く病院に行つて見て貰はう抔と考へてゐるうちに寐て仕舞つた。

 翌日(あくるひ)も例刻に学校へ行つて講義を聞いた。講義の間に今年の卒業生が何所其所(どこそこ)幾何(いくら)で売れたと云ふ話を耳にした。誰と誰がまだ残つてゐて、それがある官立学校の地位を競争してゐる噂だ抔と話してゐるものがあつた。三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せる様な鈍い圧迫を感じたが、それはすぐ忘れて仕舞つた。(むし)ろ昇之助が何とかしたと云ふ方の話が面白かつた。そこで廊下で熊本出の同級生を(つら)まへて、昇之助とは何だと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫だと教へて呉れた。夫から寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあると云ふ事迄云つて聞かせた上、今度の土曜に一所に行かうと誘つて呉れた。よく知つてると思つたら、此男は昨夜(ゆふべ)始めて、寄席へ這入つたのださうだ。三四郎は何だか寄席へ行つて昇之助が見度なつた。

 昼飯を食ひに下宿へ帰らうと思つたら、昨日(きのふ)ポンチ画をかいた男が来て、おい/\と云ひながら、本郷の通りの淀見(よどみ)軒と云ふ所に引つ張つて行つて、ライスカレーを食はした。淀見軒と云ふ所は店で果物を売つてゐる。新らしい普請(ふしん)であつた。ポンチを()いた男は此建築の表を指さして、是がヌーボー式だと教へた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものかと始めて悟つた。帰り路に青木堂も教はつた。矢張り大学生のよく行く所ださうである。赤門を這入つて、二人で池の周囲(まはり)を散歩した。其時ポンチ画の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へ這入るのが嫌で講義が済むといつでも此 周囲(まはり)をぐる/\ (まは)つてあるいたんだと、(あたか)も小泉先生に教はつた様な事を云つた。何故控室へ這入らなかつたのだらうかと三四郎が尋ねたら、

「そりや当り前ださ。第一彼等の講義を聞いても解るぢやないか。話せるものは一人もゐやしない」と手痛(てひど)い事を平気で云つたには三四郎も驚ろいた。此男は佐々木与次郎と云つて、専門学校を卒業して、ことし又撰科へ這入つたのださうだ。東片町の五番地の広田と云ふうちに居るから、遊びに来いと云ふ。下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家だと答へた。 (青空文庫より)


◇解説

「其日は何となく気が(うつ)して、面白くなかつたので、池の周囲(まはり)(まは)る事は見合せて家へ帰つた」

…大学の講義と周囲の学生に失望した三四郎は、精神的にも疲れてしまっている。その日、学問にも恋にも消極的になった彼は、まっすぐ下宿に帰る。「晩食後筆記を繰り返して読んで見たが、別に愉快にも不愉快にもならなかつた」。大学の授業・学問への評価は、まだ定まっていない。

心の居場所である故郷の母にあてた手紙は、学校の始業、毎日出席していること、学校は大変好い場所なこと、池の周囲を散歩するのが楽しみなこと(ただし美禰子については触れていない)、電車に漸く乗り馴れたこと、欲しいものがあれば言ってほしいこと、今年の米は今に()が出るから、売らずに置く方が得だらうこと(自分の知る情報をもとに、家庭の経済状況を心配)、三輪田の御光さんにはあまり愛想を()くしない方が好からうこと(変に勘違いし、期待されても困るから)、東京は人はいくらでもいること(特に田舎よりも女が多くいる)、などを「ごた/\並べたものであつた」。これらの雑談を田舎の母に書き伝えたのは、弱音を聞いてもらいたかったからだ。彼が今、自分の気持ちを素直に吐露できる人は、母しかいない。里心がついたともいえるが、期待が大きかっただけに、それに応えてくれない東京と大学への失望は大きいのだった。


「手紙を書いて、英語の本を六七頁(ページ)読んだら(いや)になつた。こんな本を一冊位読んでも駄目だと思ひ出した。床を取つて寐る事にしたが、寐つかれない。不眠症になつたら早く病院に行つて見て貰はう抔と考へてゐるうちに寐て仕舞つた」

…講義のおさらいをする三四郎は真面目な学生なのだが、大学の様子が分かり始めた今は、「六七頁(ページ)読んだら(いや)に」なり、しまいには、「こんな本を一冊位読んでも駄目だと思ひ出した」。入学前の学問へのあこがれが変化している様子。なかなか「寐つかれ」ず、「不眠症になつたら早く病院に行つて見て貰はう抔と考へ」る。このあたりの三四郎の思考過程は独特で面白い。まるで「風邪を引いたから医者に行く」と同じレベルで不眠症を捉えている。当時も「不眠症」はよくある症状で、それに「なつたら早く病院に行つて見て貰」うというのが普通だったのか。しかし若く、物事をあまり深く考えないタイプの三四郎に、そのような心配は無用だ。彼は、そう「考へてゐるうちに寐て仕舞」う。


※明治時代の文学者の中には、神経衰弱や不眠症に悩まされる者がおり、睡眠薬をはじめさまざまな薬物が使用された。当時は薬物がまだ、合法的に入手できた。


真面目な三四郎は、「翌日(あくるひ)も例刻に学校へ行つて講義を聞いた」。講義の間に耳にした卒業生の就職先の話題に、「三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せる様な鈍い圧迫を感じ」る。当時の東京大学卒業生には、卒業前に就職先が決まっていない者がいたことが分かる。入学したばかりの三四郎にとって、3年後の卒業(当時、大学は3年制)は現実的にイメージできないだろうが、それでもやがて自分も就職しなければならない。もしくは研究の道に進まなければならない。天下の東大であっても進路決定は簡単ではないということを、この時三四郎は実感したのだった。

しかし三四郎は「それはすぐ忘れて仕舞つた。(むし)ろ昇之助が何とかしたと云ふ方の話が面白かつた」。


三四郎という人物は、心配していたかと思うと「考へてゐるうちに寐て仕舞」ったり、「未来が遠くから眼前に押し寄せる様な鈍い圧迫を感じ」ながらも「すぐ忘れて仕舞」い、「(むし)ろ昇之助が何とかしたと云ふ方の話が面白」いと感じる人物として形成される。これが若さの良い部分でもあり、悪い部分でもある。


廊下で熊本出の同級生を捕まえ、昇之助について尋ねる。相手は「よく知つてると思つたら、此男は昨夜(ゆふべ)始めて、寄席へ這入つたのださうだ。三四郎は何だか寄席へ行つて昇之助が見度なつた」。大学生は、学問だけしていればよいのではない。せっかく地方から東京に出て来たのだ。そこでしかできない様々な経験・体験を、若者はしなければならない。それが知識と教養を高めることにつながる。従って、娘義太夫に興味を示す三四郎を責めてはいけない。


昼飯は、佐々木が三四郎を「本郷の通りの淀見(よどみ)軒と云ふ所に引つ張つて行つて、ライスカレーを食はした」。淀見軒のライスカレー、ヌーボー式建築、青木堂。三四郎の大学生活に彩が加わる。


先日は野々宮に、本郷で一番うまい西洋料理をごちそうになった。

「それから真砂町で野々宮君に西洋料理の御馳走になつた。野々宮君の話では本郷で一番旨い家ださうだ」(2-6)

良い飲食店は、実際にその味を知っている人に教えてもらうのが一番だ。野々宮には西洋料理を、佐々木にはライスカレーを、おごってもらう三四郎は幸福だ。


漱石は、「教員控室へ這入るのが嫌で講義が済むといつでも此 周囲(まはり)をぐる/\ (まは)つてあるいた」という小泉八雲のエピソードを用いて、佐々木に「「そりや当り前ださ。第一彼等の講義を聞いても解るぢやないか。話せるものは一人もゐやしない」と手痛(てひど)い事を」言わせる。大学教育と教授たちへの率直な批判に驚く三四郎。


佐々木与次郎…専門学校を卒業し、ことし又撰科へ這入つた。東片町の五番地の広田と云ふうちに居る。気軽に「遊びに来い」と誘うからには「下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家だと答へた」ところから、佐々木が広田の家に書生のように入り浸っていることが分かる。

なお、当時の「東片町」は、東大の北西隣にある。


〇「ヌーボー式建築」について

(本文・画像ともすべて、アールヌーヴォー建築とは?デザイン的な特徴や日本の代表的な建物を紹介【ConMaga(コンマガ)】より)

「アールヌーヴォー建築とは

アールヌーヴォー建築とは、19世紀末~20世紀初頭にヨーロッパで流行したデザイン様式を用いた建築のことです。花やツタなどの自然をモチーフに、曲線的なデザインが施された建物を見たことがある人も多いでしょう。アールヌーヴォー建築は、ベルギーとフランスから始まり、ヨーロッパ各地へと広がっていきました。日本には、西洋の近代文化を積極的に受け入れていた明治時代 に入ってきたのです」。

「アールヌーヴォーの意味

アールヌーヴォー とは、フランス語で「新しい芸術(Art nouveau)」の意味です。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパを中心に流行した国際的な芸術運動がアルーヌーヴォー と呼ばれています。1900年のパリ万国 博覧会に、アルーヌーヴォー はその全盛期を迎えました。

新しい芸術というとおり、アールヌーヴォーは過去の伝統的な芸術様式とはまったく異なる新しいムーブメントだったのです。興味深いのは、アールヌーヴォーの装飾的な表現は、浮世絵をはじめとする日本美術から影響を受けていた点でしょう。もともと「アールヌーヴォー」は、当時、日本美術商であったサミュエル・ビング がパリに開いた店の名前でした。

アールヌーヴォーは、狭義には「ベル・エポック (よき時代)」と呼ばれる、1890年頃から1914年の第一次世界大戦勃発までのフランス装飾美術を指します。1890年代、フランス共和国政府は高級な手工芸・装飾芸術に関心を持ち、洗練された優美さを世界に向けて打ち出すことで優位性を確立しようとしました。これがアールヌーヴォーの興隆につながったとされています。

また広義には、19世紀後半に英国で起きたアーツ・アンド・クラフツ運動以降に、ヨーロッパ全土で活発化した造形芸術運動 のことを指します」。

「アールヌーヴォー建築のデザイン的な特徴

曲線的なデザイン

アールヌーヴォーは「曲線の美」と称されるほど、自由で優美な印象を与える曲線が多用されました。アールヌーヴォー建築には、曲線的な形状・構造や、浮世絵に見られるアシンメトリーのレイアウトが用いられています。伝統的なデザイン様式とは一線を画していたために 、ジャポニズム、アラビア様式、ケルト文様なども取り入れられました。

中でも曲線で有名なアールヌーヴォー建築といえば、スペインの芸術家、アントニオ・ガウディ(1852-1926)が手掛けた建造物です。通常のアール・ヌーヴォー装飾よりはるかに過剰な様式 という指摘もあるサグラダ・ファミリアは、伝統的な教会建築とは異なり、直線、直角、水平がほとんどありません。

有機物をモチーフ

アールヌーヴォー建築では、花・植物・昆虫など、自然界にある有機物をモチーフを 用いて装飾が施されています。ゆるやかな曲線と、自然界にある有機物のモチーフを組み合わせた装飾的なデザインこそがアールヌーヴォー様式の大きな特徴です。

線材として鉄の利用

当時新しい素材であった鉄が、線材としてよく利用されていたことも、アールヌーヴォー建築の特徴です。鉄は加工しやすいことから、自由度の高い素材として注目されました。鉄を加工することで、軽やかで繊細な表現が可能になったことから、柱や梁、階段の手すりやドアなどに使用されたのです」。

「日本のアールヌーヴォー建築

ここでは、日本におけるアールヌーヴォー建築についてご紹介します。

旧大阪商船

北九州市にある「旧大阪商船」は、国の登録有形文化財に指定されており、1917年に竣工した海運会社・大阪商船の門司支店を修復したものです。オレンジ色の外壁が美しい旧大阪商船は、門司港レトロのシンボル的な存在で、八角形の塔屋、窓ガラスのデザインも見応えがあります」


大阪市中央公会堂

大阪市中之島にある「大阪市中央公会堂」は、国の重要文化財に指定されており、北浜で株式仲買商を営んでいた岩本栄之助の寄附をもとに、1918年に竣工した建物です。手すりにアールヌーヴォーの曲線デザインが施された螺旋階段は圧巻で、職人の技術の高さが伺えます。


東京駅

「東京駅丸の内駅舎」は、国の重要文化財に指定されており、当時の日本建築界を牽引した辰野金吾の集大成として1914年に竣工した建造物です。関東大震災に耐えるほど堅牢でしたが、戦災により1945年、南北ドームを含む3階部分を焼失しました。2012年に3階・屋根部分の復元工事を終えたことから、8つの干支、鷲や剣などのレリーフが復元された壮麗な南北ドームを見ることができます」。


〇「専門学校」について

(三 専門学校の制度化と拡充:文部科学省より)

「専門学校令の公布

 明治三十年代までは専門学校に対する統一的な方策はなく、必要に応じてその設置を認可してきた。しかし中等教育が発達し専門学校への進学者も多くなり、高等教育機関を整備するために専門学校を統一的な規程によって取り扱わなければならなくなった。そこで三十六年三月二十七日に「専門学校令」を公布して、はじめて専門学校を制度化して運営することとなった。 しかし、専門学校はその種類が多様であったので、これを統轄する規程はすべてに通ずる基本的な条章を掲げるにとどまらざるを得なかった。各学校についてのそれ以上の詳細な規定はそれぞれの学校において定め、文部大臣の認可を経ることとした。専門学校の一般的性質に関しては「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と規定しただけであって、それ以外にこの学校の性質を明らかにする詳細な条文はつくられていない。修業年限は三年以上とし、入学資格は中学校卒業者もしくは修業年限四年以上の高等女学校卒業者とし、音楽美術に関する専門学校は別に入学の規定を定めることとした。また専門学校には予科・研究科・別科を設置できることとした。官立専門学校の修業年限、学科目およびその程度は文部大臣の定めるところとし、公私立の専門学校は文部大臣の認可によってこれを定めることとした。ここにおいて同年三月三十一日公私立専門学校規程を公布して、これらの学校の統轄に関する詳細な事項を定めた。また同日、専門学校入学者検定規程を定め、男子は満十七年以上、女子は満十六年以上の者に受験の資格を与えた。これは独学者に専門学校入学の機会を与えるための制度であった。従前設立維持されてきた諸種の専門学校はこの専門学校令によって統轄されることとなり、その全般に関する改革が行なわれた。

 また、専門学校令の公布とともに、実業学校令を改正し、「実業学校ニシテ高等ノ教育ヲ為スモノヲ実業専門学校トス実業専門学校ニ関シテハ専門学校令ノ定ムル所ニ依ル」という規定が加わり、ここに実業専門学校という制度類型を高等教育に加えることとなった。高等工学校・高等農林学校・高等商業学校などの名称で呼ばれた諸学校がそれである。しかし、専門学校も実業専門学校も、専門学校令の規定の適用をうける点では変わりはなく、中学校卒業者に分科した専門教育を施すという性格においても変わりはなかった。

 専門学校令の施行とともに、三十四年高等学校医学部から独立していた千葉・仙台・岡山・金沢・長崎の五医学専門学校を専門学校令による学校とし、また東京外国語学校・東京美術学校・東京音楽学校も専門学校とした。この他、公私立の専門教育機関のうち、専門学校令によって認めたものを専門分野別にみると、医薬学五校、法律学一一校、文学一〇校、宗教一〇〇校に達した。実業専門学校も次々に認可されあるいは新設されていった。後年これらが急速に発展して膨大な高等教育の諸学校となったが、その基本構造は三十六年以後の数年間につくりあげられた。

専門学校と私立学校

 専門学校令によって認可した専門学校には医学・法律・経済・商科関係のものが多くみられるが、それは従来高等の学術技芸を教授していたすべての学校がこれに含まれるようになったからである。官立の専門学校は従来の制度をこの専門学校令によって明確にしただけであったが、私立専門学校はその後著しい変革をした。すなわち、専門学校令に基づいた私立の学校であって大学の名称をとるものが多数見られるようになったことである。当時大学は帝国大学以外に存在しなかったので、専門学校は大学と制度上明確に区別されていた。そのために私立大学の設立を制度上認めることができなかったので、文部省は三十六年、一年半程度の予科をもつ専門学校に対しては「大学」という名称をつけることを正式に認可することとした。この措置によって、すでに二十年代はじめから「大学部」を設けていた慶応義塾のほか早稲田・東京法学院(中央)・同志社などの有力な私立の専門学校は次々に大学と改称した。もちろん大学とは称しても専門学校令に基づいたものであるから、制度上帝国大学と同程度のものと見ることはできないが、そこには専門学校以上の高等教育機関としての体制を備えようとする要望を明らかに認めることができる。その後大正八年に新たに大学令が設けられて私立大学を認めることとなったのも、これらの私立諸大学がしだいに専門学校よりも程度の高い学校としての実質を備えるようになってきていたことがもととなっている。

 専門学校令により認可された私立専門学校には、法律・経済等を授けるものとして東京法学院大学・明治大学・法政大学・京都法政専門学校・関西法律学校・専修学校・慶応義塾大学・日本大学・早稲田大学などがあり、そのほか哲学館大学・明治学院・青山学院・日本女子大学・東北学院・同志社専門学校等が文学あるいは宗教に関係ある専門学校として、また天台宗大学・真宗大学・仏教大学・曹洞宗大学林・日蓮宗大学林等が宗教の専門学校として明治三十六年以後相次いで設置を認可されている。これらの私立大学、専門学校が新しい学校令によって統轄され、専門学校制度はその面目を一新したのである。(中略)

 このようにして、三十六年には専門学校三九校、実業専門学校八校計四七校であったのが、四十三年には専門学校六二校と実業専門学校一七校で計七九校となり、在籍者はあわせて約三万三、〇〇〇人(うち女子一、〇〇〇人)に達した」。


〇「選科」について

「三四郎」は明治41年発表なので16.7年前のことになるが、西田幾多郎の「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」に、次のような記述がある。

「私共が故郷の金沢から始めて東京に出た頃は、水道橋から砲兵 工廠(こうしょう)辺はまだ淋しい所であった。焼鳥の屋台店などがあって、人力車夫が客待をしていた。春日町辺の本郷側の崖の下には水田があって蛙が鳴いていた。本郷でも、大学の前から駒込の方へ少し行けば、もう町はずれにて、砂煙の中に多くの肥車(こえぐるま)に逢うた。

 その頃には、今の大学の正門の所に粗末な木の門があった。竜岡町の方が正門であって、そこは正門ではなかったらしい。そこから入ると、すぐ今は震災で全く跡方もなくなった法文科大学の建物があった。それは青山御所を建てたコンドルという英人が建てたとか、あまり大きくもない煉瓦の建物であったが、当時の法文科はその一つの建物の中に納っていたのである。しかもその二階は図書室と学長室などがあって、太いズボンをつけた外山さんが、鍵をがちゃつかしながら、よく学長室に出入せられるのを見た。法文の教室は下だけで、間に合うていたのである。当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校の立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常な差別待遇を受けていたものであった。今いった如く、二階が図書室になっていて、その中央の大きな室が閲覧室になっていた。しかし選科生はその閲覧室で読書することがならないで、廊下に並べてあった机で読書することになっていた。三年になると、本科生は書庫の中に入って書物を検索することができたが、選科生には無論そんなことは許されなかった。それから僻目(ひがめ)かも知れないが、先生を訪問しても、先生によっては(しきい)が高いように思われた。私は少し前まで、高校で一緒にいた同窓生と、忽ちかけ離れた待遇の下に置かれるようになったので、少からず感傷的な私の心を傷つけられた。三年の間を、隅の方に小さくなって過した。しかしまた一方には何事にも促らわれず、自由に自分の好む勉強ができるので、内に自ら楽むものがあった。超然として自ら矜持(きんじ)する所のものを()っていた。私の頃は高校ではドイツ語を少ししかやらなかったので、最初の一年は主として英語の注釈の附いたドイツ文学の書を読んだ。(中略) 

 当時の哲学科の学生には、私共の上のクラスには、両松本や米山保三郎などいう秀才がおり、二年後のクラスには桑木巌翼君をはじめ姉崎、高山などいわゆる二十九年の天才組がいた。有名な夏目漱石君は一年上の英文学にいたが、フローレンツの時間で一緒に『ヘルマン・ウント・ドロテーア』を読んでいたように覚えている。(中略)

 右のような訳で、高校時代には、活溌な愉快な思出の多いのに反し、大学時代には先生にも親しまれず、友人というものもできなかった。黙々として日々図書室に入り、独りで書を読み、独りで考えていた。大学では多くのものを学んだが、本当に自分が教えられたとか、動かされたとかいう講義はなかった。その頃は大学卒業の学士に就職難というものはなかったが、選科といえば、あまり顧みられなかったので、学校を出るや否や故郷に帰った。そして十年余も帝都の土を踏まなかった。」(青空文庫より)


このように、三四郎や佐々木が大学について不平を漏らすのと同じようなことが書かれている。

選科生である佐々木は、表面には表さないが、心の中では西田と同じような引け目を感じていた可能性がある。

図書館については、この後3-5などに出てくるが、「選科生はその閲覧室で読書することがならないで、廊下に並べてあった机で読書することになっていた」のような場面は出てこない。

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