夏目漱石「三四郎」本文と解説3-2 ポンチ画をかいていた男が「大学の講義は詰らんなあ」と云つた
◇本文
夫から約十日許立つてから、漸く講義が始まつた。三四郎が始めて教室へ這入つて、(ほか)の学生と一所に先生の来るのを待つてゐた時の心持は実に殊勝なものであつた。神主が装束を着けて、是から祭典でも行はうとする間際には、かう云ふ気分がするだらうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。実際学問の威厳に打たれたに違ない。それのみならず先生が号鐘が鳴つて十五分立つても出て来ないので益予期から生ずる敬畏の念を増した。そのうち人品のいゝ御爺さんの西洋人が戸を開けて這入つて来て、流暢な英語で講義を始めた。三四郎は其時 answerと云ふ字はアングロ、サクソン語の and-swaru(アンド、スワル)から出たんだと云ふ事を覚えた。それからスコツトの通つた小学校の村の名を覚えた。いづれも大切に筆記帳に記して置いた。其次には文学論の講義に出た。此先生は教室に這入つて、一寸と黒板を眺めてゐたが、黒板の上に書いてある、Geschehenと云ふ字と Nachbildと云ふ字を見て、はあ独乙語かと云つて、笑ひながらさつさと消して仕舞つた。三四郎は之が為めに独乙語に対する敬意を少し失つた様に感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義を凡そ二十許り列べた。三四郎は是も大事に手帳に筆記して置いた。午後は大教室に出た。其教室には約七八十人程の聴講者が居た。従つて先生も演説口調であつた。砲声一発浦賀の夢を破つてと云ふ冒頭であつたから、三四郎は面白がつて聞いてゐると、仕舞には独乙の哲学者の名が沢山出て来て甚だ解しにくゝなつた。机の上を見ると、落第と云ふ字が美事に彫つてある。余程 閑に任せて仕上げたものと見えて、堅い樫の板を奇麗に切り込んだ手際は素人とは思はれない。深刻の出来である。隣の男は感心に根気よく筆記をつゞけてゐる。覗いて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチにかいてゐたのである。三四郎が覗くや否や隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。画は旨く出来てゐるが、傍に久方の雲井の空の子規(ほとゝぎす)と書いてあるのは、何の事だか判じかねた。
講義が終つてから、三四郎は何となく疲労した様な気味で、二階の窓から頬杖を突いて、正門内の庭を見下ろしてゐた。只大きな松や桜を植ゑて其間に砂利を敷いた広い道を付けた許であるが、手を入れ過ぎてゐない丈に、見てゐて心持が好い。野々宮君の話によると此所(こゝ)は昔はかう奇麗ではなかつた。野々宮君の先生の何とか云ふ人が、学生の時分馬に乗つて、此所を乗り廻すうちに、馬が云ふ事を聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引つかゝる。下駄の歯が鐙に挟まる。先生は大変困つてゐると、正門前の喜多床と云ふ髪結床の職人が大勢出て来て、面白がつて笑つてゐたさうである。其時分には有志のものが醵金して構内に厩をこしらへて、三頭の馬と、馬の先生とを飼つて置いた。所が先生が大変な酒呑で、とう/\三頭のうちの一番 好い白い馬を売つて飲んで仕舞つた。それはナポレオン三世時代の老馬であつたさうだ。まさかナポレオン三世時代でも無からう。然し呑気な時代もあつたものだと考へてゐると、さつきポンチ画をかいた男が来て、
「大学の講義は詰らんなあ」と云つた。三四郎は好加減な返事をした。実は詰るか詰らないか、三四郎には些とも判断が出来ないのである。然し此時から此男と口を利く様になつた。 (青空文庫より)
◇解説
「夫から約十日許立つてから、漸く講義が始まつた」
…今ならさっそく苦情が入るところだ。真面目な三四郎はおそらく毎日登校し、教師も学生も来ない教室でひとり授業が始まるのを待ち、そのたびに「疳癪」(3-1)を起こしただろう。
待ちに待った大学の講義がやっと始まる。「三四郎が始めて教室へ這入つて、(ほか)の学生と一所に先生の来るのを待つてゐた時の心持は実に殊勝なものであつた」。彼はそのためにはるばる九州からやってきた。母の手紙には何も心配するなと書いてあった。その期待に応えなければならないという自負。明治の大学生には、立身出世し国を背負うという気概がある。
「学問の威厳に打たれた」彼は、これから始まる講義に、高尚さ・神聖さを感じる。「先生が号鐘が鳴つて十五分立つても出て来ないので益予期から生ずる敬畏の念を増した」。
初めての講義は「人品のいゝ御爺さんの西洋人」の先生。熊本の高校で見ていた外国人とはまるで違うことに、三四郎はある感動を覚えただろう。
「三四郎は生れてから今日に至るまで西洋人と云ふものを五六人しか見た事がない。其うちの二人は熊本の高等学校の教師で、其二人のうちの一人は運悪く脊虫であつた。女では宣教師を一人知つてゐる。随分尖がつた顔で、鱚又は魳に類してゐた」(1-8)
「流暢な英語」での「講義」の内容に重要なものはなく、講義の導入としてのものだった。しかし真面目な三四郎は、「いづれも大切に筆記帳に記して置いた」。
「其次には文学論の講義に出た」。「此先生は教室に這入つて、一寸と黒板を眺めてゐたが、(中略)はあ独乙語かと云つて、笑ひながらさつさと消して仕舞つた。三四郎は之が為めに独乙語に対する敬意を少し失つた様に感じた」。真面目なだけに、先生に影響・感化されやすい三四郎。「先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義を凡そ二十許り列べた。三四郎は是も大事に手帳に筆記して置いた」。このエピソードは、漱石自身が東京大学で文学論を講じていたことが背景となっているが、初めの授業から「古来文学者が文学に対して下した定義を凡そ二十許り列べ」るところから、漱石の真面目さがうかがわれる。一方でこの講義スタイルは、生徒には不評だったかもしれない。それが与次郎の、「大学の講義は詰らんなあ」に反映されているだろう。つまり漱石は自分で自分の講義を批判・揶揄していることになる。
「午後は大教室に出た」以降の部分は、大学に入学した者ならみな体験し、感じたことだろう。大教室での大人数の授業は、「先生も演説口調」にならざるを得ない。「独乙の哲学者の名が沢山出て来」た日には、「甚だ解しにくゝ」なるだろう。すると学生たちの興味は次第に薄れ、それぞれがそれぞれに暇つぶしを始める。
落第と彫られた字の、「堅い樫の板を奇麗に切り込んだ手際は素人とは思はれない」。「深刻の出来」という表現が面白い。講義は不真面目に聞き流しているのに対し、暇つぶしの彫刻は手間をかけた見事さ。そうしてそのようなことにうつつを抜かしていると、やがては本当に「落第」してしまうという「深刻」さ。まさに彫刻が先か落第が先かというほどの出来上がり。
後に佐々木与次郎と知れる「隣の男は感心に根気よく筆記をつゞけてゐる」。しかしそれはポンチ(漫画)だった。
「久方の雲井の空の子規(ほとゝぎす)」
…安井息軒の青年時代の座右の銘「今は音を忍ぶが岡のほととぎすいつか雲居のよそに名のらむ」による。(角川文庫注釈)
この和歌は、「忍岡に生まれたほととぎすのような私は、まだ声をひそめて鳴くことしかできず耐え忍んでいるが、いつか、大空に舞い上がり、美しい声で鳴いてみせるぞ」という意味。
「「今に見てろよ」ぐらいの意味でしょうか。息軒がまだ20代の頃の和歌です。江戸に出て昌平坂学問所で勉学していた頃、この和歌を紙に書いて寮の部屋の壁に貼っていたと言われます。
息軒は風采の上がらない若者でした。幼少期にかかった天然痘により顔中にアバタがあったうえ右目が潰れており、背も低く、着ている衣服はボロボロ、話す言葉は訛りの強い方言ということで、江戸育ちで裕福な武家に生まれた同級生たちによくからかわれましたが、いちいち相手にせず、一心不乱に勉学に打ち込んだといいます。
「目標に向かって努力している以上、からかってくる暇人どもの相手なんぞいちいちしてられるか。俺は別に逃げているわけでも、屈したわけでもない。今に見てろよ、お前ら。偉大な学者として、天下に俺の名をとどろかせてやるからな。そんな心境が込められた和歌です」。
(知の巨人 安井息軒 – 宮崎市 安井息軒記念館・安井息軒旧宅ホームページより)
安井息軒は宮崎出身だが、佐々木もそうなのか? これまでのところ、佐々木の出身地は明かされていない。
授業中をさぼって「先生の似顔をポンチにかいて」いる男が、その隣に「いつか見てろよ」と書いてもまったく説得力がない。ならば授業に集中しろと言われるだろう。漫画と文が矛盾している佐々木。
講義は要領を得ない。周りの学生たちは不真面目だ。だから「講義が終つてから、三四郎は何となく疲労した様な気味で、二階の窓から頬杖を突いて、正門内の庭を見下ろしてゐた」。身体も心もひと休みである。そこは「見てゐて心持が好い」場所だった。すると「さつきポンチ画をかいた男が来て、「大学の講義は詰らんなあ」と云つた。三四郎は好加減な返事をした。実は詰るか詰らないか、三四郎には些とも判断が出来ないのである」。
「然し此時から此男と口を利く様になつた」。この後佐々木与次郎と三四郎は親しく交流するようになる。
期待して入学したはずの大学生活だが、三四郎を満足させるものはそこにはない。一方これは、現代の学生も同じような体験をするだろう。
大学は、口を開けていれば何かが与えられる場所ではない。自分でアンテナを張り情報を集め、思考し、自ら積極的に行動する場所だ。それは、学問についても同様で、学生生活を充実させられるかどうかは、三四郎自身の積極性や行動力にかかっている。
春から大学生になる皆さん、充実した学生生活を!