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夏目漱石「三四郎」本文と解説3-1 学年は九月十一日に始まつた。三四郎は正直に午前十時半頃学校へ行つて見たが、学生は一人も居ない

◇本文

 学年は九月十一日に始まつた。三四郎は正直に午前十時半頃学校へ行つて見たが、玄関前の掲示場に講義の時間割がある許で学生は一人も居ない。自分の聴くべき分丈を手帳に書き留めて、それから事務室へ寄つたら、流石に事務員丈は出て居た。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると云つてゐる。澄ましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がない様ですがと尋ねると、それは先生が居ないからだと答へた。三四郎は成程と思つて事務室を出た。裏へ廻つて、大きな欅の下から高い空を覗いたら、普通の空よりも明らかに見えた。熊笹の中を水際へ下りて、例の椎の木の所迄来て、又しやがんだ。あの女がもう一遍通れば()い位に考へて、度々岡の上を眺めたが、岡の上には人影もしなかつた。三四郎はそれが当然だと考へた。けれども矢張りしやがんでゐた。すると午砲(どん)が鳴つたんで驚ろいて下宿へ帰つた。

 翌日は正八時に学校へ行つた。正門を這入ると、取突(とつつき)の大通りの左右に植ゑてある銀杏の並木が眼に付いた。銀杏が向ふの方で尽きるあたりから、だら/\坂に下がつて、正門の際に立つた三四郎から見ると、坂の向ふにある理科大学は二階の一部しか出てゐない。其屋根の後ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝やいてゐる。日は正面にある。三四郎は此奥行のある景色を愉快に感じた。

 銀杏の並木が此方(こちら)側で尽きる右手には法文科大学がある。左手には少し退()がつて博物の教室がある。建築は双方共に同じで、細長い窓の上に、三角に尖つた屋根が突き出してゐる。其三角の縁に当る赤錬瓦と黒い屋根の接目(つぎめ)の所が細い石の直線で出来てゐる。さうして其石の色が少し蒼味(あをみ)を帯びて、すぐ下にくる派出な赤錬瓦に一種の趣を添へてゐる。さうして此長い窓と、高い三角が横にいくつも続いてゐる。三四郎は此間野々宮君の説を聞いてから以来、急に此建物を難有く思つてゐたが、今朝は、此意見が野々宮君の意見でなくつて、初手から自分の持説である様な気がし出した。ことに博物室が法文科と一直線に並んでゐないで、少し奥へ引つ込んでゐる所が不規則で妙だと思つた。こんど野々宮君に逢つたら自分の発明として此説を持ち出さうと考へた。

 法文科の右のはづれから半町程前へ突き出してゐる図書館にも感服した。よく分らないが何でも同じ建築だらうと考へられる。其赤い壁に()けて、大きな棕櫚(しゆろ)の木を五六本植ゑた所が大いに()い。左り手のずつと奥にある工科大学は封建時代の西洋の御城から割り出した様に見えた。真っ四角に出来上つてゐる。窓も四角である。只四隅と入口が丸い。是は(やぐら)片取(かたど)つたんだらう。御城丈に堅牢(しつかり)してゐる。法文科見た様に倒れさうでない。何だか(せい)の低い相撲取に似て居る。

 三四郎は見渡す限り見渡して、此外にもまだ眼に入らない建物が沢山ある事を勘定に入れて、何所(どこ)となく雄大な感じを起こした。「学問の府はかうなくつてはならない。かう云ふ構へがあればこそ研究も出来る。えらいものだ」――三四郎は大学者になつた様な心持がした。

 けれども教室へ這入つて見たら、鐘は鳴つても先生は来なかつた。其代り学生も出て来ない。次の時間も其通りであつた。三四郎は疳癪を起して教場を出た。さうして念の為めに池の周囲(まはり)を二遍許り廻つて下宿へ帰つた。 (青空文庫より)


◇解説

「学年は九月十一日に始まつた」…当時の学年始まりは、秋からだった。


「三四郎は正直に午前十時半頃学校へ行つて見たが、玄関前の掲示場に講義の時間割がある許で学生は一人も居ない」

…「正直に」は、「真面目に」の意味。九州から上京したばかりで、大学の仕組み・様子についてまだ何も知らない三四郎は、講義開始の日時の案内に真面目に従って登校した場面。他の学生たちは勝手を知っているのだろう。まだ講義は始まらないと考え、他の「学生は一人も居ない」。どの組織にも、「暗黙の了解」がある。それは、その組織に所属しているか関係している人でないとわからない。勝手の知らぬ新参者は、情報を持っていないだけに、どうしていいかわからないのだ。


授業に真面目に出席しようとする三四郎は、「自分の聴くべき分丈を手帳に書き留めて、それから事務室へ寄」る。事務員に、「講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると云つてゐる。澄ましたものである」。事務員は、この日から講義は始まらないことを知っているし、またそのことに対して何の疑問も持たないのだ。大学とはそういうものだと思って「澄まし」ている。


三四郎が真面目に「でも、どの部屋を見ても講義がない様ですがと尋ねると、それは先生が居ないからだと答へた」。これは答えになっていない。授業開始は9月11日と案内されている以上、先生も生徒もちゃんとその日に登校し授業を始めるはずだし、それが当然だと三四郎は思っている。三四郎の質問の意味・意図は、「今日は始業の日なのに、なぜ講義が行われていないのか」であり、その答えは、「先生が急病で休講になった」とか、「始業の告知が間違っていた」であるべきはずだ。つまり、なぜ「先生が居ない」のかを問うているのに、それに対し、「先生が居ないからだ」と答えるのは、答えになっていない。論理が矛盾している。「先生」が決まりを破り、学生たちもそれに従う様子に、三四郎は困惑しただろう。

ところが「三四郎は成程と思つて事務室を出た」。事務員の答えにもなっていない返答に、三四郎はすぐに納得してしまう。あまり追及してもらちが明かないと思ったか、そんなものだと納得してしまったかのどちらかだろう。


「裏へ廻つて、大きな欅の下から高い空を覗いたら、普通の空よりも明らかに見えた」

…これからいよいよ大学生活が始まるのだという心の高揚が感じられる。


「熊笹の中を水際へ下りて、例の椎の木の所迄来て、又しやがんだ。あの女がもう一遍通れば()い位に考へて、度々岡の上を眺めたが、岡の上には人影もしなかつた。三四郎はそれが当然だと考へた。けれども矢張りしやがんでゐた。すると午砲(どん)が鳴つたんで驚ろいて下宿へ帰つた」

…授業がないとなれば、心に浮かぶのはやはり「あの女」のことだ。若い三四郎は、勉強にも恋にも興味がある。しかしそう期待通りにはいかないことは、三四郎でもわかっている。彼に漢文の「守株」を思い出せと言いたいところだが、「けれども矢張りしやがんでゐた」。彼は「あの女」と会った日のことを「度々岡の上を眺め」ながら「御浚(おさらひ)」(1-5)しているのだろう。だらしなく妄想全開の彼の耳に、突然「午砲(どん)が鳴つたんで驚ろいて下宿へ帰つた」。野生の獣たちを驚かす「鹿威し」の効果を、「午砲(どん)」は三四郎に対して発揮した。いつまでそこでよからぬ夢想をしているのだということ。


前日は案内通り「正直に午前十時半頃学校へ行つて見た」三四郎だったが、翌日も、「正八時に学校へ行つた」。三四郎の真面目さ、律義さがうかがわれる。

「正門を這入ると」以降の大学構内の説明がやや詳し過ぎるのは、そこでこれから学生生活を過ごす三四郎の視線をたどったものだからだ。青雲の志を抱いて入学した三四郎。校舎の配置の妙に触れる説明は、野々宮の影響を受けたことも表す。それまで全く興味のなかった事柄に対し、良き先輩の影響で関心を示すようになった様子。「三四郎は此奥行のある景色を愉快に感じた」。「三四郎は此間野々宮君の説を聞いてから以来、急に此建物を難有く思つてゐたが、今朝は、此意見が野々宮君の意見でなくつて、初手から自分の持説である様な気がし出した。(中略)こんど野々宮君に逢つたら自分の発明として此説を持ち出さうと考へた」などがそれにあたる。


構内を「見渡す限り見渡し」た三四郎は、「何所(どこ)となく雄大な感じを起こ」す。「学問の府はかうなくつてはならない。かう云ふ構へがあればこそ研究も出来る。えらいものだ」と考え、「大学者になつた様な心持がした」。大学に入学した者がすべて「大学者」になれるわけではない。田舎出身の若者らしい志の高さともいえるが、やや気持ちだけが先走っている感がある。


「けれども教室へ這入つて見たら、鐘は鳴つても先生は来なかつた。其代り学生も出て来ない。次の時間も其通りであつた。三四郎は疳癪を起して教場を出た」

…この三四郎の「疳癪」は仕方がなかろう。彼は悪くないどころか正しい。他の教師や学生が不真面目であり間違っている。九州からはるばるやってきた三四郎の大学への期待は、開始早々くじかれてしまった。


「さうして念の為めに池の周囲(まはり)を二遍許り廻つて下宿へ帰つた」

…これも若い男なら当然の行為だ。また彼女に会えないかなというはかない期待。そうしてそれは、今回もやはり裏切られる。「念の為め」・「二遍許り廻つて」がカワイイ。

三四郎の学問も恋も両方うまくいくといいのだけれど……


ところで、この部分にひとつ疑義がある。三四郎は今、大学北側近くの本郷追分にある「国の寄宿舎」に下宿している。

「(広田が)「東京は何所かへ」と聞き出した。

「実は始めてで様子が善く分わからんのですが……差し当り国の寄宿舎へでも行かうかと思つてゐます」と云ふ」(1-7)

さらに、三四郎には同じ故郷出身で懇意にしている友人がいる。東京に一人で出て来た三四郎だが、彼は全くの一人ぽっちで情報源が何もないというわけではない。

「寧ろ昇之助が何とかしたと云ふ方の話が面白かつた。そこで廊下で熊本出の同級生を捕まへて、昇之助とは何だと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫だと教へて呉れた。夫から寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあると云ふ事迄云つて聞かせた上、今度の土曜に一所に行かうと誘つて呉れた」(3-3)

従って、いつから講義が始まるかなどの大学の情報・「暗黙の了解」は、「国の寄宿舎」の先輩や、同じ「熊本出の同級生を捕まへて」聞けばよい。それができないほどの引っ込み思案の彼ではないし、なにしろ「昇之助とは何だと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫だと教へて呉れ」、「寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあると云ふ事迄」詳しく教えてくれ、その上「今度の土曜に一所に行かうと誘つて呉れ」るような「同級生」がいるのだから。

従って、三四郎があくまでも頑固なほどに日程に従い、また、朝から授業に出るのは、彼の生真面目さ、純粋さ、田舎出の学生らしさを漱石は表したかったのだろう。 


期待していた大学はなかなか始まらない。偶然出会った女にも会えない。

三四郎の学生生活は、出だしからくじかれる。

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