夏目漱石「三四郎」本文と解説2-6 野々宮は蝉の羽根の様なリボンをぶら下げて「どうですか」と聞いた
◇本文
二人はベルツの銅像の前から枳殻寺の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、此銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱つた。表は大変賑やかである。電車がしきりなしに通る。
「君電車は煩くはないですか」と又聞かれた。三四郎は煩いより凄まじい位である。然したゞ「えゝ」と答へて置いた。すると野々宮君は「僕もうるさい」と云つた。然し一向煩い様にも見えなかつた。
「僕は車掌に教はらないと、一人で乗換が自由に出来ない。此二三年来無暗に殖えたのでね。便利になつて却つて困る。僕の学問と同じ事だ」と云つて笑つた。
学期の始まり際なので新らしい高等学校の帽子を被つた生徒が大分通る。野々宮君は愉快さうに、此連中を見てゐる。
「大分新らしいのが来ましたね」と云ふ。「若い人は活気があつて好い。時に君は幾何ですか」と聞いた。三四郎は宿帳へ書いた通りを答へた。すると、
「それぢや僕より七つ許り若い。七年もあると、人間は大抵の事が出来る。然し月日は立ち易いものでね。七年位 直ですよ」と云ふ。どつちが本当なんだか、三四郎には解らなかつた。
四っ角近くへ来ると左右に本屋と雑誌屋が沢山ある。そのうちの二三軒には人が黒山の様にたかつてゐる。さうして雑誌を読んでゐる。さうして買はずに行つて仕舞ふ。野々宮君は、
「みんな狡猾なあ」と云つて笑つてゐる。尤も当人も一寸と太陽を開けて見た。
四っ角へ出ると、左手の此方側に西洋小間物屋があつて、向側に日本小間物屋がある。其間を電車がぐるつと曲つて、非常な勢で通る。ベルがちん/\ちん/\云ふ。渡りにくい程雑沓する。野々宮君は、向ふの小間物屋を指さして、
「あすこで一寸と買物をしますからね」と云つて、ちりん/\と鳴る間を馳け抜けた。三四郎も食つ付いて、向ふへ渡つた。野々宮君は早速店へ這入つた。表に待つてゐた三四郎が、気が付いて見ると、店先の硝子張りの棚に櫛だの花簪だのが列べてある。三四郎は妙に思つた。野々宮君が何を買つてゐるのかしらと、不審を起して、店の中へ這入つて見ると、蝉の羽根の様なリボンをぶら下げて、
「どうですか」と聞かれた。三四郎は此時自分も何か買つて、鮎の御礼に三輪田の御光さんに送つてやらうかと思つた。けれども御光さんが、それを貰つて、鮎の御礼と思はずに、屹度何だかんだと手前勝手の理窟を附けるに違ないと考へたから已めにした。
それから真砂町で野々宮君に西洋料理の御馳走になつた。野々宮君の話では本郷で一番旨い家ださうだ。けれども三四郎にはたゞ西洋料理の味がする丈であつた。然し食べる事はみんな食べた。
西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分に帰る所を丁寧にもとの四っ角迄出て、左りへ折れた。下駄を買はうと思つて、下駄屋を覗き込んだら、白熱 瓦斯の下に、真白に塗り立てた娘が、石膏の化物の様に坐つてゐたので、急に厭になつて已めた。それからうちへ帰る間、大学の池の縁で逢つた女の、顔の色ばかり考へてゐた。――其色は薄く餅を焦がした様な狐色であつた。さうして肌理が非常に細かであつた。三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくつては駄目だと断定した。 (青空文庫より)
◇解説
「ベルツの銅像」…1907年建立なので、「三四郎」発表の前年に建てられたばかり。
医学部で内科と産婦人科を担当したErwin Bälz先生。
在職25年記念の祝賀会は小石川植物園で開催。
「枳殻寺」
…「麟祥院」(りんしょういん)。東京都文京区にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は、天沢山。通称、枳殻寺。寛永元年(1624)春日局(法号、麟祥院)の建立。春日局の墓がある。(デジタル大辞泉より)
枳殻寺は、東大の南隣にある。
初めて東京を訪れた者がまず感じることは、人の多さ、騒音、においだ。
「大変賑やかで」「電車がしきりなしに通る」ことに、三四郎は「凄まじい位である」と感じる。しかしそれをそのまま素直に答えるのもいかにも田舎者らしいと思われるのが嫌で、「たゞ「えゝ」と答へて置いた」。同郷の野々宮も、「僕もうるさい」と賛同する。しかしこの後の年齢の話題から考えると、彼はもう上京して7年経っている。だから「一向煩い様にも見えなかつた」。野々宮は上京したての三四郎の心情をくみ取り、彼に合わせた言葉をかけたのだ。自分もかつてはそうだったと思い出しながら。
続く乗り換えの話題も同じで、「僕は車掌に教はらないと、一人で乗換が自由に出来ない。此二三年来無暗に殖えたのでね」と言うことで、野々宮は東京に不慣れな三四郎に心情的に寄り添ってあげている。そうして、「便利になつて却つて困る。僕の学問と同じ事だ」と、冗談を言うのだ。「笑」うことで、コミュニケーションを深めようとする野々宮。彼の印象は、初めのぶっきらぼうさとは次第に異なってきただろう。理系だと思ったら、意外にいい奴だ。
「学期の始まり際なので新らしい高等学校の帽子を被つた生徒が大分通る。野々宮君は愉快さうに、此連中を見てゐる。「大分新らしいのが来ましたね」と云ふ。「若い人は活気があつて好い」
…年を取り変化した野々宮の哀感が隠れている。
「「時に君は幾何ですか」と聞いた。三四郎は宿帳へ書いた通りを答へた。すると、
「それぢや僕より七つ許り若い。七年もあると、人間は大抵の事が出来る。然し月日は立ち易いものでね。七年位 直ですよ」と云ふ。どつちが本当なんだか、三四郎には解らなかつた」
…「三四郎は宿帳を取り上げて、福岡県京都郡真崎村小川三四郎二十三年学生と正直に書いた」(1-3)とあったので、三四郎は23歳。
野々宮は「僕より七つ許り若い」とあるから30歳。そろそろ結婚を考えてもいい年ごろだ。
「太陽」…「当時の主力雑誌を次々と手がけ、日本における総合出版社としての地位を確立した博文館の代表的雑誌。1894年末、政治・経済関係の雑誌を廃刊し、日清戦争後の社会変化に対応した総合雑誌として創刊された「太陽」は当時のオピニオンリーダーとしての役割を担った。
創刊号は、論説、史伝、地理、小説、雑録、文苑、芸苑、家庭、政治、法律、文学、科学、美術、商業、農業、工業、社会、海外思想、輿論一斑、社交案内、新刊案内、海外彙報、英文の24欄。政治、経済、社会に関する評論に重点を置きながら、諸産業の知識技術普及、芸術や文学、また家庭生活等その対象は広範囲にわたった。執筆も各分野の著名人を網羅した。「中央公論」「改造」に先駆けた、まさに日本初の総合雑誌」。(広島大学図書館HPより)
野々宮は様々な事柄に関心があることが分かる。
「左手の此方側に西洋小間物屋があつて、向側に日本小間物屋がある」はとても象徴的だ。。日本は今、西洋文明に対峙している。「其間を電車がぐるつと曲つて、非常な勢で通る。ベルがちん/\ちん/\云ふ。渡りにくい程雑沓する」も同じで、西洋文明の摂取のため、汲々(きゅうきゅう)としている日本の様子。
「野々宮君は、向ふの」日本「小間物屋を指さして」、「ちりん/\と鳴る間を馳け抜けた」。いま、野々宮は、しばし古来の日本文化へと帰る。三四郎も先輩に「食つ付いて、向ふへ渡つた」。
「店先の硝子張りの棚に櫛だの花簪だのが列べてある」。「妙に思つた」三四郎が「不審を起して、店の中へ這入つて見ると」、野々宮は「蝉の羽根の様なリボンをぶら下げて、「どうですか」と」三四郎に聞く。「池の女」・美禰子へのプレゼントをわざわざ買うためにここにいる野々宮。それを三四郎は知らない。
「三四郎は此時自分も何か買つて、鮎の御礼に三輪田の御光さんに送つてやらうかと思つた。けれども御光さんが、それを貰つて、鮎の御礼と思はずに、屹度何だかんだと手前勝手の理窟を附けるに違ないと考へたから已めにした」。
…いま、三四郎の関係する身近な若い女性は、「三輪田の御光さん」しかいない。しかし彼は彼女を好いてはいない。だから、「鮎の御礼に」「送つてやらうかと思つた」が、「御光さんが」、「屹度何だかんだと手前勝手の理窟を附けるに違ないと考へたから已めにした」。愛するが故のプレゼント、求愛のしるしときっと勘違いされてしまうだろうということ。
「それから真砂町で野々宮君に西洋料理の御馳走になつた。野々宮君の話では本郷で一番旨い家ださうだ。けれども三四郎にはたゞ西洋料理の味がする丈であつた。然し食べる事はみんな食べた」
…まだ西洋文化に慣れない三四郎の様子。まだ食べたことが無いだろうと思い、自分が可能な限り奮発して、野々宮は三四郎を西洋料理屋に連れていってあげたのだ。よき先輩がいて、三四郎はさまざまな経験を積み上げていく。
「野々宮君に別れて」、「下駄を買はうと思つて、下駄屋を覗き込んだら、白熱 瓦斯の下に、真白に塗り立てた娘が、石膏の化物の様に坐つてゐたので、急に厭になつて已めた」。
…ずいぶんなものの言いようで、下駄屋の娘が不憫だが、これはこの後の、「それからうちへ帰る間、大学の池の縁で逢つた女の、顔の色ばかり考へてゐた」を言いたいがために登場させられたのだろう。美禰子の「色は薄く餅を焦がした様な狐色であつた。さうして肌理が非常に細かであつた。三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくつては駄目だと断定した」。三四郎の女性の好みは、肌の色が「薄く餅を焦がした様な狐色」で、「肌理が非常に細か」な人だ。
作品冒頭部にも、次のような表現があった。
「女とは京都からの相乗である。乗つた時から三四郎の眼に着ついた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移つて、段々京大坂へ近付いてくるうちに、女の色が次第に白くなるので何時の間にか故郷を遠退く様な憐れを感じてゐた。それで此女が車室に這入つて来た時は、何となく異性の味方を得た心持がした。此女の色は実際九州色であつた。
三輪田の御光さんと同じ色である。国を立つ間際迄は、御光さんは、うるさい女であつた。傍を離れるのが大いに難有かつた。けれども、斯うして見ると、御光さんの様なのも決して悪くはない」(1-1)。
三四郎の寄宿先は追分にある。大学北側のすぐ近所だ。
「追分」…「本郷追分 : 中山道と日光御成街道の分岐。現在の東大農学部正門前(東京都文京区、交差点名なし)で、近くに本郷追分停留所がある。ここ付近は現在、中山道は国道17号(本郷通り・通称なし)、日光御成街道の単独区間は東京都道455号本郷赤羽線(本郷通り)となっている」。(追分 - Wikipediaより)
女性のためにプレゼントを買う野々宮。彼は恥ずかしいだろうに、「蝉の羽根の様なリボンをぶら下げて、「どうですか」と」三四郎に聞く。研究室での真面目な姿とのギャップに、三四郎は驚いているだろう。「どうですか」と問われても答えようがない。上京して7年も経つと、後輩にこんなことを聞いても恥ずかしがらなくなるのか。そもそも女性へのプレゼントの買い物に、初対面の後輩を伴うというのは、現代でもあまりないだろう。ぶっきらぼうな理系男の豹変。良く言えば野々宮は、人が気にするような社会的体裁を超えた男なのだ。だから初対面の後輩を伴って好きな相手のプレゼントを買いに行っても、その目の前でリボンをひらひらさせても、気にならない。慎重なのか、誠実なのか、意外にぶっ飛んでいるのかがよくわからない人だ。野々宮の人物評を、見直す必要があるだろう。