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夏目漱石「三四郎」本文と解説2-5 野々宮君は手をポケットへ入れて何か探し出した。はみ出してゐる封筒の上に書いてある字は女の手蹟らしい。

◇本文

 三四郎は花から眼を放した。見ると野々宮君が石橋の向ふに長く立つてゐる。

「君まだ居たんですか」と云ふ。三四郎は答をする前に、立つてのそ/\歩いて行つた。石橋の上迄来て、

「えゝ」と云つた。何となく間が抜けてゐる。けれども野々宮君は、少しも驚ろかない。

「涼しいですか」と聞いた。三四郎は又

「えゝ」と云つた。

 野々宮君は少時(しばらく)池の水を眺めてゐたが、右の手を隠袋(ぽつけつと)へ入れて何か探し出した。隠袋から半分封筒が()み出してゐる。其上に書いてある字が女の手蹟らしい。野々宮君は思ふ物を探し(あて)なかつたと見えて、元の通りの手を出してぶらりと下げた。さうして、かう云つた。

「今日は少し装置が狂つたので晩の実験は()めだ。是から本郷の方を散歩して帰らうと思ふが、君どうです一所にあるきませんか」

 三四郎は快よく応じた。二人で坂を(あが)つて、岡の上へ出た。野々宮君はさつき女の立つてゐた(あたり)一寸(ちよつと)(とま)つて、向ふの青い木立の間から見える赤い建物と、崖の高い割に、水の落ちた池を一面に見渡して、

一寸(ちよつと)()い景色でせう。あの建築(ビルヂング)角度(アングル)の所丈が少し出てゐる。木の間から。ね。好いでせう。君気が付いてゐますか。あの建物は中々旨く出来てゐますよ。工科もよく出来てるが此方が旨いですね」

 三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚ろいた。実を云ふと自分には何方(どつち)が好いか丸で分からないのである。そこで今度は三四郎の方が、はあ、はあと云ひ出した。

「それから、此木と水の 感じ(エフフエクト)がね。――大したものぢやないが、何しろ東京の真中にあるんだから――静かでせう。かう云ふ所でないと学問をやるには不可(いけ)ませんね。近頃は東京があまり八釜間敷(やかましく)なり過ぎて困る。是が御殿」とあるき出しながら、左手の建物を指して見せる。「教授会を()る所です。うむなに、僕なんか出ないで好いのです。僕は穴倉生活を遣つてゐれば済むのです。近頃の学問は非常な勢で動いてゐるので、少し油断すると、すぐ取り残されて仕舞ふ。人が見ると穴倉のなかで冗談をしてゐる様だが、是でも遣つてゐる当人の頭の中は劇烈に働いてゐるんですよ。電車より余っ程烈しく働らいてゐるかも知れない。だから夏でも旅行をするのが惜しくつてね」と言ひながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光りが乏しい。

 青い空の静まり返つた、上皮(うはかは)に、白い薄雲が刷毛先(はけさき)で掻き払つた(あと)の様に、筋違ひに長く浮いてゐる。

「あれを知つてますか」と云ふ。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。

「あれは、みんな雪の粉ですよ。かうやつて下から見ると、(ちつ)とも動いて居ない。然し、あれで地上に起る颶風(ぐふう)以上の速力で動いてゐるんですよ。――君ラスキンを読みましたか」

 三四郎は憮然として読まないと答へた。野々宮君はたゞ

「さうですか」と云つた許りである。しばらくしてから、

「此空を写生したら面白いですね。――原口にでも話してやらうかしら」と云つた。三四郎は無論原口と云ふ画工の名前を知らなかつた。 (青空文庫より)


◇解説

前話で三四郎は、池の前で初めて美禰子と出会う。彼女は白い花を落として行ってしまう。今話はそれに続く場面。


「三四郎は花から眼を(はな)した。見ると野々宮君が石橋の向かふに長く立つてゐる」。

夕日に斜めに照らされる野々宮の影は長くなるのと同時に、もともと野々宮の「(せい)は頗る高い」(2-2)。


ここに野々宮がいる理由は、美禰子と会うためだ。約束をしていたか、彼が美禰子を追ってきたか。だからそこに三四郎がいたことが、野々宮にとっては少し驚きだった。「君まだ居たんですか」という野々宮のセリフは、実際に三四郎がまだ校地内にいたことと同時に、自分と美禰子の逢引をする現場に彼がいたことの驚きを表す。

そのあたりの事情を何も知らない「三四郎は答をする前に、立つてのそ/\歩いて行つた」。三四郎の「のそのそ」には、実際の行動の緩慢さと同時に、事情を察しない愚を表している。また美禰子がそこに戻ってくるかもしれないことなど、彼の心には想像もしない。間が抜けてゐる動作。


この推理が正しければ、野々宮との逢瀬の場面に偶然居合わせた三四郎を、美禰子は誘惑したことになる。悪い女だ。先走って言うと、このような女に最後まで翻弄され続ける野々宮と三四郎に、憐憫の情を禁じ得ない。彼女は結局ふたりのどちらも選ばず、全く別の男と結婚する。後に出てくる学友の与次郎に言わせれば、「女の方が万事上手だあね」(12-5)ということだ。


「答をする前に、立つてのそ/\歩」き、「石橋の上迄来て」やっと「えゝ」と答える三四郎を、野々宮は「少しも驚ろか」ず、ずっと待っていてあげる。後輩を見守るあたたかな視線が感じられる。美禰子の影が漂うのに。


「野々宮君は少時(しばらく)池の水を眺めてゐた」の場面で野々宮は、「姿が見えない美禰子は、もう帰ってしまったのか。彼女と話ができなかったことについてどうしよう。自分ももう帰ろうか」などと思案している。「が、」彼は急に思い出して「右の手を隠袋(ぽつけつと)へ入れて何か探し出した」。「隠袋から半分」「()み出してゐる」封筒の「上に書いてある」のは、美禰子の字だ。美禰子から野々宮に送られた手紙。

野々宮が探していた「思ふ物」が明示されないが、美禰子へのプレゼントだろう。大切なものなので、それがポケットの中にちゃんとあるかどうか確認したのだ。しかし「探し(あて)なかつたと見えて、元の通りの手を出してぶらりと下げた」。野々宮のスーツのポケットには、いろいろなものがしまい込まれているようだ。


「今日は少し装置が狂つたので晩の実験は()めだ。是から本郷の方を散歩して帰らうと思ふが、君どうです一所にあるきませんか」

…野々宮が「晩の実験は()め」にして三四郎を誘ったのは、「少し装置が狂つた」からではなく、美禰子との約束が反故になったからだ。


「二人で坂を(あが)つて、岡の上へ出た。野々宮君はさつき女の立つてゐた(あたり)一寸(ちよつと)(とま)つて」

…先ほど丘の上にいたのは、美禰子と看護婦だった。そこに今野々宮と三四郎が立っていることは象徴的だ。この後美禰子を中心として野々宮と三四郎との三者の関係が複雑に絡み合うことになる。またもしここに美禰子の気配を感じたとすれば、彼の嗅覚は大したものだ。愛する者を思う気持ちが、野々宮の感覚を鋭くさせる。だからこの後に続く野々宮の自然と人工物の鑑賞眼の鋭さは、彼にもともと備わっていたものに加え、美禰子への愛がその能力を高めていると言える。身なりにこだわらず実験に没頭するいかにも理系という雰囲気の野々宮に、美を美と認める観察力・鑑賞力や、それを叙景する能力が備わっていたことに対して三四郎が驚いたのも、無理のないことかもしれない。初対面の三四郎に、無遠慮ともいえる対応をしていた野々宮が実は、美や情趣を解する人だったのだ。


「向ふの青い木立の間から見える赤い建物と、崖の高い割に、水の落ちた池」の良さ。「あの建築(ビルヂング)角度(アングル)の所丈が少し出てゐる。木の間から」や「此木と水の 感じ(エフフエクト)」は、数学的鑑賞ともいえる。

これらは「東京の真中にある」にもかかわらず「静か」なところがすばらしい。「かう云ふ所でないと学問をやるには不可(いけ)ません」。


「左手の建物」は「教授会を()る所で」、「僕なんか出ないで好いのです。僕は穴倉生活を遣つてゐれば済むのです」。野々宮は、大学組織の中で偉くなることは望んでいないようだ。


「「近頃の学問は非常な勢で動いてゐるので、少し油断すると、すぐ取り残されて仕舞ふ。人が見ると穴倉のなかで冗談をしてゐる様だが、是でも遣つてゐる当人の頭の中は劇烈に働いてゐるんですよ。電車より余っ程烈しく働らいてゐるかも知れない。だから夏でも旅行をするのが惜しくつてね」と言ひながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光りが乏しい」。

…暗い「穴倉のなかで」ひとり研究に取り組む野々宮は、他者からは「冗談をしてゐる様」にしか見えないだろうが、そうではない。「近頃の学問は非常な勢で動いてゐるので、少し油断すると、すぐ取り残されて仕舞ふ」し、「遣つてゐる」自分の「頭の中は劇烈に働いてゐる」という自負。野々宮は、動かないようでいて、その「頭の中」は劇烈に動いている。学年変わりの夏休みに気晴らしの旅行にも行かない野々宮の「頭の中」は活発に活動しており、彼が「仰向いて」「見た」「大きな空」の向こうには、世界や学問の未来が映っているだろう。

上京途中の汽車の中で広田が言った、「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……日本より頭の中の方が広いでせう」(1-8)とは、そういうことだ。


「青い空の静まり返つた、上皮(うはかは)に、白い薄雲が刷毛先(はけさき)で掻き払つた(あと)の様に、筋違ひに長く浮いてゐる」

…この描写は、この時の三四郎の心情を表している。彼は静かな心で、自分の知らなかった世界を想像している。「青い空」は三四郎の青春やこの時の冷静な心をあらわし、その彼の心に、広田や野々宮が新鮮な思考・思想を注ぎ込んでくれた様子を、「上皮(うはかは)に、白い薄雲が刷毛先(はけさき)で掻き払つた(あと)の様に、筋違ひに長く浮いてゐる」と喩えた。


自然自体、自然と人工物のマッチング、ラスキン、原口と云ふ画工の名前、すべてを三四郎は「知らなかつた」。彼はまだ若く、教養を身に付けるのはこれからだ。


「ラスキン(John Ruskin)」1819~1900

英国の批評家。ターナーやラファエル前派を擁護する美術評論を著す一方、実践的立場から社会改革を論じた。著「近代画家論」「胡麻と百合」など。(デジタル大辞泉より)



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