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夏目漱石「三四郎」本文と解説13(最終話) ストレイシープ

◇本文

 原口さんの画は出来上がつた。丹青会は之を一室の正面に懸けた。さうして其前に長い腰掛を置いた。休む為でもある。画を見る為でもある。休み且つ味ふ為でもある。丹青会はかうして、此大作に彽徊する多くの観覧者に便利を与へた。特別の待遇である。画が特別の出来だからだと云ふ。或は人の目を()く題だからとも云ふ。少数のものは、あの女を描いたからだと云つた。会員の一二は全く大きいからだと弁解した。大きいには違ひない。幅五寸に余る金の縁を付けて見ると、見違へる様に大きくなつた。

 原口さんは開会の前日検分の為 一寸(ちよつと)来た。腰掛に腰を卸して、久しい間 烟管(パイプ)を啣へて眺めてゐた。やがて、ぬつと立つて、場内を一順丁寧に回つた。夫から又 (もと)の腰掛へ帰つて、第二の烟管を(ゆつく)り吹かした。

「森の女」の前には開会の当日から人が一杯 (たか)つた。折角の腰掛は無用の長物となつた。たゞ疲れたものが、画を見ない為に休んでゐた。それでも休みながら「森の女」の評をしてゐたものがある。

 美禰子は夫に連れられて二日目に来た。原口さんが案内をした。「森の女」の前へ出た時、原口さんは「()うです」と「二人」を見た。夫は「結構です」と云つて、眼鏡の奥からじつと(ひとみ)()らした。

「此団扇を(かざ)して立つた姿勢が()い。流石(さすが)専門家は違ひますね。()く茲所(こゝ)に気が付いたものだ。光線が顔へあたる具合が旨い。陰と日向の段落が確然(かつきり)して――顔丈でも非常に面白い変化がある」

「いや皆御当人の御好みだから。僕の手柄ぢやない」

「御蔭さまで」と美禰子が礼を述べた。

「私も、御蔭さまで」と今度は原口さんが礼を述べた。

 夫は細君の手柄だと聞いて()も嬉しさうである。三人のうちで一番鄭重な礼を述べたのは夫である。

 開会後第一の土曜の午過(ひるす)ぎには大勢一所に来た。――広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。四人は余所(よそ)後廻(あとまは)しにして、第一に「森の女」の部屋に這入つた。与次郎が「あれだ、あれだ」と云ふ。人が沢山集つてゐる。三四郎は入口で一寸(ちよつと)躊躇した。野々宮さんは超然として這入(はい)つた。

 大勢の(うしろ)から、覗き込んだ丈で、三四郎は退いた。腰掛に倚つてみんなを待ち合はしてゐた。

「素敵に大きなもの描いたな」と与次郎が云つた。

「佐々木に買つて貰ふ積りださうだ」と広田先生が云つた。

「僕より」と云ひ掛けて、見ると、三四郎は六づかしい顔をして腰掛にもたれてゐる。与次郎は黙つて仕舞つた。

「色の出し方が中々洒落てゐますね。寧ろ意気な画だ」と野々宮さんが評した。

「少し気が利き過ぎてゐる位だ。是ぢや鼓(つゞみ)の()の様にぽん/\する画は描けないと自白する筈だ」と広田先生が評した。

「何ですぽん/\する画と云ふのは」

「鼓の音の様に間が抜けてゐて、面白い画の事さ」

 二人は笑つた。二人は技巧の評ばかりする。与次郎が異を()てた。

「里見さんを描いちや、誰が描いたつて、間が抜けてる様には描けませんよ」

 野々宮さんは目録へ記号(しるし)を付ける為に、隠袋(かくし)へ手を入れて鉛筆を探した。鉛筆がなくつて、一枚の活版 (ずり)端書(はがき)が出て来た。見ると、美禰子の結婚披露の招待状であつた。披露はとうに済んだ。野々宮さんは広田先生と一所にフロツクコートで出席した。三四郎は帰京の当日此招待状を下宿の机の上に見た。時期は既に過ぎてゐた。

 野々宮さんは、招待状を引き千切(ちぎ)つて床の上に棄てた。やがて先生と共に(ほか)の画の評に取り掛る。与次郎丈が三四郎の傍へ来た。

「どうだ森の女は」

「森の女と云ふ題が悪い」

「ぢや、何とすれば()いんだ」

 三四郎は何とも答へなかつた。たゞ口の内で迷羊(ストレイシープ)迷羊(ストレイシープ)と繰り返した。 (青空文庫より)


◇解説

「原口さんの画は出来上がつた」。それは、美禰子の青春が「画」の中に完全に封印されたことを表す。


「丹青会は之を一室の正面に懸けた。さうして其前に長い腰掛を置いた」。この処置は、美禰子にとっても三四郎にとっても迷惑だったろう。美禰子にとってそれは青春の残像でしかなく、三四郎にとっては不如意な過去でしかない。ふたりとも、その絵を見ると、もっと素直にできなかったものか、どこで間違ってしまったのだろう、と思ってしまうからだ。「画」の中の美禰子が若く美しければ美しいほど、その反転として暗い影が、ふたりを包む。

しかし事情を知らぬ者にとっては、ただの美しい女の絵でしかないだろう。原口が丹精を込めて描いた美禰子の目の表情を読み取ることができるのは、美禰子と三四郎と野々宮の三人だけだ。

三人は、その絵の前で「休む」ことも、じっくり「画を見る」ことも、「休み且つ味ふ」こともしない。

丹青会が「此大作に」「特別の待遇」を与え、「彽徊する多くの観覧者に便利を与へた」ことに対し、人は「画が特別の出来だから」、「人の目を()く題だから」、「あの女を描いたから」、「大きいから」と、それぞれ評価する。語り手も、「大きいには違ひない。幅五寸に余る金の縁を付けて見ると、見違へる様に大きくなつた」と評する。

自由な新しい女として独立の思想を持ち青春時代を過ごした美禰子の最後の姿がこのように仰々しく飾られ衆目を集めることは、三四郎と野々宮にとっては何とも言いようのないことだったろう。美禰子自身も、このような「特別の待遇」を受けるとは、思っていなかったかもしれない。


「原口さんは開会の前日検分の為 一寸(ちよつと)来た」以降の部分から、原口はこの絵の出来に満足していることがわかる。美禰子の「眼」を描きえた達成感・成就感。


その絵の題は、「森の女」だった。以前、三四郎は美禰子を、「池の女」と呼んでいた。東大の池の端で出会った女だったからだ。これに対し「森の女」とは、池の端に座る三四郎から見た美禰子の様子を表す。彼女は森を背に立ち、絵と同じポーズをしていた。だからこの絵は、三四郎から見た美禰子ということになる。

三四郎から見た美禰子。美禰子は、三四郎に見られていた自分の姿を絵として残しておきたいと考えていたことがわかる。題名自体は原口が考えたものかもしれないが。


ところで、このポーズをしていた時のふたりはだいぶ離れた位置におり、美禰子はまだ三四郎に気づいていないように説明されていた。そのこととこの絵のポーズを考え合わせると、このポーズを取っていた時、彼女は既に三四郎を認識していたことになる(ことが分かる)。美禰子はまるで気づかぬ振りをして三四郎の方に近付いてきた。途中にあった分かれ道も、三四郎がいるから、その道を選択したのだ。彼女は実は積極的に橋を渡り、三四郎に接近した。岡の上のポーズも、三四郎に近付いてきたのも、すべては彼女の作為だった。

ふたりの出会いの場面は、美禰子の方から接近した。三四郎はそれを何もせずただボーッと眺めていただけだった。美禰子はこの時から既に三四郎に恋を仕掛けていたことになる。


「橋を渡る」という行為は象徴的だ。それは、川という障害・障壁をわざわざ越えて相手に近づくことを表すからだ。そこには積極性・作為性がある。


いま、別れの時に、出会いの場面の構図が絵に採用されたことも大きな意味を持つ。美しい青春時代の墓標としての絵。それが、三四郎から見られたあの日の自分の姿であるということは、美禰子にとって三四郎はこれまで特別な存在だったからだ。都市に住む彼女がそれまで出会ったことのなかった地方出身の純朴な青年。野々宮と違って、自分の「詩」を理解してくれる存在。

美禰子は出会いの場面でも、別れの場面でも、主体的に演出・行動している。ふたりの出会いと別れは、美禰子によって決定された。


「不図眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立つてゐる。女のすぐ下が池で、池の向ふ側が高い崖の木立(こだち)で、其後ろが派出な赤錬瓦のゴシツク風の建築である。さうして落ちかゝつた日が、凡ての向ふから横に光を(とほ)してくる。女は此夕日に向いて立つてゐた。三四郎のしやがんでゐる低い(かげ)から見ると岡の上は大変明るい。女の一人はまぼしいと見えて、団扇を額の所に(かざ)してゐる。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色は鮮やかに分かつた。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いてゐる事も分かつた。もう一人は真白である。是は団扇も何も持つて居ない。只額に少し皺を寄せて、対岸(むかふぎし)から生ひ(かぶ)さりさうに、高く池の(おもて)に枝を伸ばした古木の奥を眺めてゐた。団扇を持つた女は少し前へ出てゐる。白い方は一歩(ひとあし)土堤(どて)(ふち)から退()がつてゐる。三四郎が見ると、二人の姿が筋違ひに見える。

 此時三四郎の受けた感じは只奇麗な色彩だと云ふ事であつた。けれども田舎者だから、此色彩がどういふ風に奇麗なのだか、口にも云へず、筆にも書けない。たゞ白い方が看護婦だと思つた許りである。

 三四郎は又 見惚(みとれ)てゐた。すると白い方が動き出した。用事のある様な動き方ではなかつた。自分の足が何時(いつ)の間にか動いたといふ風であつた。見ると団扇を持つた女も何時の間にか又動いてゐる。二人は申し合せた様に用のない歩き方をして、坂を下りて来る。三四郎は矢っ張り見てゐた。

 坂の下に石橋がある。渡らなければ真直に理科大学の方へ出る。渡れば水際(みづぎは)を伝つて此方(こつち)へ来る。二人は石橋を渡つた。

 団扇はもう(かざ)して居ない。左りの手に白い小さな花を持つて、それを()ぎながら来る。嗅ぎながら、鼻の下に(あて)がつた花を見ながら、歩くので、眼は伏せてゐる。それで三四郎から一間許(いつけんばかり)の所へ来てひよいと留つた。

「是は何でせう」と云つて、仰向(あほむ)いた。頭の上には大きな椎の木が、日の目の洩らない程厚い葉を茂らして、丸い形に、水際は迄張り出してゐた。

「是れは椎」と看護婦が云つた。丸で子供に物を教へる様であつた。

「さう。実は()つてゐないの」と云ひながら、仰向いた顔を元へ戻す、其拍子に三四郎を一目見た。三四郎は慥かに女の黒眼の動く刹那を意識した。其時色彩の感じは(ことごと)く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。其或物は汽車の女に「あなたは度胸のない方ですね」と云はれた時の感じと何所(どこ)か似通つてゐる。三四郎は恐ろしくなつた。」(2-4)


「挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へ来て、向を見ると、長い廊下の(はづれ)が四角に切れて、ぱつと明るく、(おもて)の緑が映る上がり口に、池の女が立つてゐる。はつと驚ろいた三四郎の足は、早速(さっそく)の歩調に狂ひが出来た。其時透明な空気の画布(カンバス)の中に暗く描かれた女の影は一歩(ひとあし)前へ動いた。三四郎も誘はれた様に前へ動いた。二人は一筋道(ひとすぢみち)の廊下の何所(どこ)かで()れ違はねばならぬ運命を以て互ひに近付いて来た。すると女が振り返つた。明るい(おもて)の空気のなかには、初秋(はつあき)の緑が浮いてゐる(ばかり)である。振り返つた女の眼に応じて、四角のなかに、現れたものもなければ、これを待ち受けてゐたものもない。三四郎は其間に女の姿勢と服装を頭のなかへ入れた。」(3-13)


「そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘(ベル)が鳴り出した。三四郎は号鐘(ベル)を聞きながら九時が来たんだらうと考へた。何もしないでゐても悪いから、桜の枯葉でも掃かうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと()いた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた。」(4-9)


「二三日前三四郎は美学の教師からグルーズの画を見せてもらつた。其時美学の教師が、此人の()いた女の肖像は(ことごと)くヴォラプチユアスな表情に富んでゐると説明した。ヴォラプチユアス! 池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴へ方である。甘いものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴へ方である。甘いと云はんよりは苦痛である。卑しく媚びるのとは無論違ふ。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付きである。」(4-10)


『三四郎』において、「池の女」は3例、「森の女」は6例(すべて今回の13章に)出てくる。


以上の引用例を見ると、いずれも一枚の絵になるとても印象的なシーンだ。

美禰子の(後背の)イメージは、緑、植物、樹木で、彼女はそれを背に、またはその下に立っている。「緑」は一般的に、自然や心の安らぎを感じさせるものだが、美禰子は違う。緑を背景として立つ彼女の眼は、原口も見抜いたように独特だ。「「さう。実は()つてゐないの」と云ひながら、仰向いた顔を元へ戻」した「拍子に三四郎を一目見た」「其時色彩の感じは(ことごと)く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。其或物は汽車の女に「あなたは度胸のない方ですね」と云はれた時の感じと何所(どこ)か似通つてゐる」。緑を背景にした美禰子のまなざしを受けた瞬間に色彩は消え、恐怖まで感じる三四郎。「何とも云へぬ或物」は、「一筋道(ひとすぢみち)の廊下の何所(どこ)かで()れ違はねばならぬ運命」を三四郎に感じさせる。

三四郎の心を強くとらえる美禰子の「ヴォラプチユアス」の説明は、先に示した4-10に詳しい。彼女の「眼付」は、「艶なるあるものを訴へて」おり、「官能の骨を透して髄に徹する訴へ方」だ。「見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付き」。メデューサを前に人は石となるが、美禰子の目は、「烈しい刺激」・「苦痛」を三四郎に負わせる。

美禰子の目・魅力に人はひきつけられ、やがてその拘束から逃れられなくなる。「下手に私に手を出すと、ひどい目に合うわよ。それでもいいなら、覚悟して近づくことね」。美禰子の目はそう訴えている。


もしこれを描きえたならば、原口の才能はたいしたものだ。展覧会は盛会のようだが、そのうちの何人がこの絵・目に込められたものを理解できただろう。


危険な匂いのする異性は、とても魅力的だ。三四郎も美禰子の目に捕らわれた。

恋に慣れた美禰子は、恋のレッスンを三四郎に仕掛ける。自分のしぐさ、目の動きから、その心情を慮らせ、言葉の言外の意味を推察させる。親しくなった後の彼女は、むしろ素直に自分の思い・愛を伝えている。だから美禰子は、よくある男を手玉に取るタイプではない。むしろ三四郎に恋の手ほどきをしていたと言ってもいい。それは、自分と三四郎との愛を成就させるためだ。

だから、巷間よく言われる美禰子の謎はそこにあるのではなく、最終的に彼女が結婚という選択肢を選んだ理由の方だ。自由で独立の思想を持っていたはずの美禰子が、それを妨げられ、結局家庭に入らざるを得なかった日本近代社会への疑念が、読者のわだかまりとなって残る。森鷗外『舞姫』の太田豊太郎も、美禰子も、自由と独立という(近代的)自我が芽生えかけたにもかかわらず結局挫折するという物語。

「経済的自立を果たせない者は、自由も独立も手にすることはできない」という月並みな結論になってしまうのか。


現代社会も同じなのだが、自由や独立は男性の方が果たしやすい。女性はその環境がまだ整っていない。自分よりも未熟な三四郎の方が、それらを手にする可能性を持っていることに対する羨望・妬みが、美禰子にはあるだろう。彼女はそれに無自覚かもしれないが。


美禰子は三四郎にちゃんと愛を表現し伝えている。だからふたりの恋が成就しなかったのは、三四郎の側に責任がある。彼は青春の入り口に立ったばかりで、まだ未熟だった。青春の出口に立つ美禰子とのすれ違いは必然だったとも言える。

三四郎は美禰子の前でとまどう。相手のアクションにどう対処すればいいかがとっさには判断できず、また行動できない。恋も人生も、経験が不足している。

そこに美禰子は物足らなさを感じている。「詩」は理解するようだが、言葉も出てこず、積極的行動もできない。これでは、美禰子でなくても、「つまらない人」と爪弾きされてしまうだろう。恋のレベルと成長の度合いが違うふたり。姉と弟の間に恋愛は成立しない。


「夫に連れられて二日目に来た」美禰子。この後にも述べられるが、ふたりは既に結婚済みだ。

「案内をした」原口に、「森の女」の前で「()うです」と尋ねられる「二人」。青空文庫ではここにかぎかっこが付されている。「二人」は既に夫婦となり、「二人」はひとつであることを強調した表現だ。(角川文庫では、かぎかっこは付されていない)


「夫は「結構です」と云つて、眼鏡の奥からじつと(ひとみ)()らした」。

彼には美禰子の瞳の奥にあるものが見えていない。彼女の表面的な美だけに引かれている様子がうかがわれる。美禰子が本性をあらわしたら、「二人」の夫婦生活は危うい。彼女がやがて「夫」に向かって自由と独立を主張することになる未来もありえる。


「此団扇を(かざ)して立つた姿勢が()い。流石(さすが)専門家は違ひますね。()く茲所(こゝ)に気が付いたものだ。光線が顔へあたる具合が旨い。陰と日向の段落が確然(かつきり)して――顔丈でも非常に面白い変化がある」。

「夫」は絵の構図に興味を示し称賛する。しかし彼は知らない。その構図の美禰子の美に気づいたのは、三四郎が先であることを。そうして美禰子自身、その姿に見とれる三四郎によって、自分の美を認識したことを。あの時彼女は確かに自分の姿を三四郎に見せている。彼女は三四郎の視線を認めていた。つまり、「茲所(こゝ)に気が付いた」のは、三四郎であり美禰子だった。

「夫」は絵の外観だけでその評価をしようとする。しかもその批評の文言が、いかにも素人のそれだ。素人が一生懸命絵の批評をしているようにしか見えない。

彼にはそこに描かれた真の意味までを読み取ることはできない。それは、この「夫」の浅さを表す。(ホントにこの人でいいの? 美禰子さん)

三四郎と美禰子だけが共有するあの時の記憶。この絵の前では「夫」だけが蚊帳の外だった。


「いや皆御当人の御好みだから。僕の手柄ぢやない」。

妻への少しの敬意を「御」で示し、「当人」と客観的に表現する。「御当人」という言い方がやや鼻につく。「御好み」もそうだ。

また、確かにあなたは何の「手柄」も立てていない。


初めて登場した時は颯爽としていてカッコよかった第三の男だが、その評価は今がた落ちだ。カッコつけてるだけの底の浅い男。


「御蔭さまで」と美禰子が礼を述べた。

「私も、御蔭さまで」と今度は原口さんが礼を述べた」。

いかにも上流階級の社交辞令のやり取りで鼻につく。美禰子も演技をしているようにしか見えない。


「夫は細君の手柄だと聞いて()も嬉しさうである。三人のうちで一番鄭重な礼を述べたのは夫である」。

夫の浅薄さがさらに強調される。

絵に込められた意味を知る者と知らぬ者との「段落」(落差)。当然ながら漱石はこれを意図・意識して書いているので、ますます美禰子夫婦の将来の波乱が予想される。(別れますね)


「開会後第一の土曜の午過(ひるす)ぎには大勢一所に来た」。

この表現は、「広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と」が「大勢」で一緒に「来た」ことを表す。


「四人は余所(よそ)後廻(あとまは)しにして、第一に「森の女」の部屋に這入つた」。

「四人」はそれぞれ別の思いを抱いて部屋に入る様子がドラマチックだ。

与次郎は、「あれだ、あれだ」と気楽な物見遊山な様子。一般客も、絵の鑑賞のために「沢山集つてゐる」。


それに対し、「三四郎は入口で一寸(ちよつと)躊躇した」。美禰子とのたくさんの記憶と思いが、彼の足を止める。また、そこには何が描かれているのだろうという不安。


「野々宮さんは超然として這入(はい)つた」。

この後に述べられる、結婚式の招待状を破り捨てる様子からも分かるが、彼は美禰子を完全に見限っている。展覧会にも来たくもなかっただろう。彼がここにいるのはお付き合いのためだけだ。


ところで、この観覧者の中によし子だけがいないことが気になる。いつもの彼女、いつものこのグループならば、当然いるべき場面だからだ。だからよし子の不在は、彼女がもう既に別の男のもとにいる可能性を示唆する。身籠りをイメージするのは早計か。もしこの妄想が当たっていたとしたら、美禰子の突然の結婚よりも衝撃的だ。清純派で通る人の「母性」(三四郎は彼女に母性を感じていた)が真に発揮され、本物の「母」になったのか。


「大勢の(うしろ)から、覗き込んだ丈で、三四郎は退いた。腰掛に倚つてみんなを待ち合はしてゐた」。

三四郎にはこの絵をまともに見る勇気・元気はない。抱える思いが重すぎる。「みんな」と三四郎の落差が強調されている。

それは次の発言に象徴的だ。

佐々木「素敵に大きなもの描いたな」…大きさでしか評価できない他者・愚者。

広田「佐々木に買つて貰ふ積りださうだ」…愚かな佐々木への揶揄。


「「僕より」と云ひ」三四郎に戯れかけた佐々木だったが、「見ると、三四郎は六づかしい顔をして腰掛にもたれてゐる」。理由は分からないが、友人の意気消沈する姿に、さすがの佐々木も何かを感じ、「黙つて仕舞つた」。彼は三四郎の美禰子への好意を知っている。愛する人の結婚に落胆していると思う程度の感受性は、佐々木にもある。


「色の出し方が中々洒落てゐますね。寧ろ意気な画だ」。

野々宮にとって美禰子は今、ただの他人だ。かつて愛した人の絵を見て、「中々洒落てゐますね」とか「意気な画だ」と評することができるのは、彼女から完全に心が離れたことを表す。切り替えの早さは、理系の人らしいが、この様子には、少しの強がりもあるだろう。彼は最後に美禰子への怒りを小さく爆発させる。結婚式の招待状を破り捨てる。


「少し気が利き過ぎてゐる位だ。是ぢや鼓(つゞみ)の()の様にぽん/\する画は描けないと自白する筈だ」。

広田はこの絵に何かを感じている。しかし彼はそれを素直に表現することはしない。「ぽん/\する画」とは、彼一流の表現。


「笑」いながら話す広田と野々宮に対し、三四郎は、「二人は技巧の評ばかりする」と評する。絵の上っ面だけを見ており、その絵が表すもの・真実にまったく触れないことへの批判。


与次郎が珍しく「異を()てた」。

「里見さんを描いちや、誰が描いたつて、間が抜けてる様には描けませんよ」。

佐々木は美禰子の鋭さをいつも感じていた。


「野々宮さんは目録へ記号(しるし)を付ける為に、隠袋(かくし)へ手を入れて鉛筆を探した。鉛筆がなくつて、一枚の活版 (ずり)端書(はがき)が出て来た。見ると、美禰子の結婚披露の招待状であつた。披露はとうに済んだ。野々宮さんは広田先生と一所にフロツクコートで出席した。三四郎は帰京の当日此招待状を下宿の机の上に見た。時期は既に過ぎてゐた。

 野々宮さんは、招待状を引き千切(ちぎ)つて床の上に棄てた」。

この場面の説明には、たくさんの情報が含まれている。

・野々宮は「目録へ」何の「記号(しるし)を付け」ようとしていたのか?

美禰子の裏切りへの怒りを持つ彼が、唾棄すべき美禰子像を前に目録に記そうとした「記号」。大きな✕印以外に考えられない。まさか鑑賞済みのチェックの記入ではないだろう。

・かつて野々宮のポケットに入っていたのは、美禰子からの手紙だった。今彼は、そこから彼女の結婚式の招待状を取り出し、引きちぎって捨てる。その落差が著しい。


○野々宮の「隠袋(かくし)」(ポケット)


「野々宮君は少時(しばらく)池の水を眺めてゐたが、右の手を隠袋(ぽつけつと)へ入れて何か探し出した。隠袋から半分封筒が()み出してゐる。其上に書いてある字が女の手蹟らしい。野々宮君は思ふ物を探し(あて)なかつたと見えて、元の通りの手を出してぶらりと下げた。さうして、かう云つた。

「今日は少し装置が狂つたので晩の実験は()めだ。是から本郷の方を散歩して帰らうと思ふが、君どうです一所にあるきませんか」」(2-5)


この手紙は美禰子から送られたものだということは、次の部分からわかる。


「三四郎はよし子に対する敬愛の念を抱いて下宿へ帰つた。端書が来てゐる。「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうち迄 ()らつしやい。美禰子」

 其字が、野々宮さんの隠袋(ぽつけつ)とから半分食()み出してゐた封筒の上書(うはがき)に似てゐるので、三四郎は何遍も読み直して見た。」(5-3)


また、この場面の野々宮は、まるでドラマの登場人物・俳優のようにふるまう。だからそこに演技の匂いがする。彼は演じることによって、自分をドラマの登場人物かのように客体化し、他人の目から自分を見るようにして、美禰子との記憶や美禰子への思いを完全に絶ち切ろうとする。

現実にはもちろん、結婚式の招待状を展覧会の会場で破り捨て、そのままにすることはない。だから野々宮のこの行為は、とても演劇的に感じられるのだ。


さらに言うと、野々宮は美禰子の目の前で招待状を破り捨てることもできた。しかし彼は、それが出来ない男なのだ。美禰子不在の時に、広田、佐々木、三四郎の前で破り捨てても何の意味も持たない。他者にとっては、嫌みな行為としか感じられない。「それをここでみんなの前で破り捨てられても困る」としか思えない。


展覧会に、野々宮はフロックコートを着て来ている。同じコートを来て参加した美禰子の結婚式。美禰子から送られた招待状が、ポケットに入れられたままになっている。結婚式参加後、ハガキはそのまま忘れられていた。


・「披露はとうに済んだ」。

絵が本格的に描き初められてからまだ1ヶ月ほどしか経っておらず、結婚式は絵の完成・展覧会よりも前に「とうに済んだ」ことから、美禰子の結婚は短期間で決定され、また式もすぐに挙行されたことが分かる。まさに急転直下の結婚だった。美禰子の心情の変化がどのようだったのかが知りたいところだが、この物語ではそれは明かされない。


・「三四郎は帰京の当日此招待状を下宿の机の上に見た。時期は既に過ぎてゐた」。

これは、美禰子が三四郎へ招待状を出しあぐね、そのために三四郎のもとへの到着が遅れたことを表す。招待状を出すことの躊躇・ためらいは、三四郎への罪悪感を示す。

事が済んでから受け取っても何の役にも立たない虚しいハガキ。

この場面をリアルで考えると、皆から祝福されての結婚であったならば、親しい友人には手渡しで招待状を渡すこともあるだろう。しかしそれはなされなかった。(もちろん、郵送が正式な形だろうが) 。

また、広田グループの親しい関係からすると、結婚のような大きな出来事の情報がグループ内で共有されなかったことは不審だ。つまり、この設定には無理がある。

結婚式の招待状を事後に送りつけるやり方は、嫌がらせ以外のなにものでもない。悪意を持った嫌みと、相手には受け取られるだろう。

「一応、取りあえず、招待状を送っときました。あら、式の前に届かなかったの? それは変ね。ちゃんと早めに届くように送ったのになあ。それで式には不参加だったのね。来てくれると思って待ってたんだけど、残念だったわ。きっと郵便事情が悪かったのね。ごめんね。(私が悪いんじゃないけどさ)」


・「帰京の当日」。

前話で母から「いつ帰る」という電報が届いていたことが述べられていた。

「下宿へ帰つたら母からの電報が来てゐた。開けて見ると、何時(いつ)立つとある」(12-7)。

また、以前こんな手紙が母から届いていた。

「此冬休みには帰つて来いと、丸で熊本にゐた当時と同様な命令がある。実は熊本にゐた時分にこんな事があつた。学校が休みになるか、ならないのに、帰れと云ふ電報が掛かつた。母の病気に違ないと思ひ込んで、驚ろいて飛んで帰ると、母の方では此方(こつち)(へん)がなくつて、まあ結構だつたと云はぬ許に喜んでゐる。訳を聞くと、何時(いつ)迄待つてゐても帰らないから、御稲荷様へ伺ひを立てたら、こりや、もう熊本を立つてゐるといふ御託宣であつたので、途中で()うかしはせぬだらうかと非常に心配してゐたのだと云ふ。三四郎は其当時を思ひ出して、今度も(また)伺ひを立てられる事かと思つた。然し手紙には御稲荷様の事は書いてない。たゞ三輪田の御光さんも待つてゐると割註見た様なものが付いてゐる。御光さんは豊津の女学校をやめて、家へ帰つたさうだ。又御光さんに縫つて貰つた綿入が小包で来るさうだ」。(11-4)

母は息子を東京に出したが、やはり心配なのだ。「東京にゐる御前なぞは、本当によく気を付けなくては不可(いけな)いと云ふ訓戒が付いてゐる。」(11-4)

母からの連絡は手紙であるのが普通なので、「電報」は特異だ。何か良からぬこと・非常事態が発生したことをうかがわせる。三四郎も以前それを疑った。しかし今回も、早く息子に会いたいという思いなのだろう。

ただ、今回の帰省では、一波乱ありそうだ。

母は三輪田のお光さんとの婚約を企んでいる。美禰子の結婚の成立により、三四郎は彼女を諦めざるを得ず、傷心と自暴自棄からお光さんとの婚約を了承しないとも限らない。母にとってはその手続きのための息子の帰省ということ。三輪田のお光さんは、豊津の女学校をやめて家に帰ってきている。三四郎との結婚に備えるためだ。


「与次郎丈が三四郎の傍へ来た。

「どうだ森の女は」」。

ふだんは愚な振りをしている佐々木だが、実はすべてを推察していたように思われ、少しゾクッとしたシーン。もしそうだとすると、この物語一番の演技者は、佐々木ということになる。彼「丈が」三四郎の気持ちを理解していたのだ。

佐々木はすべてを知っているからこそ、「どうだ森の女は」と、その題と絵の意味についての質問をした。ふだんの彼は、絵の真実に迫る質問はしない。広田と野々宮は絵の外観についてしか話題にしなかった。


三四郎は「傍へ来た」(寄り添ってくれた)佐々木 (丈)に、素直に答える。

「森の女と云ふ題が悪い」。絵の題として不適切だ。


「「ぢや、何とすれば()いんだ」

 三四郎は何とも答へなかつた。たゞ口の内で迷羊(ストレイシープ)迷羊(ストレイシープ)と繰り返した」。

何も知らぬ者には、ただ「森」に立つ美しい女の絵としか鑑賞できないだろう。しかしその絵は、美禰子の美を表したものではない。人生に迷う「迷羊(ストレイシープ)」として青春時代の彼女の姿を描き封印したものだ。


モデルとしてキャンバスの向こうに立つ美禰子の胸には、さまざまな男性たちとの交流がよみがえる。

野々宮の好意を受け入れかけたが、科学の人と「詩」の自分との未来は心に描けなかった。

純朴な三四郎へ好意を抱いたが、これもすれ違いで終わった。

第三の男との結婚を短期間で決断したが、微妙なズレを感じ始めている。


不如意だった青春時代を一枚の絵に封印し、第三の男との人生を選択した自分。その決断は正しかったのかへの疑念。それらが彼女の目、彼女の姿として、絵に封じ込められた。


余情・余韻が深く残る終幕。私たちは漱石から、「あなたもストレイシープにならないように気をつけなさい」と言われているように感じるだろう。


「ストレイシープ」であるのは、三四郎も同じだ。知識と教養を身につけ、さまざまな人々と交流し、経験を重ねることで、第三の男に負けない一人前の大人になることが、彼には期待される。

ところが『三四郎』の続編ともいえる『それから』では、親の財産で気ままに暮らす主人公が、かつての愛をやり直すために友人の妻を奪い取り、やがて破滅に向かうという物語が描かれる。先ほどの期待・予想と『それから』との落差に呆然とするほどだ。


物語の設定は異なるが、それを無視して『それから』を単純化すると、「第三の男に奪われた美禰子を三四郎が取り戻す」物語ということになる。その実現可能性はどれほどだろう。

三四郎がより人間的に成熟したら、美禰子は彼を再び愛するだろうか?

美禰子を失った三四郎は、やがて彼女を取り戻すという行動に出るだろうか?

先にも述べたとおり、第三の男は月並みな一般人だ。絵の外観だけでその評価をしようとし、しかも批評がいかにも素人で教養が感じられない。そこに描かれた真の意味まで読み取ることはできない「夫」の浅さ。家に入った美禰子が、どこまでこれに耐えられるだろう。美禰子と「夫」との不調和は、既に兆している。


学ぶことで自信を身につけ、人として成長し、社会で持てる力を発揮し、美禰子とは別の人との人生を歩む。三四郎にとってはその方が幸せだろう。

友人の妻・三千代を奪うことで、『それから』の主人公・長井代助は「赤」・狂気・破滅へと向かうことになる。「それから」の三四郎にはそのような人生を歩いてほしくない。


『三四郎』は、愛する人を失った深い諦念で終わる。そこから再び三四郎が行動を起こそうと思ったときに、彼がすべきことは何なのかが問われている。


真に愛する人を他者から奪うことは悪・罪であるならば、ではどうすればいいのか。

心に深く思うこと。

心に深く愛し続け、相手の幸せを祈ること。

実際に抱きしめることが愛ではない。

心で抱きしめればいい。



これまで『三四郎』にお付き合い下さり、ありがとうございました。

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