夏目漱石「三四郎」本文と解説12-7 美禰子「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」
◇本文
三四郎は其日から四日程床を離れなかつた。五日目に怖々(こわ/″\)ながら湯に入つて、鏡を見た。亡者の相がある。思ひ切つて床屋へ行つた。其の明くる日は日曜である。
朝食後、襯衣を重ねて、外套を着て、寒くない様にして、美禰子の家へ行つた。玄関によし子が立つて、今 沓脱へ降りやうとしてゐる。今兄の所へ行く所だと云ふ。美禰子はゐない。三四郎は一所に表へ出た。
「もう悉皆好いんですか」「難有う。もう癒りました。――里見さんは何所へ行つたんですか」
「兄さん?」
「いゝえ、美禰子さんです」
「美禰子さんは会堂」
美禰子の会堂へ行く事は始めて聞いた。何処の会堂か教へて貰つて、三四郎はよし子に別れた。横町を三つ程曲がると、すぐ前へ出た。三四郎は全く耶蘇教に縁のない男である。会堂の中は覗いて見た事もない。前へ立つて、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往つたり来たりした。ある時は寄り掛かつて見た。三四郎は兎も角もして、美禰子の出てくるのを待つ積りである。
やがて唱歌の声が聞こへた。讃美歌といふものだらうと考へた。締切つた高い窓のうちの出来事である。音量から察すると余程の人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌は歇んだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。
かつて美禰子と一所に秋の空を見た事もあつた。所は広田先生の二階であつた。田端の小川の縁に坐つた事もあつた。其時も一人ではなかつた。迷羊。迷羊。雲が羊の形をしてゐる。
忽然として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世へ帰る。美禰子は終りから四番目であつた。縞の吾妻コートを着て、俯向いて、上がり口の階段を降りて来た。寒いと見えて、肩を窄て、両手を前で重ねて、出来る丈外界との交渉を少くしてゐる。美禰子は此凡てに揚がらざる態度を門際迄持続した。其時、往来の忙がしさに、始めて気が付いた様に顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の眼に映つた。二人は説教の掲示のある所で、互に近寄つた。
「何うなすつて」
「今御宅迄一寸出た所です」
「さう、ぢや入らつしやい」
女は半ば歩を回らしかけた。相変らず低い下駄を穿いてゐる。男はわざと会堂の垣に身を寄せた。
「此所で御目に掛かればそれで好い。先刻から、あなたの出て来るのを待つてゐた」
「御這入りになれば好いのに。寒かつたでせう」
「寒かつた」
「御風邪はもう好いの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色が好くない様ね」
男は返事をしずに、外套の隠袋から半紙に包んだものを出した。
「拝借した金です。永々(なが/\)難有う。返さう/\と思つて、つい遅くなつた」
美禰子は一寸三四郎の顔を見たが、其儘逆らはずに、紙包を受け取つた。然し手に持つたなり、納はずに眺めてゐる。三四郎もそれを眺めてゐる。言葉が少しの間切れた。やがて、美禰子が云つた。
「あなた、御不自由ぢや無くつて」
「いゝえ、此間から其積で国から取り寄せて置いたのだから、何うか取つて下さい」
「さう。ぢや頂いて置きませう」
女は紙包を懐へ入れた。其手を吾妻コートから出した時、白い手帛を持つてゐた。鼻の所へ宛てゝ、三四郎を見てゐる。手帛を嗅ぐ様子でもある。やがて、其手を不意に延ばした。手帛が三四郎の顔の前へ来た。鋭い香がぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに云つた。三四郎は思はず顔を後へ引いた。ヘリオトロープの壜。四丁目の夕暮れ。迷羊。迷羊。空には高い日が明らかに懸かる。
「結婚なさるさうですね」
美禰子は白い手帛を袂へ落した。
「御存じなの」と云ひながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、却つて遠くにゐるのを気遣い過ぎた眼付である。其癖眉丈は明確落ちついてゐる。三四郎の舌が上顎へ密着いて仕舞つた。
女はやゝしばらく三四郎を眺めた後、聞兼る程の嘆息をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加へて、云つた。
「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」
聞き取れない位な声であつた。それを三四郎は明らかに聞き取つた。三四郎と美禰子は斯様にして分かれた。下宿へ帰つたら母からの電報が来てゐた。開けて見ると、何時立つとある。 (青空文庫より)
◇解説
今話は、短い文で畳み掛けるように次々に述べ、それにより冷たく乾いた印象を持たせるのが特徴。これは、美禰子に対して冷静かつ着々と事を進めようとする三四郎の様子を表す。『三四郎』で最も有名なシーン。
主人公の男が病に伏している間に、その人の運命に関わる重要な事柄が進行してしまう物語の型については、前回説明した。
三四郎はインフルエンザにより5日間身動きできない状態にあり、その間に美禰子の結婚へ向けての準備は、どんどん進んだだろう。もう手遅れということ。
なお、ドラマツルギー(作劇法)としては、三四郎がインフルエンザに沈まず、美禰子の結婚話を聞いた瞬間に彼女のもとに走り、愛を告白し、美禰子を取り戻そうとするという展開も可能だ。美禰子の婚約を契機としての三四郎の覚醒と積極性への転換という物語。たとえば、愛する人の結婚式に「ちょっと待った!!」と飛び込んでくるシーンが、安いドラマにある。
この物語はそうならず、すべては既定のこととして進む。三四郎がそのようなキャラクターではなく、また、愛しあうふたりが結局は結ばれないという悲劇にしたかったのだろう。
いずれにせよ、三四郎が「四日程床を離れ」られず、「五日目に怖々(こわ/″\)ながら湯に入」るような状態であったことは、時間の経過により、ふたりの別れを決定的なものにする。もう後戻りできないという設定は、諦めが必然となる。苦悩や後悔だけが、苦く後に残る。
「其の明くる日は日曜である」。三四郎が美禰子を訪ねるのを日曜日に設定したのは、彼女を教会に礼拝させるためだ。
「美禰子の家へ行」くと、「玄関によし子が立つて、今 沓脱へ降りやうとしてゐる。今兄の所へ行く所だと云ふ」。彼女は何も言わないが、本格的に兄のもとに戻る場面だったかもしれない。人物たちはそれぞれ、次の目標に向かい行動を起こしている。それはこの時の三四郎も同じだった。
目的の「美禰子はゐない」ので、「三四郎は一所に表へ出た」。
「「もう悉皆好いんですか」
「難有う。もう癒りました」」
病が癒えたことは、三四郎の決心と行動開始も表す。彼は美禰子との別れを決意している。今日はそれを告げに来たのだ。彼の懐には、美禰子から借りた金が入っている。
美禰子は会堂にいるという。「美禰子の会堂へ行く事は始めて聞いた」。これは読者も同じで、やや唐突な感がある。
美禰子の拝礼の設定については、いろいろな可能性が考えられる。
・この後に登場する有名な「ストレイシープ」と美禰子に呟かせるため。
・彼女は英語が得意であることと関連付けるため。
・彼女が通ったのは、キリスト教系の学校だったのかもしれない。
・教会で彼女の結婚式が行われるため、その打ち合わせも兼ねている。
・美禰子の結婚相手の男がキリスト教徒だったのかもしれない。
○明治時代のキリスト教
明治時代初期には禁止されていたキリスト教だが、明治憲法(大日本帝国憲法)で信仰の自由が認められ、キリスト教は法的に認められることとなった。
しかし基本的に明治政府は、キリスト教への警戒感を一貫して持ち続けていた。(「近代日本におけるキリスト教と国家神道」麻生 将)
・初期の禁教政策
江戸時代から明治初期にかけて、キリスト教は禁止されていた。
・明治6年(1873年)解禁
諸外国の圧力もあり、キリスト教の布教が公に行えるようになった。
・明治憲法と信仰の自由
明治22年(1889年)に発布された明治憲法では、条件つきながらも信仰の自由が認められ、キリスト教は法的に認められることとなった。
その後、アメリカから来日したプロテスタントの宣教師たちが横浜を中心に教会や学校を設立し、布教活動を行った。
しかし、1899年に出された文部省訓令で宗教教育が禁止され、キリスト教系学校は存立の危機となった。
『三四郎』は1908年に発表されており、仮に美禰子がキリスト教徒であった場合、このような歴史の動きに多大な影響を受けていたと考えられる。
一方三四郎は、彼女が礼拝に赴いていることに何の感想ももらさない。キリスト教への拒否感は、彼には無い。
これには、英国文学を研究するためにイギリスに留学した漱石の経験が反映しているだろう。
「何処の会堂か教へて貰つて、三四郎はよし子に別れた」。よし子も一緒に教会に向かうというドラマも可能だが、作者はそのようには作劇しなかった。それは次のような理由からだろう。
よし子は兄のもとに向かい、三四郎は美禰子のもとに向かう。美禰子は別の男のもとに向かう。三者のベクトルは決して交わらず、それが寂寥を誘う。
よし子には兄が待っている。美禰子には第三の男が待っている。しかし三四郎には誰も待っていない。
唯一彼を待っているのは、懐かしくも古びた世界に住む故郷の母だけだ。しかし彼の心は既にそこには無い。今話の最終部に「何時立つ」という母からの電報を登場させたところに、漱石の周到な狙いを感じる。
三四郎の恋愛・人生の旅は続く。
「三四郎は全く耶蘇教に縁のない男である。会堂の中は覗いて見た事もない」。
耶蘇教はキリスト教のこと。耶蘇教に縁がなかったのと同じように、彼は美禰子とも結局縁はなかった。
「前へ立つて、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往つたり来たりした。ある時は寄り掛かつて見た」。これは、「兎も角もして、美禰子の出てくるのを待つ積りである」からだが、見慣れぬ西洋文明に初めて触れてとまどう日本人の姿も暗示している。
かつて愛した人は、今、見知らぬ場所にいる。その外で待つ自分。その距離は心の距離も表す。三四郎は冷たい風に吹かれている。
聞き慣れぬ「唱歌の声」・「讃美歌」は、いつもなら西洋を感じさせるものだが、今は美禰子との距離をいやます。彼女は「締切つた高い窓のうち」という、三四郎とは隔絶した場所にいるのも象徴的だ。せめて「美禰子の声もそのうちにある」だろうと、「三四郎は耳を傾けた」。
やがて「歌は歇」み、また「風が吹」いた。「外套の襟を立て」て見上げると、「空に美禰子の好きな雲が出」ていた。しかし、彼女がどのようなものが好きかはもう三四郎には関係がなく、どうでもいいものだ。
さまざまな記憶が、断片的によみがえる。次の短文の重なりは、それを表す。彼女と共有していた大切な記憶は今、無価値となろうとしている。
「かつて美禰子と一所に秋の空を見た事もあつた。
所は広田先生の二階であつた。
田端の小川の縁に坐つた事もあつた。
其時も一人ではなかつた」。
かつて美禰子と一緒に見た空。
ふたりで一緒に座った小川の縁。
すべてはもう終わったことだ。
過去は取り戻せない。
「迷羊。迷羊。雲が羊の形をしてゐる」
あの時彼女がつぶやいた「迷える子羊」とは、彼女のことか、それとも自分か。自分たちは、まるで空に浮かぶ「雲」のように、人生を漂い続ける。
「忽然として会堂の戸が開」き、三四郎は過去から現実に引き戻される。
「中から」出てくる「人は天国から浮世へ帰る」かのようだ。なかなか「天国」から出てこない美禰子だったが、「終りから四番目」にやっとこの世に回帰した。
三四郎は過去から現実へ、美禰子は天国から現世へ。ふたりの精神的動線はまったく交わらない。
彼女は、「縞の吾妻コートを着て、俯向いて、上がり口の階段を降りて来た。寒いと見えて、肩を窄て、両手を前で重ねて、出来る丈外界との交渉を少くしてゐる。美禰子は此凡てに揚がらざる態度を門際迄持続した」。神の前で懺悔してきたかのような美禰子の様子。沈鬱な表情の彼女と、それを見つめる三四郎。
「往来の忙がしさに、始めて気が付いた様に顔を上げ」、やっと彼女は「三四郎の脱いだ帽子の影」に気づく。「二人は説教の掲示のある所で、互に近寄つた」。神の御前で神に見守られながらの最後のやりとりだ。
美禰子は「相変らず低い下駄を穿いてゐる」。三四郎はそれに気づく男であり、また美禰子とのすべての記憶は、今でも深く強く彼の心・記憶に刻まれている。(「能く覚えてゐる」10-3) しかしそれももう消え去る運命にある。
「「御捕りなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑つてゐる。手を出してゐる間は、調子を取る丈で渡らない。三四郎は手を引込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、身体の重みを托して、左の足でひらりと此方側へ渡つた。あまりに下駄を汚すまいと念を入れ過ぎた為め、力が余つて、腰が浮いた。のめりさうに胸が前へ出る。其勢いで美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷へる子(ストレイ、シープ)」と美禰子が口の内で云つた。三四郎は其呼吸いきを感ずる事が出来た。」(5-10)
…この時にも、「下駄」と「ストレイシープ」がセットで登場する
「玄関には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左で色が違ふ。それで能く覚えてゐる。」(10-3)
美禰子の家まで行く必要はない。「此所で御目に掛かればそれで」用は済む。
「先刻から、あなたの出て来るのを待つてゐた」と言う三四郎に、美禰子は「御這入りになれば好いのに。寒かつたでせう」と気遣う。かつて愛した男への思いは、まだ少し残っている。急に邪険に扱う必要もない。
「寒かつた」と素直に述べる三四郎。彼は初めからそうすれば良かった。でも今さらそれを言っても始まらない。ふたりは既に、別々の道を歩き始めている。
「御風邪はもう好いの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色が好くない様ね」と、優しい言葉をかける美禰子に、「男は返事をしずに、外套の隠袋から半紙に包んだものを出した」。三四郎はやるべき事をやろうとしている。以前しそこなったことだ。過去と借金の精算。
「拝借した金です。永々(なが/\)難有う。返さう/\と思つて、つい遅くなつた」。簡潔だが素直な思いのこもった言葉。別れの場面に適切だ。素直になるのが「遅」かったふたり。
この金は、美禰子から三四郎に贈られた愛だった。それを返すことは、愛は受け取れない・受け取れなかったことを表す、決別のサイン。
別れのサインに、「美禰子は一寸三四郎の顔を見た」「が、其儘逆らはずに、紙包を受け取つた」。別れを受け入れる意味。「然し手に持つたなり、納はずに眺めてゐる」。まだ少しの未練はある。それは三四郎も同じだ。「三四郎もそれを眺めてゐる」。
ふたりの「言葉が少しの間切れた」。気持ちも途切れたのだ。
最後に美禰子は確認する。
「あなた、御不自由ぢや無くつて」
「いゝえ、此間から其積で国から取り寄せて置いたのだから、何うか取つて下さい」
「さう。ぢや頂いて置きませう」
美禰子は納得し、「紙包を懐へ入れた」。自分たちの別れの最終確認と認定・承諾。
彼女は「白い手帛」を「鼻の所へ宛てゝ、三四郎を見てゐる」。
「手帛を嗅ぐ様子でもある。やがて、其手を不意に延ばした。手帛が三四郎の顔の前へ来た。鋭い香がぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに云つた。三四郎は思はず顔を後へ引いた。ヘリオトロープの壜。四丁目の夕暮れ。迷羊。迷羊。空には高い日が明らかに懸かる」。
自分も三四郎との過去を忘れずにちゃんと記憶していることの表現・アピール。彼女の行動や仕草には、必ず何かの意味がある。美禰子は仕草によって自分の気持ちを表現する。今の三四郎には、それを受け取る力がついた。
ヘリオトロープの「鋭い香」が、三四郎の記憶を鮮明によみがえらせる。
「あなたがこれがいいと言ったから買った香水。今でも私はこれを使っている。それは、今でもあなたが好きだから。あなたとの思い出を大切にしたいから。でももうそれも過去の事ね」と、美禰子は言いたいのだ。
「二人の女は笑ひながら傍へ来て、一所に襯衣を見て呉れた。仕舞に、よし子が「是になさい」と云つた。三四郎はそれにした。今度は三四郎の方が香水の相談を受けた。一向分からない。ヘリオトロープと書いてある罎を持つて、好加減に、是はどうですと云ふと、美禰子が、「それに為ませう」とすぐ極めた。三四郎は気の毒な位であつた。」(9-6)
匂いの記憶は、長く強く静かに残る。なかなか忘れられず、ふとしたときに突然よみがえる。
100%嫌いになって別れることは少ない。人は少しの未練を残し、愛した人との別れを自分に納得させる。
美禰子は別の人との結婚を決断した。三四郎との別れの儀式も、今、行っている。しかし、三四郎への思いが100%消えてしまったわけでもない。
美禰子の仕草は、それらの複雑な感情を表している。
あの日の懐かしい「夕暮」に対し、美禰子との関係性がまるで変わってしまった今、「空には高い日が明らかに懸かる」。夕暮れは、美禰子とともに夜・無意識へと沈潜する時間であり、昼の今は、ふたり別々の将来へ向かって「明らかに」行動する時間だ。
「結婚なさるさうですね」と事実を尋ねる三四郎。簡潔な言葉の裏には、「私の思いを袖にして」という気持ちが少しある。さらには、「もうお別れです」の意だ。
三四郎からの最後の言葉に、「美禰子は白い手帛を袂へ落した」。思い出をしまいこむ動作は、彼との縁がこれで切れるからだ。
「「御存じなの」と云ひながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、却つて遠くにゐるのを気遣い過ぎた眼付である」。「遠く」の記憶を振り返り、また、気持ちも存在も「遠く」なってしまった三四郎を遥かに眺める様子。美禰子は「二重瞼を細目にして」焦点を合わせ、それらを「遠く」眺める。そこには、喪失、悔恨、決別などの複雑な感情が渦巻く。
「其癖眉丈は明確落ちついてゐる」。
彼女は心の動揺を外に表さない。三四郎の前では最後まで強気で自立している。
その様子に、「三四郎の舌が上顎へ密着いて仕舞つた」。強い女なのだ。
「やゝしばらく三四郎を眺め」て過去を振り返り、三四郎の意志を推し測る。その後、「聞兼る程の嘆息をかすかに漏らした」。悔恨と別れの諦念。
「やがて細い手を濃い眉の上に加へて、云つた。「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」」。
三四郎を前に懺悔の言葉を洩らす美禰子。それは「聞き取れない位な声であつた」が、神も見守っているだろう。神に見守られながらの懺悔。
「とが【咎/科】」
1 人から責められたり非難されたりするような行為。あやまち。しくじり。
2 罰されるべき行為。罪。
3 非難されるような欠点。 (デジタル大辞泉より)
「私は自分の非難され罰せられるべき行為を認識しています。私は自分が犯した罪をこれからもずっと忘れません」の意。
美禰子が犯した罪とは、いかにも三四郎に好意があるそぶりをしたのに、結局振ってしまったこと。それは彼の心を弄ぶ結果となった。
彼女の言葉と思いを、「三四郎は明らかに聞き取つた」。
「三四郎と美禰子は斯様にして分かれた」。
「下宿へ帰つたら母からの電報が来てゐた。開けて見ると、何時立つとある」。しかしもう彼の心は故郷には戻らない。故郷・母からのアプローチとそれへの拒絶を繰り返し、三四郎の心は確実に故郷から離れていく。「母からの電報」や「何時立つ」という肉薄は、かえって故郷への懐かしみを冷やすのだ。
息子への語りかけは逆効果であることに気づかない、鄙の古風な母。都市に住む三四郎は、洗練されドライになっている。いつまでも田舎の子どもではない。
ふたりの別れの場面は、静かで寂しいものだった。そこには悔恨と、しかしどうしようもなかったという諦念がある。
登場人物たちは、それぞれの道を歩き始めている。
○吾妻コート
「明治19年(1886)、白木屋呉服店から、西洋生地で仕立てた和装外套が発売されました。明治の和洋折衷文化が生んだ流行ファッション、「吾妻(東)コート」の登場です。
吾妻コートは、方形の衿を胸元で合わせ組紐留にする衿型に、足首までの長い丈を持った外套で、意匠的には江戸末期に登場した「被布」や「道行」といった、既存の型を踏襲したオーソドックスなものでした。吾妻コートがそれまでの外套と違っていたのは、その素材にネルやラシャといった洋服地を用いたことでした。さらに表地に黒や紺などの落ち着いた色を用いる一方で、裏地には赤などを配し、袖口や脇あきの身八ツ口などからその鮮やかな色を覗かせるといった細かな演出も施していました。
意図的に流行を狙って売り出されたこの最新ファッションは、最先端の西洋風俗を細部に取り込みつつも、和装外套としての慣れ親しまれた型を用いたことで、幅広い層に受け入れられていきました。そして白木屋が「東コート」として売り出すのと前後して始まった最初の流行以降、数年おきの割合で度々流行をくり返し、次第に年齢を問わない外出着として定番化していきました。
こうした流行もあって、明治大正期を通じ外来語としてのコートという言葉は、洋服のそれというより和装用の外套という意味で浸透していきました。吾妻コートは、明治期特有の和洋折衷志向によって、西洋の文化や風俗を自然に生活の中へ取り込んだ好例でした」。(http://www.meijitaisho.net/toa/azuma_coat.php より)
次回は最終話です。