夏目漱石「三四郎」本文と解説12-5 佐々木「美禰子さんは、夫として尊敬の出来ない人の所へは始から行く気はないんだから、さう云ふ点で君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」
◇本文
「馬鹿だなあ、あんな女を思つて。思つたつて仕方がないよ。第一、君と同年位ぢやないか。同年位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋御七時代の恋だ」
三四郎は黙つてゐた。けれども与次郎の意味は能く分からなかつた。
「何故と云ふに。廿前後の同じ年の男女を二人並べて見ろ。女の方が万事上手だあね。男は馬鹿にされる許だ。女だつて、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね。尤も自分が世界で一番偉いと思つてる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすより外に方法はないんだから。よく金持の娘や何かにそんなのがあるぢやないか、望んで嫁に来て置きながら、亭主を軽蔑してゐるのが。美禰子さんは夫れよりずつと偉い。其代り、夫として尊敬の出来ない人の所へは始から行く気はないんだから、相手になるものは其気で居なくつちや不可い。さう云ふ点で君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」
三四郎はとう/\与次郎と一所にされて仕舞つた。然し依然として黙つてゐた。
「そりや君だつて、僕だつて、あの女より遥かに偉いさ。御互に是でも、なあ。けれども、もう五六年経たなくつちや、其偉さ加減が彼の女の眼に映つて来ない。しかして、かの女は五六年 凝としてゐる気遣ひはない。従つて、君があの女と結婚する事は風馬牛だ」
与次郎は風馬牛と云ふ熟字を妙な所へ使つた。さうして一人で笑つてゐる。
「なに、もう五六年もすると、あれより、ずつと上等なのが、あらはれて来るよ。日本ぢや今女の方が余つてゐるんだから。風邪なんか引いて熱を出したつて始まらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。実は僕にも色々あるんだが。僕の方であんまり煩いから、御用で長崎へ出張すると云つてね」
「何だ、それは」
「何だつて、僕の関係した女さ」
三四郎は驚ろいた。
「なに、女だつて、君なんぞの曾て近寄つた事のない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌の試験に出張するから当分駄目だつて断わつちまつた。所が其女が林檎を持つて停車場まで送りに行くと云ひ出したんで、僕は弱つたね」
三四郎は益驚いた。驚ろきながら聞いた。
「それで、何うした」
「何うしたか知らない。林檎を持つて、停車場に待つてゐたんだらう」
「苛い男だ。よく、そんな悪い事が出来るね」
「悪い事で、可哀想な事だとは知つてるけれども、仕方がない。始めから次第次第に、そこ迄運命に持つて行かれるんだから。実はとうの前から僕が医科の学生になつてゐたんだからなあ」
「なんで、そんな余計な嘘を吐くんだ」
「そりや、又それ/″\事情のある事なのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困つた事もある」
三四郎は可笑くなつた。
「其時は舌を見て、胸を叩いて、好い加減に胡魔化したが、其次に病院へ行つて、見て貰ひたいが好いかと聞かれたには閉口した」
三四郎はとう/\笑ひ出した。与次郎は、
「さう云ふ事も沢山あるから、まあ安心するが好からう」と云つた。何の事だか分からない。然し愉快になつた。
与次郎は其時始めて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の云ふ所によると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それ丈ならば好いが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのださうだ。
三四郎も少し馬鹿にされた様な気がした。然しよし子の結婚丈は慥かである。現に自分が其話を傍で聞いてゐた。ことによると其話を美禰子のと取り違へたのかも知れない。けれども美禰子の結婚も、全く嘘ではないらしい。三四郎は判然した所が知りたくなつた。序だから、与次郎に教へて呉れと、頼んだ。与次郎は訳なく承知した。よし子を見舞に来る様にしてやるから、直に聞いて見ろといふ。旨い事を考へた。
「だから、薬を飲んで、待つて居なくつては不可い」
「病気が癒つても、寐て待つてゐる」
二人は笑つて別れた。帰りがけに与次郎が、近所の医者に来て貰ふ手続をした。 (青空文庫より)
◇解説
いかにも若い大学生男子ふたりのやりとり。思慮は浅いが会話はさわやかだ。
○八百屋お七
八百屋お七は1800年代後半に生きたとされる江戸時代前期の女性。「恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている」。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E5%B1%8B%E3%81%8A%E4%B8%83 より)
若い男ふたりの会話なので、相手を「馬鹿だなあ」と断じたり、「あんな女」と腐したり、思うがままに述べるのだった。佐々木の美禰子への真情は説明されないが、美人だとは認めており、多少は心が動かされることもあっただろう。しかし美禰子は佐々木など歯牙にも懸けていない。広田の書生ということで表面上の交際はするが、あくまでもそれだけのこと。佐々木の方も自分が相手にされないため、美禰子を悪く言うのだ。
「思つたつて仕方がないよ。第一、君と同年位ぢやないか。同年位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋御七時代の恋だ」。
…男女の年が同じ位であることは、恋愛・結婚の妨げにはならない。八百屋お七は17歳と設定されており、店が火災で燃えたため建物を新築するまでの間、寺に仮住まいをすることになった。その寺で彼女は若い小姓と出会い、恋に落ちる。ふたりは若いが、女性の17歳はこの時代結婚しても不思議はない。ただ、相手の小姓も若く、ふたりでの生活は成り立たないだろう。
また、「同年位の男に惚れるのは昔の事」とは限らないだろう。
佐々木の言はことごとく外れており、だから「三四郎は黙つてゐた」。「与次郎の意味は能く分からなかつた」。
「何故と云ふに。廿前後の同じ年の男女を二人並べて見ろ。女の方が万事上手だあね。男は馬鹿にされる許だ。女だつて、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね」。これは佐々木の言う通りだ。
「尤も自分が世界で一番偉いと思つてる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすより外に方法はないんだから。よく金持の娘や何かにそんなのがあるぢやないか、望んで嫁に来て置きながら、亭主を軽蔑してゐるのが」。この説明は美禰子を念頭に置いたものかと思ったら違った。佐々木は急に美禰子をほめ出す。
「美禰子さんは夫れよりずつと偉い。其代り、夫として尊敬の出来ない人の所へは始から行く気はないんだから、相手になるものは其気で居なくつちや不可い。さう云ふ点で君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」。佐々木には端から「夫になる資格」は無いが、三四郎も同様だと断ずる資格も無い。「三四郎はとう/\与次郎と一所にされて仕舞つた」が、「然し依然として黙つてゐた」。三四郎は自分が蔑視されたことを気にするよりも、佐々木が言った「夫として尊敬の出来ない人の所へは始から行く気はないんだから、相手になるものは其気で居なくつちや不可い。さう云ふ点で君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」という言葉について考えており、その通りかもしれないと思っている。確かに自分は美禰子とは不釣り合い・不似合いだ。それに比べ、研究で世界に名を知られる野々宮の方が適格であり、第三の男はさらにふさわしいと感じられる。自分以外は彼女にぴったりで、恋の敗北を認めざるをえない三四郎だった。
「そりや君だつて、僕だつて、あの女より遥かに偉いさ。御互に是でも、なあ。けれども、もう五六年経たなくつちや、其偉さ加減が彼の女の眼に映つて来ない。しかして、かの女は五六年 凝としてゐる気遣ひはない。従つて、君があの女と結婚する事は風馬牛だ」
…佐々木も三四郎も美禰子に「偉さ」で負けているので、これは負け犬の遠吠えでしかない。「自分には良さや魅力がある。それを認識できない相手が悪いのだ」という論理は、責任を他者に転嫁する卑怯なやり方だ。
「風馬牛」(ふうばぎゅう)
…[名]《「春秋左伝」僖公四年の「風馬牛相及ばず」から。「風」は発情して雌雄が相手を求める意》
1 馬や牛の雌雄が、互いに慕い合っても会うことができないほど遠く隔たっていること。
2 互いに無関係であること。また、そういう態度をとること。(デジタル大辞泉より)
三四郎と美禰子の結婚は不可能であることと、そもそもふたりの存在は遠く隔たっており、恋愛は成立しないことの2つの意味を重ねて佐々木は「風馬牛」と表現した。しかしその使用法が間違いだということ。
それなのに彼は、まるで洒落たことを言って満足したかのように「一人で笑つてゐる」。
この物語において、愚者として存在する佐々木。
「もう五六年も」経ち、佐々木がその間にいくばくかの人間的成長が出来たとしても、彼の前に「あれより、ずつと上等なのが、あらはれ」ることはないだろう。「日本ぢや今女の方が余つて」いても、そもそもその女たちから選ばれる存在にならなければならない。「風邪なんか引いて熱を出したつて始まらない」とは励ましの言葉だが、頑張らなければならないのは、むしろ佐々木の方だ。
それは次のエピソードからもわかる。
「実は僕にも色々あるんだが」で語り出された女は「あんまり煩」く、佐々木は仕方なく「御用で長崎へ出張すると」嘘をつく。驚く三四郎に、「所が其女が林檎を持つて停車場まで送りに行くと云ひ出したんで、僕は弱つたね」と語る佐々木。愛を信じる健気な女は、「林檎を持つて、停車場に待つてゐたんだらう」。
「苛い男だ。よく、そんな悪い事が出来るね」と三四郎が責めると、「悪い事で、可哀想な事だとは知つてるけれども、仕方がない。始めから次第次第に、そこ迄運命に持つて行かれるんだから」と、急に運命論者となる。「仕方がない」は自己責任の回避に便利な言葉だ。
佐々木は、「実はとうの前から僕が医科の学生になつてゐたんだからなあ」と、さらに驚くことを言う。「それ/″\事情のある事」であり、「女が病気の時に、診断を頼まれて困つた事もある」と畳み掛ける。「其時は舌を見て、胸を叩いて、好い加減に胡魔化したが、其次に病院へ行つて、見て貰ひたいが好いかと聞かれたには閉口した」。
笑い出した三四郎に、「さう云ふ事も沢山あるから、まあ安心するが好からう」と言う。三四郎には「何の事だか分からない」が、「然し愉快になつた」。
自分に執心する女とのドタバタを例に、自分にもこんな恋愛喜劇があった。だからお前のうまく行かない恋物語も気にすることはない、と言いたいのだろう。
「与次郎は其時始めて、美禰子に関する不思議を説明した」。
・よし子にも結婚の話がある。
・美禰子にもある。
・よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議だ。
「三四郎も少し馬鹿にされた様な気がした」。「然しよし子の結婚丈は慥かである。現に自分が其話を傍で聞いてゐた」。
「よし子に縁談の口がある。国へさう云つてやつたら、両親も異存はないと返事をして来た。夫れに就て本人の意見をよく確める必要が起つたのだと云ふ。三四郎はたゞ結構ですと答へて、成るべく早く自分の方を片付けて帰らうとした」(9-7)
「ことによると其話を美禰子のと取り違へたのかも知れない。けれども美禰子の結婚も、全く嘘ではないらしい」。ふたりは妙齢の女性であり、結婚話があり、またそれが現実化しようとするのはごく自然なことだ。この時三四郎は、驚きつつもそのことを改めて認識する。
それで「三四郎は判然した所が知りたくなつた」。「序」を装い「与次郎に教へて呉れと、頼んだ」。「与次郎は訳なく承知した」。しかし彼は、他にも何か情報を持っているようだが、やはり「不思議」の詳細を明かさない。自分の見立てを話さないのだ。その代わり、「よし子を見舞に来る様にしてやるから、直に聞いて見ろといふ」。三四郎は、「旨い事を考へた」と肯定するが、「旨」くもなんともない。説明の手間を、他者に渡しただけのことだ。佐々木が自分の判断を示さないので、少しでも多くの情報が得たい三四郎には、役に立たない友人ということになる。ここでの佐々木は、意味を含んだ言葉をほのめかすだけの、少し意地悪な存在だ。
佐々木の心情を深読みすると、彼は三四郎に嫉妬している。自分よりも下に見ている三四郎の方が、美禰子との恋の成立に近いからだ。だから彼はほのめかすだけで口を閉じる。
また、「よし子を見舞に来る様にしてやるから、直に聞いて見ろといふ」が、三四郎の病気を知ったよし子なら、勧められなくとも見舞いに来るだろう。その斡旋による成果を、さも自分の手柄のように語ることに、佐々木の不誠実さを感じる。
「だから、薬を飲んで、待つて居なくつては不可い」。佐々木はいつも三四郎に命令口調だ。
「病気が癒つても、寐て待つてゐる」と、素直な三四郎。
いろいろあったが、「二人は笑つて別れた」。
「帰りがけに与次郎が、近所の医者に来て貰ふ手続をした」。佐々木は時に友だち思いの行動をする。それが、佐々木にはそんな気は回らないだろうと思われる場面で行われることも多く、その意外性が相手の心をつかむ。期待・予想していない場面で発揮される佐々木の優しさ・気遣い。広田から、とんだ「いたずら」者で困ると愛を込めた批評をされるのも、佐々木のそのような様子からだ。「憎みきれないろくでなし」とは、いい得て妙だ。
○「医師法」(明治39年5月2日法律第47号)
第1条 医師たらむとする者は左の資格を有し内務大臣の免許を受くることを要す。
1 帝国大学医科大学医学科(中略)を卒業したるもの
2 医師試験に合格したるもの
第11条 免許を受けずして医業を為したるもの(中略)は、500円以下の罰金に処す。
1円を1万円と換算すると500万円となり、佐々木はこの罰金を払わなければならない。
相手の女も、さすがに命が懸かっていたせいか、恋による信頼よりも他の医者に見てもらった方がいいと判断したのは正解だった。