夏目漱石「三四郎」本文と解説12-4 佐々木「美禰子さんが嫁に行くと云ふ話が極つた様に聞いたが、野々宮さんぢやない。不思議な事があるんだが、もう少し立たないと、どうなるんだか見当が付かない」
◇本文
本来は暗い夜である。人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちてゐるやうに思ふ。風が枝を鳴らす。三四郎は急いで下宿に帰つた。
夜半から降り出した。三四郎は床の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けと云ふ一句を柱にして、其 周囲にぐる/\彽徊した。広田先生も起きてゐるかも知れない。先生はどんな柱を抱いてゐるだらう。与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋つてゐるに違ない。……
明日は少し熱がする。頭が重いから寐てゐた。午飯は床の上に起き直つて食つた。又 一寐入すると今度は汗が出た。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎が這入つて来た。昨夕も見えず、今朝も講義に出ない様だから何うしたかと思つて訪ねたと云ふ。三四郎は礼を述べた。
「なに、昨夕は行つたんだ。行つたんだ。君が舞台の上に出て来て、美禰子さんと、遠くで話をしてゐたのも、ちやんと知つてゐる」
三四郎は少し酔つた様な心持である。口を利き出すと、つる/\と出る。与次郎は手を出して、三四郎の額を抑へた。
「大分熱がある。薬を飲まなくつちや不可い。風邪を引いたんだ」
「演芸場があまり暑過ぎて、明る過ぎて、さうして外へ出ると、急に寒過ぎて、暗過ぎるからだ。あれは可くない」
「可けないたつて、仕方がないぢやないか」
「仕方がないたつて、可けない」
三四郎の言葉は段々短かくなる、与次郎が好加減にあしらつてゐるうちに、すう/\寐て仕舞つた。一時間程して又眼を開けた。与次郎を見て、
「君、其所にゐるのか」と云ふ。今度は平生の三四郎の様である。気分はどうかと聞くと、頭が重いと答へた丈である。
「風邪だらう」
「風邪だらう」
両方で同じ事を云つた。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。
「君、此間美禰子さんの事を知つてるかと僕に尋ねたね」
「美禰子さんの事を? 何処で?」
「学校で」
「学校で? 何時」
与次郎はまだ思ひ出せない様子である。三四郎は已を得ず、其前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、
「成程そんな事が有つたかも知れない」と云つてゐる。三四郎は随分無責任だと思つた。与次郎も少し気の毒になつて、考へ出さうとした。やがて斯う云つた。
「ぢや、何ぢやないか。美禰子さんが嫁に行くと云ふ話ぢやないか」
「極つたのか」
「極つた様に聞いたが、能く分からない」
「野々宮さんの所か」
「いや、野々宮さんぢやない」
「ぢや……」と云ひ掛けて已めた。
「君、知つてるのか」
「知らない」と云ひ切つた。すると与次郎が少し前へ乗り出して来た。
「何うも能く分からない。不思議な事があるんだが。もう少し立たないと、何うなるんだか見当が付かない」
三四郎は、其不思議な事を、すぐ話せば好いと思ふのに、与次郎は平気なもので、一人で呑み込んで、一人で不思議がつてゐる。三四郎は少時我慢してゐたが、とう/\ 焦つたくなつて、与次郎に、美禰子に関する凡ての事実を隠さずに話して呉れと請求した。与次郎は笑ひ出した。さうして慰藉の為か何だか、飛んだ所へ話頭を持つて行つて仕舞つた。 (青空文庫より)
◇解説
「本来は暗い夜である。人の力で明るくした所を通り越すと」。この言い方は、「本来は暗い夜」なのに、「人の力で」無理やり「明るくした」と読める。これは文明批判ということではなく、この後に語られるとおり、三四郎が風邪をひき、感覚が鋭敏になった様子だろう。
「暗い夜」、「人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちてゐる」。「風が枝を鳴らす」。このような夜道を「急いで下宿に帰つた」三四郎だったが、この後風邪をひいてしまう。
「三四郎は床の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けと云ふ一句を柱にして、其 周囲にぐる/\彽徊した」。実際に今拘泥していることが何度も頭に浮かぶのだが、それとともに次第に熱を発してきたせいでもある。
〇「尼寺へ行け」について
「Get thee to a nunnery!
これは、ハムレットがオフィーリアに向かって言った台詞であり、特に論議を呼ぶ場面を構成する。大きく分けて二つの解釈がある。
当時、尼寺では売春が行われており、隠語で淫売屋を表現する言葉だった。ハムレットはオフィーリアに単に「世を捨てろ」と言っただけでなく、「売春婦にでもなれ」と罵ったのである。
文字通り、俗世間を離れ女子修道院(尼僧院)に入ってほしいと願った。この場面では、ポローニアスがハムレットを背後で伺っているが、オフィーリアには穢れた政治に関わらず昔のままに清らかな存在でいて欲しいと願った。
尼寺を単純に「売春宿」と解釈するかしないか、については研究者の間でも議論があり、決着がついていない。ただし、「尼寺」を「売春宿」と解釈する研究者は少ないと言われている」。 (ハムレット - Wikipedia より)
熱を発し始めた三四郎は「床の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けと云ふ一句を柱にして、其 周囲にぐる/\彽徊した」が、もし「尼寺では売春が行われており、隠語で淫売屋を表現する言葉だった。ハムレットはオフィーリアに単に「世を捨てろ」と言っただけでなく、「売春婦にでもなれ」と罵ったのである」という解釈の方だとすると、オフィーリアは美禰子ということになる。野々宮、自分、第三の男に色目を使うかのような彼女の振る舞いに翻弄される疑念からの「ぐる/\彽徊」だ。
次に広田を想起する三四郎は、「先生はどんな柱を抱いてゐるだらう」と慮る。母の裏切りによる重い孤独を心に抱き、沈思黙考する広田は、女性との関係を絶っているかのようだ。自分は恋に悩む一方で、それを拒否したかのような広田の苦悩の深さを思いやる三四郎。
「与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋つてゐるに違ない」。「偉大なる暗闇」は広田のことを指すが、ここはむしろ、人生行路の「暗闇」に自ら沈む佐々木の様子を表す。しかもそれは「正体なく」というていたらく。
「明日は少し熱がする。頭が重いから寐てゐた」。「午飯は床の上に起き直つて食つた」。症状はだいぶ重いようだ。
「又 一寐入すると今度は汗が出」て「気がうとくなる」。なかなか回復しない風邪。
「そこへ威勢よく与次郎が這入つて来た」。病人の部屋への入り方ではない無作法・無神経さ。「昨夕も見えず、今朝も講義に出ない様だから何うしたかと思つて訪ねた」のは感心だが。
やがて美禰子が話題に上る。
「美禰子さんが嫁に行くと云ふ話ぢやないか」と初めて結婚の話題に触れる佐々木。しかし、「極つた様に聞いたが、能く分からない」とぼかす。「野々宮さんぢやない」が、相手は「知らない」し、「何うも能く分からない。不思議な事があるんだが。もう少し立たないと、何うなるんだか見当が付かない」と答える佐々木。佐々木の言う「不思議な事」が意味ありげでとても気になる三四郎。
途中の三四郎の「ぢや……」の後には、「(第三の男)と結婚するのか」が省略されている。
「其不思議な事を、すぐ話せば好いと思ふ」三四郎に対し、「与次郎は平気なもので、一人で呑み込んで、一人で不思議がつてゐる」。「少時我慢してゐたが、とう/\ 焦つたくなつて、与次郎に、美禰子に関する凡ての事実を隠さずに話して呉れと請求」すると、「与次郎は笑ひ出した」。しかし「慰藉の為か何だか」分からないが、素直に答えず「飛んだ所へ話頭を持つて行つて仕舞つた」。
美禰子の結婚の核心になかなかたどり着けない三四郎だった。