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夏目漱石「三四郎」本文と解説12-3 廊下迄来て見ると、二人は廊下の中程で、男と話をしてゐる。男の横顔を見た時、三四郎は後へ引き返した。席へ返らずに下足を取つて表へ出た。 

◇本文

 其傍にゐる男は脊中を三四郎に向けてゐる。三四郎は心のうちに、此男が何かの拍子に、どうかして此方(こつち)を向いて呉れゝば()いと念じてゐた。旨い具合に其男は立つた。坐り(くたび)れたと見えて、枡の仕切りに腰を掛けて、場内を見廻し始めた。其時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな眼を認める事が出来た。野々宮さんが立つと共に、美禰子の後にゐたよし子の姿も見えた。三四郎は此三人の外に、まだ連れが居るか居ないかを確めやうとした。けれども遠くから見ると、たゞ人がぎつしり詰つてゐる丈で、連れと云へば土間全体が連れと見える迄だから仕方がない。美禰子と与次郎の間には、時々談話が交換されつゝあるらしい。野々宮さんも折々口を出すと思はれる。

 すると突然原口さんが幕の間から出て来た。与次郎と並んでしきりに土間の中を覗き込む。口は無論動かしてゐるのだらう。野々宮さんは相図の様な首を(たて)に振つた。其時原口さんは後ろから、平手で、与次郎の脊中を叩いた。与次郎はくるりと引つ繰り返つて、幕の裾を潜つて何所かへ消え失せた。原口さんは、舞台を降りて、人と人の間を伝はつて、野々宮さんの傍迄来た。野々宮さんは、腰を立てゝ原口さんを通した。原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ。美禰子とよし子のゐる辺りで見えなくなつた。

 此連中の一挙一動を演芸以上の興味を以て注意してゐた三四郎は、此時急に原口流の所作が羨ましくなつた。あゝ云ふ便利な方法で人の傍へ寄る事が出来やうとは毫も思ひ付かなかつた。自分も一つ真似て見様かしらと思つた。然し真似ると云ふ自覚が、既に実行の勇気を(くじ)いた上に、もう入る席は、いくら詰めても、六づかしからうといふ遠慮が手伝つて、三四郎の尻は依然として、(もと)の席を去り得なかつた。

 其うち幕が開いて、ハムレツトが始まつた。三四郎は広田先生のうちで西洋の何とかいふ名優の扮したハムレツトの写真を見た事がある。今三四郎の眼の前にあらはれたハムレツトは、是と略(ほゞ)同様の服装をしてゐる。服装ばかりではない。顔迄似てゐる。両方共八の字を寄せてゐる。

 此ハムレツトは動作が全く軽快で、心持が好い。舞台の上を大いに動いて、又大いに動かせる。能掛りの入鹿とは大変趣を異にしてゐる。ことに、ある時、ある場合に、舞台の真中に立つて、手を広げて見たり、空を睨んで見たりするときは、観客の眼中に外のものは一切入り込む余地のない位強烈な刺激を与へる。

 其代り台詞は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏(せっそう)もある。ある所は能弁過ぎると思はれる位流暢に出る。文章も立派である。それでゐて、気が乗らない。三四郎はハムレツトがもう少し日本人じみた事を云つて呉れゝば好いと思つた。御母さん、それぢや御父さんに済まないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出して、呑気に()つて仕舞ふ。それでゐて顔付は親子とも泣き出しさうである。然し三四郎は此矛盾をたゞ朧気げに感じたのみである。決して詰らないと思ひ切る程の勇気は出なかつた。

 従つて、ハムレツトに飽きた時は、美禰子の方を見てゐた。美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレツトを見てゐた。

 ハムレツトがオフェリヤに向つて、尼寺へ行け尼寺へ行けと云ふ所へ来た時、三四郎は不図広田先生の事を考へ出した。広田先生は云つた。――ハムレツトの様なものに結婚が出来るか。――成程本で読むと()うらしい。けれども、芝居では結婚しても好ささうである。能く思案して見ると、尼寺へ行けとの云ひ方が悪いのだらう。其証拠には尼寺へ行けと云はれたオフェリヤが(ちつ)とも気の毒にならない。

 幕が又下りた。美禰子とよし子が席を立つた。三四郎もつゞいて立つた。廊下迄来て見ると、二人は廊下の中程で、男と話をしてゐる。男は廊下から出入りの出来る左側の席の戸口に半分身体を出した。男の横顔を見た時、三四郎は後へ引き返した。席へ返らずに下足を取つて表へ出た。 (青空文庫より)


◇解説

美禰子の「傍にゐる男は脊中を三四郎に向けてゐる」。三四郎は、「此男が何かの拍子に、どうかして此方(こつち)を向いて呉れゝば()いと念じてゐた」。第三の男ではないかと思い、確認したかったのだ。

しかし予想に反してそれは野々宮だった。「其時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな眼を認める事が出来た」。「美禰子の後にゐたよし子の姿も見えた」。「三四郎は此三人の外に、まだ連れが居るか居ないかを確めやうとした」。第三の男の存在がとても気になる三四郎。「けれども遠くから見ると、たゞ人がぎつしり詰つてゐる丈で、連れと云へば土間全体が連れと見える迄だから仕方がない。美禰子と与次郎の間には、時々談話が交換されつゝあるらしい。野々宮さんも折々口を出すと思はれる」。

当然この時三四郎は、美禰子がなぜ第三の男ではなく野々宮と一緒にいるのだろうという疑問を持っている。彼女の好意の対象がつかめない不安、疑念。


「すると突然原口さんが幕の間から出て来た」や、「原口さんは後ろから、平手で、与次郎の脊中を叩いた。与次郎はくるりと引つ繰り返つて、幕の裾を潜つて何所かへ消え失せた」などの様子から、この演芸会の開催に原口は関係者として絡んでおり、佐々木はその手伝いとして券を売り歩いていたことが分かる。


「此連中の一挙一動を演芸以上の興味を以て注意してゐた三四郎」。「原口流の所作」「便利な方法」が羨ましく、「自分も一つ真似て見様かしらと思」うが、「真似ると云ふ自覚が、既に実行の勇気を(くじ)いた上に、もう入る席は、いくら詰めても、六づかしからうといふ遠慮が手伝つて、三四郎の尻は依然として、(もと)の席を去り得なかつた」。気さくな行動ができない彼は、原口の所作を学ぶ。しかしそれをすぐに「真似」して「実行」する「勇気」が出ない。「もう入る席は、いくら詰めても、六づかしからうといふ遠慮」が優先したからだ。


やがて始まったハムレツトについての三四郎の感想が述べられる。

西洋の名優と服や顔が似ており、動作が「軽快で、心持が好い」。「舞台の真中に立つて、手を広げて見たり、空を睨んで見たりするときは、観客の眼中に外のものは一切入り込む余地のない位強烈な刺激を与へる」ことも評価する。

しかし台詞は「西洋語を日本語に訳した日本語」であり、その抑揚や節奏(せっそう)は流暢で文章も立派なのだが、「それでゐて、気が乗らない」。「三四郎はハムレツトがもう少し日本人じみた事を云つて呉れゝば好いと思つた」。西洋の世界観で作られた芝居が、日本の文化とまだ融合していない様子。「然し三四郎は此矛盾をたゞ朧気げに感じたのみである。決して詰らないと思ひ切る程の勇気は出なかつた」。


三四郎の目下の興味は芝居よりも美禰子だ。「ハムレツトに飽きた時は、美禰子の方を見てゐた。美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレツトを見てゐた」。


「ハムレツトがオフェリヤに向つて、尼寺へ行け尼寺へ行けと云ふ所へ来た時、三四郎は不図広田先生の事を考へ出した。広田先生は云つた。――ハムレツトの様なものに結婚が出来るか」。恋愛や結婚が、関心の的である三四郎。


「幕が又下りた。美禰子とよし子が席を立つた。三四郎もつゞいて立つた」。気になる二人に近づこうと思ったからだ。しかし「廊下迄来て見ると、二人は廊下の中程で、男と話をしてゐる。男は廊下から出入りの出来る左側の席の戸口に半分身体を出した。男の横顔を見た時、三四郎は後へ引き返した。席へ返らずに下足を取つて表へ出た」。

男は第三の男なのだろう。いま三四郎がいちばん気にし、また心配の種である第三の男の登場に、「後へ引き返し」「席へ返らずに下足を取つて表へ出た」三四郎をふがいないと断ずる向きもあるだろう。

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