夏目漱石「三四郎」本文と解説12-1 三四郎「どうです、折角だから御這入になりませんか」 広田「いや這入らない」 先生は又暗い方へ向いて行つた。
◇本文
演芸会は比較的寒い時に開かれた。歳は漸く押し詰つて来る。人は二十日足らずの眼の先に春を控えた。市に生きるものは、忙しからんとしてゐる。越年の計は貧者の頭に落ちた。演芸会は此間に在つて、凡ての長閑なるものと、余裕あるものと、春と暮れの差別を知らぬものとを迎へた。
それが、幾何でもゐる。大抵は若い男女である。一日目に与次郎が、三四郎に向つて大成功と叫んだ。三四郎は二日目の切符を持つてゐた。与次郎が広田先生を誘つて行けと云ふ。切符が違ふだらうと聞けば、無論違ふと云ふ。然し一人で放つて置くと、決して行く気遣ひがないから、君が寄つて引張出すのだと理由を説明して聞かせた。三四郎は承知した。
夕刻に行つて見ると、先生は明るい洋燈の下に大きな本を拡げてゐた。
「御出でになりませんか」と聞くと、先生は少し笑ひながら、無言の儘、首を横に振つた。小供の様な所作をする。然し三四郎には、それが学者らしく思はれた。口を利かない所が床しく思はれたのだらう。三四郎は中腰になつて、ぼんやりしてゐた。先生は断わつたのが気の毒になつた。
「君行くなら、一所に出様。僕も散歩ながら、其所迄行くから」
先生は黒い廻套を着て出た。懐手らしいが分からない。空が低く垂れてゐる。星の見えない寒さである。
「雨になるかも知れない」
「降ると困るでせう」
「出入りにね。日本の芝居小屋は下足があるから、天気の好い時ですら大変な不便だ。それで小屋の中は、空気が通はなくつて、烟草が烟つて、頭痛がして、――よく、みんな、彼れで我慢が出来るものだ」
「ですけれども、真逆まさか戸外で遣る訳にも行かないからでせう」
「御神楽は何時でも外で遣つてゐる。寒い時でも外で遣る」
三四郎は、こりや議論にならないと思つて、答へを見合せて仕舞つた。
「僕は戸外が好い。暑くも寒くもない、奇麗な空の下で、美しい空気を呼吸して、美しい芝居が見たい。透明な空気の様な、純粋で単簡な芝居が出来さうなものだ」
「先生の御覧になつた夢でも、芝居にしたらそんなものが出来るでせう」
「君 希臘の芝居を知つてゐるか」
「能く知りません。慥か戸外で遣つたんですね」
「戸外。真昼間。嘸好い心持ちだつたらうと思ふ。席は天然の石だ。堂々としてゐる。与次郎の様なものは、さう云ふ所へ連れて行つて、少し見せてやると好い」
又与次郎の悪口が出た。其与次郎は今頃窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走し且つ斡旋して大得意なのだから面白い。もし先生を連れて行かなからうものなら、先生果たして来ない。会には斯う云ふ所へ来て見るのが、先生の為には何の位好いか分からないのだのに。いくら僕が云つても聞かない。困つたものだなあ。と嘆息するに極つてゐるから猶面白い。
先生はそれから希臘の劇場の構造を委しく話して呉れた。三四郎は此時先生から、Theatron, Orchestra, Skene, Proskenionなどゝ云ふ字の講釈を聞いた。何とか云ふ独乙人の説によると亜典の劇場は一万七千人を容れる席があつたと云ふ事も聞いた。それは小さい方である。尤も大きいのは、五万人を容れたと云ふ事も聞いた。入場券は象牙と鉛と二通りあつて、何れも賞牌見たやうな恰好で、表に模様が打ち出してあつたり、彫刻が施してあると云ふ事も聞いた。先生は其入場券の価迄知つてゐた。一日丈の小芝居は十二銭で、三日続きの大芝居は三十五銭だと云つた。三四郎がへえ、へえと感心してゐるうちに、演芸会場の前へ出た。
盛んに電燈が点いてゐる。入場者は続々寄つて来る。与次郎の云つたよりも以上の景気である。
「どうです、折角だから御這入になりませんか」
「いや這入らない」
先生は又暗い方へ向いて行つた。 (青空文庫より)
◇解説
「演芸会は比較的寒い時に開かれた」以降の文章は、世の「人」たちがさまざまな事情を抱え、年越しを迎えようとしているさまを描く。
それは「演芸会」の観客も同じで、会場は「凡ての長閑なるものと、余裕あるものと、春と暮れの差別を知らぬものとを迎へた」。
佐々木に依ると、一日目は「大成功」のようだ。彼に促され、三四郎は広田を誘い演芸会へ出かける。「小屋の中は、空気が通はなくつて、烟草が烟つて、頭痛がして、――よく、みんな、彼れで我慢が出来るものだ」と、愛煙家の広田が言うのがおかしい。彼はよほど行きたくないのだ。
広田は「希臘の芝居」や「希臘の劇場の構造」を詳しく三四郎に聞かせる。彼は芝居そのものが嫌いなのではなく、日本の芝居と劇場が嫌いなのだ。
劇場の入り口で「どうです、折角だから御這入になりませんか」と三四郎に促されても、広田は「いや這入らない」と断る。
そうして、「先生は又暗い方へ向いて行つた」。これは、三四郎の目から見た表現だが、ひとり静かに思索の世界に沈む広田の様子を表している。彼は、ガチャガチャした卑俗な世間とは関わりたくないのだ。
前話で語られた広田の母の不義。それにより彼は人間不信に陥り、結婚することも楽しそうな世に交わることもできない。広田の翳、静かさ、沈思黙考の様子は、彼の生い立ちによるのだった。
そのような広田には、大学教授への昇進など興味も無く、また望みもしないことだ。だから佐々木の活動は大きなお世話だった。他者からは十年一日に進歩が無く感じられる広田だが、彼の心は人間存在についての深い考察が進められているのだ。「先生は又暗い方へ向いて行つた」とは、そういう意味だ。
佐々木はそのことにまったく気付いていない。普段の彼はよく「先生」を揶揄し、ともすると蔑視する。広田と初めて上京の汽車の中で出会った三四郎も、こんな男は東京にはいくらでもいると、その価値を認められなかった。彼も広田から語られて初めて、その過去や思いを知った。若いふたりは人の心の深淵に思いが至らない。
ここでも三四郎は、人間や人が生きる意味について学んだ。三四郎にとって広田は真の「先生」だ。