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夏目漱石「三四郎」本文と解説2-3 野々宮君は三四郎に「覗いて御覧なさい」と勧めた

◇本文

 其時野々宮君は三四郎に、「覗いて御覧なさい」と勧めた。三四郎は面白半分、石の台の二三間手前にある望遠鏡の(そば)へ行つて、右の眼をあてがつたが、何にも見えない。野々宮君は「どうです、見えますか」と聞く。「一向見えません」と答へると、「うんまだ(ふた)が取らずにあつた」と云ひながら、椅子を立つて望遠鏡の先に被せてあるものを()けて呉れた。

 見ると、ただ輪廓のぼんやりした明るいなかに、物差(ものさし)度盛(どもり)がある。下に2の字が出た。野々宮君がまた「どうです」と聞いた。「2の字が見えます」と云ふと、「今に動きます」と云ひながら向ふへ(まわ)つて何かしてゐる様であつた。

 やがて度盛が明るい中で動き出した。2が消えた。あとから3が出る。其あとから4が出る。5が出る。とう/\10迄出た。すると度盛がまた逆に動き出した。10が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1迄来て(とま)つた。野々宮君は又「どうです」と云ふ。三四郎は驚ろいて、望遠鏡から眼を(はな)して仕舞つた。度盛の意味を聞く気にもならない。

 丁寧に礼を述べて穴倉を上がつて、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかん/\してゐる。暑いけれども深い呼息(いき)をした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂上(さかうへ)の両側にある工科の建築の硝子窓(がらすまど)が燃える様に輝やいてゐる。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果てから焼ける火の(ほのほ)が、薄赤く吹き返して来て、三四郎の頭の上迄 (ほて)つてゐる様に思はれた。横に照り付ける日を半分脊中に受けて、三四郎は左りの森の中へ這入つた。其森も同じ夕日を半分脊中に受けて()る。黒ずんだ蒼い葉と葉の間は染めた様に赤い。太い欅の幹で日暮しが鳴いてゐる。三四郎は池の(そば)へ来てしやがんだ。

 非常に静かである。電車の音もしない。赤門の前を通る(はづ)の電車は、大学の抗議で小石川を回る事になつたと国にゐる時分新聞で見た事がある。三四郎は池の端にしやがみながら、不図此事件を思ひ出した。電車さへ通さないと云ふ大学は余程社会と離れてゐる。

 たま/\其中に這入つて見ると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしてゐる野々宮君の様な人もゐる。野々宮君は頗る質素な服装(なり)をして、外で逢へば電燈会社の技手位な格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念に遣つてゐるから偉い。然し望遠鏡のなかの度盛がいくら動いたつて現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかも知れない。要するに此静かな空気を呼吸するから、(おのづか)らあゝ云ふ気分にもなれるのだらう。自分もいつその事気を散らさずに、()きた世の中と関係のない生涯を送つて見様かしらん。

 三四郎が(じつ)として池の(おもて)を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映つて、其又底に青い空が見える。三四郎は此時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠く且つ遥かな心持がした。然ししばらくすると、其心持のうちに薄雲の様な淋しさが一面に広がつて来た。さうして、野々宮君の穴倉に這入つて、たつた一人で坐つて居るかと思はれる程な寂寞を覚えた。熊本の高等学校に居る時分も是より静かな龍田山に上つたり、月見草ばかり生えてゐる運動場に寐たりして、全く世の中を忘れた気になつた事は幾度となくある。けれども此孤独の感じは今始めて起つた。

 活動の劇しい東京を見たためだらうか。或は――三四郎は赤くなつた。汽車で乗り合はした女の事を思ひ出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界は(あぶな)くて近寄れない気がする。三四郎は早く下宿に帰つて、母に手紙を書いてやらうと思つた。 (青空文庫より)


◇解説

「其時野々宮君は三四郎に、「覗いて御覧なさい」と勧めた」以降の部分は、同じ郷里出身の先輩が、後輩を優しく導く様子が、具体的に示されている。三四郎はこれから、さまざまな先輩に出会い、人生を歩いていくことになる。だから野々宮の「覗いて御覧なさい」という言葉はとても象徴的だ。あなたの人生を、あなたのその目でしっかりと見つめなさいという意味だからだ。

これに対しまだ若い「三四郎は面白半分」なのだった。彼にはまだ人生が「何にも見えない」。「うんまだ(ふた)が取らずにあつた」という野々宮の茶目っ気・おかしさは、彼ほどの専門家でも(人生において)こんな失敗をすることもあることを表している。しかし野々宮は三四郎のためにちゃんと「椅子を立つて望遠鏡の先に被せてあるものを()けて」くれる。


三四郎の目には、自分の人生が「ただ輪廓のぼんやりした明るい」ものとしか見えない。「物差(ものさし)度盛(どもり)」の不可解な動きに「三四郎は驚ろいて、望遠鏡から眼を(はな)して仕舞つた。度盛の意味を聞く気にもならない」。その意味が理解できず、また予想外の動きを見せる点で、度盛も汽車の女も変わりはない。三四郎はこれからも不可解な事柄に遭遇する。


学問の世界の深遠さに感服した三四郎は、野々宮に「丁寧に礼を述べて穴倉を上が」る。「人の通るところへ出て見ると世の中はまだかん/\してゐる」。現実世界は彼を熱く包む。「暑いけれども」三四郎はその世界で「深い呼息(いき)を」しなければならない。

「西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂上(さかうへ)の両側にある工科の建築の硝子窓(がらすまど)が燃える様に輝やいてゐる。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果てから焼ける火の(ほのほ)が、薄赤く吹き返して来て、三四郎の頭の上迄 (ほて)つてゐる様に思はれた。横に照り付ける日を半分脊中に受けて、三四郎は左りの森の中へ這入つた。其森も同じ夕日を半分脊中に受けて()る。黒ずんだ蒼い葉と葉の間は染めた様に赤い。太い欅の幹で日暮しが鳴いてゐる」。赤・熱・日差しと、それによって自身の体や心が熱く火照るイメージは、次作「それから」の主人公・長井代助の破滅のイメージにつながる。三四郎は今、さまざまな出会いによって、自分の人生観や価値観が大転換するほどの激しい衝撃を受けている。これまで勝ち得たプライドが崩壊する危機にあり、何か新しい生きる指針を求めざるを得ない状況だ。それが得られなければ、三四郎も代助同様、精神の崩壊を迎えるかもしれない。


だから三四郎はとりあえず一息つくために、「池の(そば)へ来てしやがんだ」のだ。心と体を灼熱から逃さなければならない。今の彼には休養が必要だ。


「非常に静かである。電車の音もしない」。現実「社会」・俗世間と隔絶したかのような大学と野々宮君。大学は、電車がその敷地内を通ることさえ拒絶する。「電車さへ通さないと云ふ大学は余程社会と離れてゐる」。

「社会と離れてゐる」大学の「中に這入つて見ると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしてゐる野々宮君の様な人もゐる」。「頗る質素な服装(なり)」は、「外で逢へば電燈会社の技手位な格である」。「穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念に遣つてゐるから偉い」のだろうが、「然し望遠鏡のなかの度盛がいくら動いたつて現実世界と交渉のないのは明らかである」。「此静かな空気を呼吸」し、「生涯現実世界と接触」しないことによって、「気を散らさずに」いられるのだろう。自分も「()きた世の中と関係のない生涯を送つて見様かしらん」と三四郎は考える。

この時の三四郎は、上京途中に出くわした様々な人々によって得た現実社会の驚くべき経験から、それらに心を害され体が火に焼かれるよりも、野々宮君のように一生穴倉の中で生活する方がいいのではないかと弱気になっている。現実社会とは交わらない学問の世界で生きようかという認識。

三四郎はまだ知らないし、見くびっている。野々宮は既に世界にその名が知られた人であり(「其道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知つてゐる」3-6)、その研究がやがて現実社会でどのような成果をもたらすかを。科学は基礎的な研究がいつか花開くものだ。自分の浅い知識と人生経験から、物事や人を安易に判断してしまうのが、三四郎の悪いところだ。


(じつ)として池の(おもて)を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映つて、其又底に青い空が見える」。三四郎の心は、雑多な経験を整理しようとしている。これまでの自分の人生・学問・経験を誇りに、意気揚々と故郷を出発したはずなのに、そのどれもが現実社会では全く役に立たない。三四郎が感じた「遠く且つ遥かな心持」、「薄雲の様な淋しさ」、「寂寞」、「孤独」は、プライドが否定されたことによるものだ。青春の真ん中で強い不安に襲われる三四郎は、これから先どう生きて行けばいいかの目途・見当がつかない。いわば出ばながくじかれたに等しい。「活動の劇しい東京」や「汽車で乗り合はした女」という「現実世界」の「必要」性と危険性に挟まれ、身動きが取れなくなってしまった「三四郎は早く下宿に帰つて、母に手紙を書いてやらうと思つた」。そこは今彼が唯一休息を覚える「現実社会」の外れ・心のふるさとだからだ。


郷愁に(たたず)む三四郎は、この後、運命的な出会いをする。そのシーンは美しく、この池は「三四郎池」と呼ばれるようになった。



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