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夏目漱石「三四郎」本文と解説11-8 森有礼と妻・常(つね)

◇本文

「憲法発布は明治二十三年だつたね。其時森文部大臣が殺された。君は覚えてゐまい。幾年(いくつ)かな君は。さう、それぢや、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であつた。大臣の葬式に参列するのだと云つて、大勢鉄砲を担いで出た。墓地へ行くのだと思つたら、さうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引張つて行つて、路傍へ整列さした。我々は其所へ立つたなり、大臣の(ひつぎ)を送る事になつた。名は送るのだけれども、実は見物したのも同然だつた。其日は寒い日でね、今でも覚えてゐる。動かずに立つてゐると、靴の下で足が痛む。隣の男が僕の鼻を見ては赤い赤いと云つた。やがて行列が来た。何でも長いものだつた。寒い眼の前を静かな馬車や(くるま)が何台となく通る。其中に今話した小さな娘がゐた。今、其時の模様を思ひ出さうとしても、ぼうとして(とて)も明瞭に浮かんで来ない。たゞこの女 (だけ)は覚えてゐる。夫れも年を経つに従つて段々薄らいで来た。今では思ひ出す事も滅多にない。今日夢に見る前迄は、丸で忘れてゐた。けれども其当時は頭の中へ焼き付けられた様に、熱い印象を持つてゐた。――妙なものだ」

「それから其女には丸で逢はないんですか」

「丸で逢はない」

「ぢや、何処(どこ)の誰だか全く分からないんですか」

「無論分からない」

「尋ねて見なかつたですか」

「いゝや」

「先生は()れで……」と云つたが急に(つか)へた。

「夫れで?」

「夫れで結婚をなさらないんですか」

 先生は笑ひ出した。

「それ程 浪漫的(ロマンチツク)な人間ぢやない。僕は君よりも遥かに散文的に出来てゐる」

「然し、もし其女が来たら御貰ひになつたでせう」

「さうさね」と一度考へた上で、「貰つたらうね」と云つた。三四郎は気の毒な様な顔をしてゐる。すると先生が又話し出した。

「その為に独身を余儀なくされたといふと、僕が其女の為に不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生まれ付いて、結婚の出来ない不具もあるし。其外色々結婚のしにくい事情を持つてゐるものがある」

「そんなに結婚を妨げる事情が世の中に沢山あるでせうか」

 先生は(けむり)の間から、(じつ)と三四郎を見てゐた。

「ハムレツトは結婚したく無かつたんだらう。ハムレツトは一人しか居ないかも知れないが、あれに似た人は沢山ゐる」

「例へばどんな人です」

「例へば」と云つて、先生は黙つた。烟がしきりに出る。「例へば、こゝに一人の男がゐる。父は早く死んで、母一人を頼りに育つたとする。其母が又病気に罹つて、(いよいよ)息を引き取るといふ、間際に、自分が死んだら誰某(だれそれがし)の世話になれといふ。子供が会つた事もない、知りもしない人を指名する。理由(わけ)を聞くと、母が何とも答へない。強ひて聞くと、実は誰某が御前の本当の御父さんだと微かな声で云つた。――まあ話だが、さういふ母を持つた子がゐるとする。すると、其子が結婚に信仰を置かなくなるのは無論だらう」

「そんな人は滅多にないでせう」

「滅多には無いだらうが、居る事はゐる」

「然し先生のは、そんなのぢや無いでせう」

 先生はハヽヽヽと笑つた。

「君は慥か御母さんが居たね」

「えゝ」

「御父さんは」

「死にました」

「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」 (青空文庫より)


◇解説

今話は広田から自身の母について語られる。


広田が夢に出てきた女と実際に出会った20年前とは、憲法が発布された「明治二十三年だつた」。それは「森文部大臣が殺された」年であり、現在23歳の三四郎は「まだ赤ん坊の時分だ」。広田は「高等学校の生徒であつた」。


○明治23年当時の高等学校

文部科学省の資料によると、当時の「高等学校」生徒の年齢は満計算で16歳~18歳。それから20年経っているので、広田の現在の年齢は36歳~38歳となる。


「体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引張つて行つて、路傍へ整列さした。我々は其所へ立つたなり、大臣の(ひつぎ)を送る事になつた」。「其日は寒い日で」「今でも覚えてゐる」。広田は女と出会った日のことを、今でも鮮明に覚えているのだ。たとえば、「動かずに立つてゐると」、寒さのために「靴の下で足が痛む。隣の男が僕の鼻を見ては赤い赤いと云つた」。

「やがて行列が来た。何でも長いものだつた。寒い眼の前を静かな馬車や(くるま)が何台となく通る。其中に今話した小さな娘がゐた。今、其時の模様を思ひ出さうとしても、ぼうとして(とて)も明瞭に浮かんで来ない。たゞこの女 (だけ)は覚えてゐる」。この説明から、女は、殺された森文部大臣と血縁関係にある家族か親戚かになる。


○森文部大臣について

「夫婦の日本史 第6回 森有礼と広瀬常

森有礼(1847~89年) 広瀬常(1855~?年)

<文明開化期、「契約結婚」の結末は>

明治8(1875)年2月6日、東京・築地にある洋館で一風変わった結婚式が行われた。新郎はこの館の主で、外務省高官の森有礼ありのり。新婦は幕臣、広瀬秀雄の娘、つね。29歳と21歳の夫婦であった。

 一風変わったと言ったのは、この結婚が「契約結婚」だったからである。その意味するものは、洋行帰りの森が『明六めいろく雑誌』に掲載した「妻妾論さいしょうろん」で見ることができる。

この論文には、男女が同等であること、夫には妻を扶養する義務と妻から扶助される権利があり、妻は夫から扶養される権利と夫を扶助する義務があり、夫婦が互いにそれを守ることが国の基ともなる-との主張が表明されていた。

 親同士が決める結婚が普通で、男は側室(めかけ)を持っても非難されない時代であった。それだけに「契約結婚」にはみな驚き、新聞記者まで押しかける騒ぎとなった。

 多くの招待者が見守る中、洋装で腕を組んだ2人が現れ、「婚姻契約書」なるものが読み上げられ、夫婦で署名した。証人は福沢諭吉が務めた。

 森は薩摩の下級武士の家に生まれ、抜擢ばってきされて欧米に留学した。米国ではキリスト教のコロニー(共同施設)でも暮らした。帰国後は語学力や見識を買われ、新政府の外交官に招かれた。のちのことだが、伊藤博文内閣で誕生した初代文部大臣にも就任している。

常はこの時代の女性としては珍しく学問があり、英語を話すことができた。清国や英国の公使になった森に従い、夫人としての責任を立派に果たした。3人の子供にも恵まれている。

 幸せな夫婦生活のはずだった。しかし明治19(1886)年11月28日、2人は離婚してしまう。理由は2人が口をつぐんだため、いまも不明である。

 常の男性問題がささやかれることも多いが、ノンフィクション作家の森本貞子ていこ氏が新説を打ち出した。常の実家を継いだ男が政府転覆を図った「静岡事件」に関わったのが原因とするのである(『秋霖譜しゅうりんふ 森有礼とその妻』東京書籍)。

 文相という重職にあった森が、身内の不祥事への責任を離婚という形で取ったのだろうか。しかし、それなら「結婚は個人と個人の契約」とした妻妾論の主張も崩れてしまう。

 個人の契約といいながら、2人の背後には「家」が重くのしかかっていた。森の親族の多くが同居し、常も実家を引きずっていた。文明開化期とは、そういう時代だったのである。

幼い子供を抱えた森は翌年6月、再婚した。相手は岩倉具視の娘、寛子だった。しかし、この結婚生活は2年と続かなかった。森が暗殺されてしまったからである。

森有礼暗殺事件は、大日本帝国憲法発布の明治22(1889)年2月11日に起きた。式典に参列すべく自宅で準備中、訪ねてきた西野文太郎に出刃包丁で刺され翌日、亡くなった。西野は「伊勢神宮で不敬な行動があった」との斬奸状ざんかんじょうを所持していたが、その場で斬り殺されたため、真相は不明である。理想主義者の早すぎる死、と言うしかない。」

(https://www.sankei.com/article/20130508-72BMGNJAVRPZ5G22PLN4CEYC2I/ より)


森は、明治8(1875)年結婚、明治19年離婚とあり、娘・安の明治23年の年齢はちょうど「十二三」歳(11-7)と推定される。


なお、この後のふたりの会話が、

「「ぢや、何処(どこ)の誰だか全く分からないんですか」

「無論分からない」

「尋ねて見なかつたですか」

「いゝや」」

となっており、葬送の列の中の人なのか、それを道端で見送っていた人なのかが曖昧な形で述べられている。


常は美貌で知られており、またそれが故に森の洋行時、妻としての外交の場をイメージして契約結婚をしたのだった。「常の男性問題がささやかれることも多いが」と先の資料にあるのは、娘の安が青い目の子であったため、洋行先のイギリスで出会った外国人との不倫が疑われたことによる。

物語では女の目の色には触れられていないが、美貌の母親から生まれた青い目の混血児と妄想すると、大変な美少女の姿がイメージされる。しかも彼女は父の死に沈んでいる。翳りある女は美しく見える。少女が深く広田の記憶に残るのは当然だ。


「其当時は頭の中へ焼き付けられた様に、熱い印象を持つてゐた」が、「年を経つに従つて段々薄らいで来た。今では思ひ出す事も滅多にない。今日夢に見る前迄は、丸で忘れてゐた」。それから今まで「丸で逢は」ず、「何処(どこ)の誰だか全く分からない」女。

時の経過によって記憶が薄れてくることは自然だ。だから、女がここで広田の夢に登場したのは「妙」であり、その理由を考えなければならない。


まず、広田自身について考えると、佐々木の不始末による自身の環境の悪化が大きな出来事だ。しかしこのことが、広田にとっての永遠の女性である夢の女の登場に関係しているとは読みとれない。


従って、この女の登場は、その他の人物に関係していることになる。具体的には、眠る広田のそばに座っていた三四郎がそれだ。訪ねてきた三四郎の存在が広田の無意識に作用し、夢に女を登場させた。三四郎が広田の夢に女を登場させたのだ。

佐々木が三四郎の美禰子への好意を察しているように、広田もまたそれを察しているだろう。

まるで一枚の「画」となって永遠に封印されていた女が再び意識の上に浮かび上がってきたのは、今「画」となろうとする美禰子の対称となっているからだ。広田がたった一度会った女を深く心に刻んだように、三四郎もまた同じく美禰子を心に刻む。夢の女は広田の心に、美禰子は三四郎の心に、一枚の「画」となって永遠の命を持つ。


「先生は()れで……」、「夫れで結婚をなさらないんですか」という三四郎の問いに、「先生は笑ひ出した」。

「それ程 浪漫的(ロマンチツク)な人間ぢやない。僕は君よりも遥かに散文的に出来てゐる」と広田は言うが、彼は確かに「浪漫的(ロマンチツク)な人間」だ。そうでなければこのような夢は見ない。

「然し、もし其女が来たら御貰ひになつたでせう」との問いには、「「さうさね」と一度考へた上で、「貰つたらうね」と云つた」。美禰子との離別の予感を抱く三四郎は、「気の毒な様な顔をしてゐる」。彼は広田に共感している。


次に広田は自身が独身である理由を述べ始める。これは、好きな女との別れに三四郎が感情的に共感している様子を見て、事情はそれだけではないのだということを教えるためだ。

「その為に独身を余儀なくされたといふと、僕が其女の為に不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生まれ付いて、結婚の出来ない不具もあるし。其外色々結婚のしにくい事情を持つてゐるものがある」。

「例へば、こゝに一人の男がゐる。(広田自身のこと) 父は早く死んで、母一人を頼りに育つたとする。其母が又病気に罹つて、(いよいよ)息を引き取るといふ、間際に、自分が死んだら誰某(だれそれがし)の世話になれといふ。子供(自分)が会つた事もない、知りもしない人を指名する。理由(わけ)を聞くと、母が何とも答へない。強ひて聞くと、実は誰某が御前(広田)の本当の御父さんだと微かな声で云つた。――まあ話だが、さういふ母を持つた子(広田)がゐるとする。すると、其子(広田)が結婚に信仰を置かなくなるのは無論だらう」

これに対し三四郎は、「そんな人は滅多にないでせう」とか、「然し先生のは、そんなのぢや無いでせう」と反応するが、広田自身に現実に起こったことだ。まだ人生が浅い三四郎にはそれがにわかに信じられない様子を見て、「先生はハヽヽヽと笑つた」。

これらの話題に続いて広田が言った「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」によって、例話は広田自身の話であったことが分かる。


母の不義という「結婚のしにくい事情」を抱え、「結婚に信仰を置かなくな」った広田。愛の対象であるはずの母の裏切り。

思索にふける広田の静かさは、この経歴に()るものだ。


明治23年に永遠の女性と出会い、その翌年に大切な母を喪失し裏切りを知った広田。この二つの出来事は、彼の女性観に大きな影響を与え、その結果、広田は独身のままとなった。

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