夏目漱石「三四郎」本文と解説11-7 夢の女「此顔の年、此 服装の月、此髪の日が一番好きだから、かうして居る。二十年前、あなたに御目にかゝつた時だ。あなたは、もつと美しい方へ方へと御移りなさりたがる」
◇本文
広田先生は夫で話を切つた。鼻から例によつて烟を吐く。与次郎は此烟の出方で、先生の気分を窺ふ事が出来ると云つてゐる。濃く真直に迸る時は、哲学の絶高頂に達した際で、緩く崩れる時は、心気平穏、ことによると冷やかされる恐れがある。烟が、鼻の下に低徊して、髭に未練がある様に見える時は、冥想に入る。もしくは詩的感興がある。尤も恐るべきは孔の先の渦である。渦が出ると、大変に叱られる。与次郎の云ふ事だから、三四郎は無論当てにはしない。然し此際だから気を付けて烟の形状を眺めてゐた。すると与次郎の云つた様な判然たる烟は些とも出て、来ない。其代り出るものは、大抵な資格をみんな具へてゐる。
三四郎が何時迄立つても、恐れ入つた様に控えてゐるので、先生は又話し始めた。
「済んだ事は、もう已めやう。佐々木も昨夜悉く詫つて仕舞つたから、今日あたりは又 晴々(せいせい)して例の如く飛んで歩いてるだらう。いくら蔭で不心得を責めたつて、当人が平気で切符なんぞ売つて歩いて居ては仕方がない。夫れよりもつと面白い話を仕様」
「えゝ」
「僕がさつき昼寐をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中で再会したと云ふ小説 染みた御話だが、其方が、新聞の記事より、聞いてゐても愉快だよ」
「えゝ。何んな女ですか」
「十二三の奇麗な女だ。顔に黒子がある」
三四郎は十二三と聞いて少し失望した。
「何時頃御逢ひになつたのですか」
「廿年許前」
三四郎は又驚ろいた。
「善く其女と云ふ事が分かりましたね」
「夢だよ。夢だから分かるさ。さうして夢だから不思議で好い。僕が何でも大きな森の中を歩いて居る。あの色の褪めた夏の洋服を着てね、あの古い帽子を被つて。――さう其時は何でも、六づかしい事を考へてゐた。凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外に存在してゐなくてはならない。――覚めて見ると詰らないが、夢の中だから真面目にそんな事を考へて森の下を通つて行くと、突然其女に逢つた。行き逢つたのではない。向ふは凝と立つてゐた。見ると、昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装をしてゐる。髪も昔しの髪である。黒子も無論あつた。つまり二十年前見た時と少しも変らない十二三の女である。僕が其女に、あなたは少しも変らないといふと、其女は僕に大変年を御取りなすつたと云ふ。次に僕が、あなたは何うして、さう変らずに居るのかと聞くと、此顔の年、此 服装の月、此髪の日が一番好きだから、かうして居ると云ふ。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかゝつた時だといふ。それなら僕は何故 斯う年を取つたんだらうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教へて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云ふと、女が僕に、あなたは詩だと云つた」
「それから何うしました」と三四郎が聞いた。
「それから君が来たのさ」と云ふ。
「二十年前に逢つたと云ふのは夢ぢやない、本当の事実なんですか」
「本当の事実なんだから面白い」
「何所で御逢ひになつたんですか」
先生の鼻は又烟を吹き出した。其烟を眺めて、当分黙つてゐる。やがて斯う云つた。
(青空文庫より)
◇解説
佐々木の「悪戯」(11-6)を批判した広田。
「広田先生は夫で話を切つた。鼻から例によつて烟を吐く。与次郎は此烟の出方で、先生の気分を窺ふ事が出来ると云つてゐる」。佐々木は、相手の言葉をよく聞き理解しようとするのではなく、煙から相手の気分をうかがう方を重視する人だ。不真面目な態度であり、いい加減な奴だと言われても仕方がないだろう。「与次郎の云ふ事だから、三四郎は無論当てにはしない」。「与次郎の云つた様な判然たる烟は些とも出て、来ない。其代り出るものは、大抵な資格をみんな具へてゐる」。佐々木の分類に反して、実際の煙はその持つ意味がいかようにも取られたということ。
広田は、「済んだ事は、もう已めやう」、「夫れよりもつと面白い話を仕様」と、「さつき昼寐をしてゐる時」に見た「面白い夢」の話を始める。三四郎を前にひとしきり佐々木批判をしたので、溜飲が下がったということもあるだろう。
それは、「生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中で再会したと云ふ小説 染みた御話」だった。
・「十二三の奇麗な女」。「顔に黒子がある」
・「廿年許前」に会った。
・夢の中で広田は、「あの色の褪めた夏の洋服を着て」「あの古い帽子を被つて」、「六づかしい事を考へ」ながら「大きな森の中を歩いて居る」。「凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外に存在してゐなくてはならない。――覚めて見ると詰らないが、夢の中だから真面目にそんな事を考へて森の下を通つて行くと、突然其女に逢つた。行き逢つたのではない。向ふは凝と立つてゐた。見ると、昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装をしてゐる。髪も昔しの髪である。黒子も無論あつた。つまり二十年前見た時と少しも変らない十二三の女である。僕が其女に、あなたは少しも変らないといふと、其女は僕に大変年を御取りなすつたと云ふ。次に僕が、あなたは何うして、さう変らずに居るのかと聞くと、此顔の年、此 服装の月、此髪の日が一番好きだから、かうして居ると云ふ。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかゝつた時だといふ。それなら僕は何故 斯う年を取つたんだらうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教へて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云ふと、女が僕に、あなたは詩だと云つた」
・「二十年前に逢つたと云ふのは」「本当の事実なんだから面白い」
・その女と「何所で」会ったかの説明は、次回に持ち越される。
○明治時代の結婚について
・「日本で初めて結婚できる年齢が決められたのが、今から124年前、明治31年です。当時は男性が17歳、女性が15歳でした」。(https://www3.nhk.or.jp/news/special/adult-age-reduction/featured-articles/detail/detail_11.html より)
・実際の結婚年齢のピークは、男女あわせて20歳。(https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19860801-0001.pdf?file_id=77129 より)
広田の年齢はおそらく35歳頃と推定されるので、「廿年許前」は、広田15歳頃ということになる。この相手として「十二三の奇麗な女」は、恋愛対象になるだろう。まだ若い頃のはかない恋。広田の初恋だったかもしれない。
ちなみに三四郎は23歳なので、まだ幼少の頃。
「十二三」は、今ではまだ小学校高学年だが、明治時代の女性においては、結婚適齢期直前だ。彼女の恋は、その意味でも本気だったろう。
この恋について、次話に「憲法発布は明治二十三年だつたね。其時森文部大臣が殺された」とあり、その葬送を見送る中で女と会ったとある。
『三四郎』は明治41年(1908年)発表なので、単純にその10年前は明治21年となり、厳密に言うと、「明治二十三年」とは計算が合わない。
「三四郎」は、発表された年の2年後の未来が、作品の時間として設定されている。
「廿年許前」に「たつた一遍逢つた」だけの「十二三の奇麗な女」。その夢を見ることから、彼女への恋は今でも続いているのだろう。広田がまだ独身なのは、彼女のせいかもしれない。顔にある「黒子」がチャームポイントとして印象深い。
「あの色の褪めた夏の洋服を着て」「あの古い帽子を被つて」、「六づかしい事を考へ」ながら「大きな森の中を歩いて居る」広田は、大人になった現在の広田だ。「凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外に存在してゐなくてはならない」。彼は今も「真面目にそんな事を考へて」いる。
「森」とは無意識の世界であり、彼の心の深層に深く刻まれている女性だ。また「森」は、思索の場所でもある。そこを「通つて行くと、突然其女に逢つた」。「行き逢つたのではない。向ふは凝と立つてゐた」。相手はどうやら、彼を「凝と」待っていたようだ。彼女は彼に何か用がある。
「昔の通りの顔」、「昔の通りの服装」、「髪も昔しの髪」、「黒子も無論あつた」、「二十年前見た時と少しも変らない十二三の女」。彼女は時間が止まっている。その美も、止まった時によって固定され保持されている。
彼女は「少しも変らない」でそこにいた。そうして広田に「大変年を御取りなすつたと云ふ」。「此顔の年、此 服装の月、此髪の日が一番好きだから、かうして居ると云ふ」。それは「二十年前、あなたに御目にかゝつた時」、広田と初めて出会った鮮烈な瞬間を、彼女は永遠の思い出として封印したのだ。あの瞬間、広田に心を奪われ、変わることを拒否することで身も捧げたのだ。彼女は「此顔の年、此 服装の月、此髪の日が一番好きだから」と言う。それは、そのような自分を、一瞬で広田が愛してくれたからでもある。いつまでも、あの時あなたが愛してくれた姿のままでいたい。それは心も同じこと。
「それなら僕は何故 斯う年を取つたんだらうと」、変わらぬ相手に対する自分の変化を「不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教へて呉れた」。姿と年齢の変化は心の変化を表している。あなたは私よりも「もつと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだ」と、彼女は拗ねる。「私の心は変わらないのに、あなたは私よりももっと美しいもの・女性を求めて心変わりなさるのね」。「あなたの愛は移ろいなさった。それに対し、私の愛は永遠だ」、ということ。
広田はこれに答えず、「あなたは画だ」と言う。詩的表現ではあるが、ややはぐらかした感がある。「美しい姿と心をあの時のまま封印したのですね」の意。もちろん広田は、彼女の自分への恋の継続を認めている。
これに対し女は、「あなたは詩だと云つた」。それは広田の、「もつと美しい方へ方へと御移りなさりたがる」様子を表す。
以前にも説明したが、美禰子は「詩」の人だ。彼女は詩的表現を好んで用い、その心も詩的だ。その彼女がまさに「画」の人になろうとしていることは象徴的だ。精神的に独立した自由で詩的な女から、結婚によりひとりの男・家に縛られ、妻・嫁となろうとする美禰子。彼女は、美しく良き日を「画」に封印しようとしている。美禰子も夢の女も、ともに「森」の中にいることも象徴的だ。ふたりは無意識・記憶の奥底に沈もうとしている。
「画」は残酷だ。それを見るたびに描かれた人を思い出す。美禰子にとっては青春時代の自分を、三四郎にとってははかない恋を。美禰子は自らそれを選んだが、三四郎はその「画」を見るたびにかつて愛した人を思い出し後悔する。描かれた人は若い昔のままだ。その姿は動かない。しかし「画」の中の美禰子の唇は、動かずとも三四郎を責める。「どうしてあなたはもっとはっきりと愛を告白しなかったのか」と。
美禰子の「画」は、三四郎への復讐となる。
広田にとってこの女は、「永遠の女性」だ。彼女が彼の女性の基準になっている。彼女に憧れれば憧れるほど、他の女性には目が行かなくなる。広田が独身である理由の一つだろう。
彼女の魅力は、外見的な美だけでなく、20年前に抱いた愛を、一途に貫き通そうとしているところにもある。だから広田は今でも彼女に惚れている。はかない夢となった愛だが。
広田の彼女への愛は、彼の心の奥底に、秘められた記憶として封印される。神聖な愛。それが時に夢となって意識の表層に浮かび上がるのだ。
人は誰もがこのような愛・記憶を抱いて生きているのだろう。
○「夢十夜」について
漱石に「夢十夜」という作品があり、特に第一夜が美しい。今話は、この物語を思い出させる。
第一夜
こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮かに浮かんでいる。
自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮かに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑らかな縁の鋭い貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂いもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑らかになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥かの上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。 (青空文庫より)
比喩的に言うと、美禰子は今、死のうとしている。
美禰子の「画」は、彼女の青春の墓標なのだ。
そうしてその前で立ちつくす三四郎の姿が見える。
〇泉鏡花「外科室」との類似性について
泉鏡花の「外科室」も、以前会った相手を心に深く思い続ける美しい物語だ。
医学士高峰は、貴船伯爵夫人の手術の執刀医だ。これから手術という時に、夫人は頑として麻酔剤の服用を拒否する。
上
(前略)
外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣を絡いて、死骸のごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、頤細りて手足は綾羅にだも堪えざるべし。脣の色少しく褪せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼は固く閉ざしたるが、眉は思いなしか顰みて見られつ。わずかに束ねたる頭髪は、ふさふさと枕に乱れて、台の上にこぼれたり。
そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴く、うるわしき病者の俤を一目見るより、予は慄然として寒さを感じぬ。
医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たる状露れて、椅子に坐りたるは室内にただ渠のみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂わば謂え、伯爵夫人の爾き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。
おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻に廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人なり。
そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、
「御前、姫様はようようお泣き止みあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」
伯はものいわで頷けり。
看護婦はわが医学士の前に進みて、
「それでは、あなた」
「よろしい」
と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。
さてはいかなる医学士も、驚破という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表したりき。
看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、
「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
腰元はその意を得て、手術台に擦り寄りつ、優に膝のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
「夫人、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算えあそばしますように」
伯爵夫人は答なし。
腰元は恐る恐る繰り返して、
「お聞き済みでございましょうか」
「ああ」とばかり答えたまう。
念を推して、
「それではよろしゅうございますね」
「何かい、痲酔剤をかい」
「はい、手術の済ますまで、ちょっとの間でございますが、御寝げしなりませんと、いけませんそうです」
夫人は黙して考えたるが、
「いや、よそうよ」と謂える声は判然として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ。
腰元は、諭すがごとく、
「それでは夫人、御療治ができません」
「はあ、できなくってもいいよ」
腰元は言葉はなくて、顧みて伯爵の色を伺えり。伯爵は前に進み、
「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」
侯爵はまたかたわらより口を挟めり。
「あまり、無理をお謂やったら、姫を連れて来て見せるがいいの。疾くよくならんでどうするものか」
「はい」
「それでは御得心でございますか」
腰元はその間に周旋せり。夫人は重げなる頭を掉りぬ。看護婦の一人は優しき声にて、
「なぜ、そんなにおきらいあそばすの、ちっともいやなもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
このとき夫人の眉は動き、口は曲頑みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。半ば目をみひらきて、
「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤は譫言を謂うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快らんでもいい、よしてください」
聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現の間に人に呟かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎として謂い出せる、夫人の胸中を推すれば。
伯爵は温乎として、
「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」
「はい。だれにも聞かすことはなりません」
夫人は決然たるものありき。
「何も痲酔剤を嗅いだからって、譫言を謂うという、極ったこともなさそうじゃの」
「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」
「そんな、また、無理を謂う」
「もう、御免くださいまし」
投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。
ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻にいかにしけん、ひとたびその平生を失せしが、いまやまた自若となりたり。
侯爵は渋面造りて、
「貴船、こりゃなんでも姫を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも児のかわいさには我が折れよう」
伯爵は頷きて、
「これ、綾」
「は」と腰元は振り返る。
「何を、姫を連れて来い」
夫人は堪らず遮りて、
「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
看護婦は窮したる微笑えみを含みて、
「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険でございます」
「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。おそらく今日の切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。
看護婦はまた謂えり。
「それは夫人、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪をお取りあそばすとは違いますよ」
夫人はここにおいてぱっちりと眼をひらけり。気もたしかになりけん、声は凛として、
「刀を取る先生は、高峰様だろうね!」
「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません」
「いいよ、痛かあないよ」
「夫人、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉を殺いで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい」
臨検の医博士はいまはじめてかく謂えり。これとうてい関雲長にあらざるよりは、堪えうべきことにあらず。しかるに夫人は驚く色なし。
「そのことは存じております。でもちっともかまいません」
「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
と伯爵は愁然たり。侯爵は、かたわらより、
「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」
伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。
「一時後れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑しておらるるから埒あかん。感情をとやかくいうのは姑息です。看護婦ちょっとお押え申せ」
いと厳かなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。渠らは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。
「綾! 来ておくれ。あれ!」
と夫人は絶え入る呼吸にて、腰元を呼びたまえば、慌て看護婦を遮りて、
「まあ、ちょっと待ってください。夫人、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。
夫人の面は蒼然として、
「どうしても肯きませんか。それじゃ全快っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋を少し寛げつつ、玉のごとき胸部を顕し、
「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂 斉しく声を呑み、高き咳をも漏らさずして、寂然たりしその瞬間、先刻よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子を離れ、
「看護婦、メスを」
「ええ」と看護婦の一人は、目をみはりて猶予えり。一同斉しく愕然として、医学士の面を瞻るとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
医学士は取るとそのまま、靴音軽く歩を移してつと手術台に近接せり。
看護婦はおどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お押え申しましょう」
医学士はちょっと手を挙げて、軽く押し留め、
「なに、それにも及ぶまい」
謂う時 疾くその手はすでに病者の胸を掻き開けたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛たる音調もて、
「夫人、責任を負って手術します」
ときに高峰の風采は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言 答えたる、夫人が蒼白なる両の頬に刷るがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼を塞がんとはなさざりき。
と見れば雪の寒紅梅、血汐は胸よりつと流れて、さと白衣を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。
ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささか間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言を挟しはさむべき寸隙とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽うあり、背向になるあり、あるいは首を低るるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
三秒にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、
「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀取れる高峰が右手の腕に両手をしかと取り縋りぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
かく言い懸けて伯爵夫人は、がっくりと仰向きつつ、凄冷極まりなき最後の眼に、国手をじっと瞻りて、
「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」
謂うとき晩し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼になりて戦きつつ、
「忘れません」
その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣の色変わりたり。
そのときの二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。
下
数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日予は渠とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日 躑躅の花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞りて、咲き揃いたる藤を見つ。
歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
一個洋服の扮装にて煙突帽を戴きたる蓄髯の漢前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後よりもまた同一様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等は、一様に深張りの涼傘を指し翳して、裾捌きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
高峰は頷きぬ。「むむ」
かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
(中略)
「高峰、ちっと歩こうか」
予は高峰とともに立ち上がりて、遠くかの壮佼を離れしとき、高峰はさも感じたる面色にて、
「ああ、真の美の人を動かすことあのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
予は画師たるがゆえに動かされぬ。行くこと数百歩、あの樟の大樹の鬱蓊たる木の下蔭の、やや薄暗きあたりを行く藤色の衣の端を遠くよりちらとぞ見たる。
園を出ずれば丈高く肥えたる馬二頭立ちて、磨りガラス入りたる馬車に、三個の馬丁休らいたりき。その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言をも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室あらざるべからざる身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠は学生たりし時代より品行いっそう謹厳にてありしなり。予は多くを謂わざるべし。
青山の墓地と、谷中の墓地と所こそは変わりたれ、同一おなじ日に前後して相 逝けり。
語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。
(青空文庫より)
読むたびに毎回涙があふれる物語だ。
伯爵夫人は、執刀医の高峰への無意識の愛の告白を恐れ、麻酔剤の使用を頑なに断った。
九年前に小石川植物園でたった一度だけすれ違ったふたり。高峰はまだそのころ医科大学の学生だった。その瞬間愛を抱いたふたりは、その後も変わらぬ愛を持ち続けた。高峰は独身を貫いた。夫人は伯爵と結婚し子もいるが、心の奥に高峰への愛を封印している。それが、麻酔剤によって暴露されてしまうことを恐れる夫人。
愛する人の手を取り、その手に握られた刃を自分で自分の胸に突き立てる。死の寸前で高峰の愛を感じた夫人は、少女の頃に戻り、「あどけなき微笑」を浮かべて死ぬ。高峰も、彼女の後を追って自殺する。愛する人を失い、生きる意味・理由がなくなったからだ。ふたりは互いの愛に包まれ、天国へと昇って行っただろう。
全身麻酔明けの妄言は、YouTubeにもupされている。付き添う男の看護師に少女が愛の告白をし結婚を申し込んだり、交際相手であることを忘れ、付き添う青年からキスを受けてまるで初めてキスされたかのような驚きを見せたり、見ていて面白い。
「夢十夜」も「外科室」も、女性がはかなく死んでしまうところが悲しい。しかしそれによってふたつの物語は輝きを増す。ともに命を懸けた愛の物語だからだ。
美禰子は死なないが、彼女の良き青春時代は死のう・終わろうとしている。彼女の青春の墓標である絵は、展覧会に飾られる。