夏目漱石「三四郎」本文と解説11-1 此頃与次郎が学校で文芸協会の切符を売つて回つてゐる。野々宮兄妹と里見兄妹には上等の切符を買はせたと云つてゐる。
◇本文
此頃与次郎が学校で文芸協会の切符を売つて回つてゐる。二三日掛かつて、知つたものへは略(ほゞ)売り付けた様子である。与次郎はそれから知らないものを捕まへる事にした。大抵は廊下で捕まへる。すると中々放さない。どうか、斯うか買はせて仕舞ふ。時には談判中に号鐘が鳴つて取り逃す事もある。与次郎は之を時利あらずと号してゐる。時には相手が笑つてゐて、何時迄も要領を得ない事がある。与次郎は之を人利あらずと号してゐる。或時便所から出て来た教授を捕まへた。其教授は手帛で手を拭きながら、今一寸と云つた儘急いで図書館へ這入つて仕舞つた。夫れぎり決して出て来ない。与次郎は之を――何とも号しなかつた。後影を見送つて、あれは腸 加答児に違ないと三四郎に教へて呉れた。
与次郎に切符の販売方を何枚 托まれたのかと聞くと、何枚でも売れる丈托まれたのだと云ふ。余り売れ過ぎて演芸場に這入り切れない恐れはないかと聞くと、少しは有ると云ふ。それでは売つたあとで困るだらうと念を推すと、何大丈夫だ、中には義理で買ふものもあるし、事故で来ないものもあるし、それから腸加答児も少しは出来るだらうと云つて、澄ましてゐる。
与次郎が切符を売る所を見てゐると、引き易へに金を渡すものからは無論即座に受け取るが、さうでない学生には只(たゞ)切符丈渡してゐる。気の小い三四郎が見ると、心配になる位渡して歩く。あとから思ふ通り金が寄るかと聞いて見ると、無論寄らないといふ答だ。几帳面に僅か売るよりも、だらしなく沢山売る方が、大体の上に於て利益だから斯うすると云つてゐる。与次郎は之をタイムス社が日本で百科全書を売つた方法に比較してゐる。比較丈は立派に聞こえたが、三四郎は何だか心元(こゝろもと)なく思つた。そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事は面白かつた。
「相手は東京帝国大学々生だよ」
「いくら学生だつて、君の様に金に掛けると呑気なのが多いだらう」
「なに善意に払はないのは、文芸協会の方でも八釜敷は云はない筈だ。何うせ幾何切符が売れたつて、とゞの詰りは協会の借金になる事は明らかだから」
三四郎は念の為、それは君の意見か、協会の意見かと糺(たゞ)して見た。与次郎は、無論僕の意見であつて、協会の意見であると都合のいゝ事を答へた。
与次郎の説を聞くと、今度の演芸会を見ないものは、丸まるで馬鹿の様な気がする。馬鹿の様な気がする迄与次郎は講釈をする。それが切符を売る為だか、実際演芸会を信仰してゐる為だか、或はたゞ自分の景気を付け、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般の空気を出来る丈 賑かにする為だか、そこの所が一寸明晰に区別が立たないものだから、相手は馬鹿の様な気がするにも拘はらず、あまり与次郎の感化を蒙らない。
与次郎は第一に会員の練習に骨を折つてゐる話をする。話通りに聞いてゐると、会員の多数は、練習の結果として、当日前に役に立たなくなりさうだ。それから背景の話をする。其背景が大したもので、東京にゐる有為の青年画家を悉く引き上げて、悉く応分の技倆を振はした様な事になる。次に服装の話をする。其服装が頭から足の先迄 古実づくめに出来上がつてゐる。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんな面白い。其外 幾何でもある。
与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送つたと云つてゐる。野々宮兄妹と里見兄妹には上等の切符を買はせたと云つてゐる。万事が好都合だと云つてゐる。三四郎は与次郎の為に演芸会万歳を唱へた。 (青空文庫より)
◇解説
第三の男登場の衝撃の後なので、佐々木の軽めの話になった。
「此頃与次郎が学校で文芸協会の切符を売つて回つてゐる」。
〇文芸協会
「明治の末期には、西欧近代劇の影響を受けた新劇運動が興り、本格的な近代劇が始まった。逍遥や島村抱月らが文芸協会を創立、逍遥訳「ベニスの商人」や「ハムレット」を上演、特に抱月訳で松井須磨子が主演したイプセンの「人形の家」は好評を博した。(「新総合図説国語」東京書籍より)
佐々木のチケット販売意識は旺盛だ。「二三日掛かつて、知つたものへは略(ほゞ)売り付けた様子である」。「それから知らないものを捕まへる事にした」佐々木は、「どうか、斯うか買はせて仕舞ふ」。
「与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送つたと云つてゐる。野々宮兄妹と里見兄妹には上等の切符を買はせたと云つてゐる。万事が好都合だと云つてゐる」
…後日、三四郎は、演芸会で美禰子が連れの第三の男と一緒にいるところを見る。
「三四郎は与次郎の為に演芸会万歳を唱へた」
…この、ややとってつけたような説明が気になる。三四郎は、第三の男が気がかりなはずだ。もしかしたら二人で観劇するのではないかと疑ってもおかしくない場面だ。それなのに、能天気ともいえるほどに、このようなことをする。これが三四郎の若さ、思慮の無さ、未熟さなのだろう。