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夏目漱石「三四郎」本文と解説1-1「うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めてゐる」

◇本文

 うと/\として眼が覚めると女は何時(いつ)の間にか、隣の爺さんと話を始めてゐる。此爺さんは(たし)かに前の前の駅から乗つた田舎者である。発車間際に頓狂な声を出して、馳け込んで来て、いきなり肌を抜いだと思つたら脊中に御灸の(あと)が一杯あつたので、三四郎の記憶に残つてゐる。爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣に腰を()けた迄よく注意して見てゐた位である。

 女とは京都からの相乗(あひのり)である。乗つた時から三四郎の眼に()いた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移つて、段々京大坂へ近付いてくるうちに、女の色が次第に白くなるので何時(いつ)の間にか故郷を遠退く様な憐れを感じてゐた。それで此女が車室に這入つて来た時は、何となく異性の味方を得た心持がした。此女の色は実際九州色であつた。

 三輪田の御光さんと同じ色である。国を立つ間際迄は、御光さんは、うるさい女であつた。(そば)を離れるのが大いに難有(ありがた)かつた。けれども、()うして見ると、御光さんの様なのも決して悪くはない。

 唯顔立から云ふと、此女の方が余程上等である。口に締りがある。眼が判明(はつきり)してゐる。額が御光さんの様にだゞつ広くない。何となく()い心持に出来上つてゐる。それで三四郎は五分に一度位は眼を上げて女の方を見てゐた。時々は女と自分の眼が行き(あた)る事もあつた。爺さんが女の隣りへ腰を掛けた時などは、(もっと)も注意して、出来る丈長い間、女の様子を見てゐた。其時女はにこりと笑つて、さあ御掛けと云つて爺さんに席を譲つてゐた。()れからしばらくして、三四郎は眠くなつて寐て仕舞つたのである。

 其寐てゐる間に女と爺さんは懇意になつて話を始めたものと見える。眼を開けた三四郎は黙つて二人の話を聞いて居た。女はこんな事を云ふ。――

 小供の玩具(おもちや)は矢っ張り広島より京都の方が安くつて善いものがある。京都で一寸用があつて下りた(つい)でに、蛸薬師の(そば)玩具(おもちや)を買つて来た。久し振で国へ帰つて小供に逢ふのは嬉しい。然し夫の仕送りが途切れて、仕方なしに親の里へ帰るのだから心配だ。夫は呉に居て長らく海軍の職工をしてゐたが戦争中は旅順の方に行つてゐた。戦争が済んでから一旦帰つて来た。間もなくあつちの方が金が儲かると云つて、又大連へ出稼ぎに行つた。始めのうちは音信(たより)もあり、月々のものも几帳面(ちやん/\)と送つて来たから()かつたが、此 半歳許(はんとしばかり)前から手紙も金も丸で来なくなつて仕舞つた。不実な性質(たち)ではないから、大丈夫だけれども、何時迄(いつまで)も遊んで食べてゐる訳には行かないので、安否のわかる迄は仕方がないから、里へ帰つて待つてゐる積りだ。

 爺さんは蛸薬師も知らず、玩具(おもちや)にも興味がないと見えて、始めのうちは只はい/\と返事丈してゐたが、旅順以後急に同情を催ふして、それは大いに気の毒だと云ひ出した。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とう/\ 彼地(あつち)で死んで仕舞つた。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価(しよしき)は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の()い時分に出稼ぎなどゝ云ふものはなかつた。みんな戦争の御蔭(おかげ)だ。何しろ信心が大切だ。生きて働らいてゐるに違ひない。もう少し待つてゐれば屹度(きっと)帰つて来る。――爺さんはこんな事を云つて、頻りに女を慰めて居た。やがて汽車が(とま)つたら、では御大事にと、女に挨拶をして元気よく出て行つた。 (青空文庫より)


◇解説

「三四郎」も「それから」同様、夢から覚めるところから始まる物語。夢から覚めた三四郎が、終末部ではどのような方向へ向かうのかを見ていきたい。

改めてこの物語を読んでみたが、「それから」などに比べるととても情報量が多いという感想を持つ。特にこの冒頭部は、読者に気を抜くことを許さない。


冒頭部を時系列に従って並べ替えると、次のとおりとなる。

①爺さんが前の前の駅から乗る

三四郎の感想…発車間際に頓狂な声を出して、馳け込んで来て、いきなり肌を抜いだと思つたら脊中に御灸の(あと)が一杯あることを認識。爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣に腰を()けた迄よく注意して見てゐた。田舎者という感想。

②三四郎がうとうとする

③女と爺さんが話を始める

④三四郎が目覚める

…女と爺さんがいつの間にか話を始めていることに気づく。①の記憶を思い出す。


時系列通りであれば、このようになるのだが、これらが目覚めた瞬間の三四郎の感想としてまとめて表現されるので、読者にはややわかりにくい描写だ。さらには、登場人物それぞれが何者なのかの情報を読者はまだ得ていないので、読み進めるのに非常な緊張を強いられる。三者の出会いの場面の描写が、良く言えば巧みなのだが、読者は自分の頭で一度整理し直す必要がある。


登場人物の人物像については、どうやら車内でたまたま乗り合わせた者同士のようだが、物語としては当然そこに必然があるはずであり、それを頭に置きながらこれ以降を読み解く必要がある。それでなくても漱石の小説は探偵推理小説のような書き方のものが多いので、読者の辛抱はしばらく続く。特に女はこの後、それこそ「頓狂」な行動を取る。


冒頭部から浮かぶたくさんの疑問を具体的に列挙する。

・なぜ三四郎は「うと/\として」いたのか。

・「眼が覚めると女は何時(いつ)の間にか、隣の爺さんと話を始めてゐる」ことがなぜ気になるのか。

・「此爺さん」の一挙手一投足がなぜ気になり、また、なぜその記憶が鮮明に残っているのか。

・3人は何者なのか。

・爺さんと女の話題は何か。

・なぜ二人は「懇意」になったのか。

・どこ行きの汽車なのか。


次の部分には女の様子が3段落にわたって描かれる。若い三四郎は、女に興味があるのだ。

・「女とは京都からの相乗(あひのり)」…この後の情報からも併せて、九州から東に向かう汽車であることが分かる。女は京都から乗車。

・「乗つた時から三四郎の眼に()いた」。その理由は、「第一色が黒い」から。九州の女は色が黒く、汽車が「段々京大坂へ近付いてくるうちに、女の色が次第に白くなるので何時(いつ)の間にか故郷を遠退く様な憐れを感じてゐた」。「此女が車室に這入つて来た時は、何となく異性の味方を得た心持がした」…三四郎は九州からはるばる東に向かっている。

・女は「三輪田の御光さんと同じ」「九州色」。「国を立つ間際迄は、御光さんは、うるさい女」であり、「(そば)を離れるのが大いに難有(ありがた)かつた」が、「()うして見ると、御光さんの様なのも決して悪くはない」…4人目の登場人物「三輪田の御光さん」とは誰ぞやということになる。

・女と御光さんとの比較→「五分に一度位は眼を上げて女の方を見てゐた」…女への興味。「顔立から云ふと、此女の方が余程上等」。「口に締りがあ」り、「眼が判明(はつきり)してゐる」。「額が御光さんの様にだゞつ広くない。何となく()い心持に出来上つてゐる」。ずいぶん詳細に観察したものだ。青年の女性への関心の高さがうかがわれる。

・「時々は女と自分の眼が行き(あた)る事もあつた」…うれしい三四郎。

「爺さんが女の隣りへ腰を掛けた時などは、(もっと)も注意して、出来る丈長い間、女の様子を見てゐた」…女への強い関心と観察。

・「其時女はにこりと笑つて、さあ御掛けと云つて爺さんに席を譲つてゐた」…この時女は三四郎の視線に気が付いていただろう。だからこの時の女の所作は、三四郎の視線に応えるべく意図的だ。

「爺さんに席を譲つてゐた」から、爺さんを窓際の方に座らせた。(当時の客車の画像と座席図はnote参照)

・「()れからしばらくして、三四郎は眠くなつて寐て仕舞つた」…女への興味よりも長旅の電車の震動による睡魔が勝った場面。


三人の行程を整理しておく。

・三四郎…九州から山陽線に乗り東に向かう(上京)

・女…京都から乗車(四日市に向かう)

・爺さん…前の前の駅から乗車(三四郎と女よりも先に下車)


「懇意になつ」た「女と爺さん」の話を、「眼を開けた三四郎は黙つて」「聞いて居た」。

女の話を整理する。

・「小供の玩具(おもちや)は矢っ張り広島より京都の方が安くつて善いものがある。京都で一寸用があつて下りた(つい)でに、蛸薬師の(そば)玩具(おもちや)を買つて来た」…女は広島に住んでおり、京都で途中下車した。「用」の内容は明かされない。

・「(つい)でに、蛸薬師の(そば)玩具(おもちや)を買つて来た」…「この地で病気平癒を祈れば、身体の病だけでなく心の病もたちまち回復し、子を望めば生じ、財を願えば叶い」と、蛸薬師堂永福寺のホームページにある。女自身か子供に何か病気があったのか?

・「久し振で国へ帰つて小供に逢ふのは嬉しい。然し夫の仕送りが途切れて、仕方なしに親の里へ帰るのだから心配だ」…女が向かう「国」=「親の里」には、「小供」が待っている。「小供に逢ふのは嬉しい」が、「夫の仕送りが途切れて、仕方なしに親の里へ帰る」とあるから、女と夫と、その子供は長く別居しており、子供は遠く離れた親の元に預けていることになる。三四郎と別れた女は、「四日市の方」へ向かうことが後に示される。四日市から夫婦で長期間広島に「出稼ぎ」に出ていた。「蛸薬師の(そば)玩具(おもちや)を買つて来た」とあるから、子供はまだ幼いだろう。会うのがうれしい幼い子を親に預け、四日市から広島へ出稼ぎに出る夫婦。

・夫についての説明。

「呉に居て長らく海軍の職工をしてゐたが戦争中は旅順の方に行つてゐた。戦争が済んでから一旦帰つて来た。間もなくあつちの方が金が儲かると云つて、又大連へ出稼ぎに行つた。始めのうちは音信(たより)もあり、月々のものも几帳面(ちやん/\)と送つて来たから()かつたが、此 半歳許(はんとしばかり)前から手紙も金も丸で来なくなつて仕舞つた。不実な性質(たち)ではないから、大丈夫だけれども、何時迄(いつまで)も遊んで食べてゐる訳には行かないので、安否のわかる迄は仕方がないから、里へ帰つて待つてゐる積りだ」…「戦争」は、日露戦争(1904・明治37年。「三四郎」の発表は明治41年)。夫は「不実な性質(たち)ではないから、大丈夫だけれども」と女は述べるが、「此 半歳許(はんとしばかり)前から手紙も金も丸で来なくなつて仕舞つた」状態からは、夫の不実さしか感じられない。または、現地で亡くなってしまったか。


〇「呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)

呉海軍工廠くれかいぐんこうしょうは、広島県の呉市にあった日本の海軍工廠。戦艦大和の建造で有名だが、終戦により工廠は解散」。

「1889年 (明治22年) 呉鎮守府設置と同時に「造船部」が設置される。当初造船は神戸にあった小野浜造船所に頼っていたが、徐々に呉での設備を拡充、小野浜造船所は後に閉鎖された。 1903年 (明治36年)に日本海軍の組織改編で呉海軍工廠が誕生。その後は東洋一と呼ばれるほどにまで設備を充実させた。工員の総数は他の三工廠、横須賀、佐世保、舞鶴の合計を越える程で、ドイツのクルップと比肩しうる世界の二大兵器工場であった。戦艦「大和」を建造するなど多くの艦艇建造を手がけ、日本海軍艦艇建造の中心地となった」。(呉海軍工廠 - Wikipediaより)

工廠(こうしょう)」…もと、陸海軍に直属して、兵器・弾薬などを製造した工場。(三省堂「新明解国語辞典」)


女の話から、戦争という時代の流れの中、幼い子供と離れて働かなければならない夫婦の様子や、一獲千金を求めて彼の地に渡った夫の不明が語られる。旅の途中の偶然の出会いが、それまで接したことのない人々がいて、世の人々にはそれぞれ重く背負うものがあるのだということを、三四郎に実感させる。

三四郎は大学入学のために東京に向かっている。彼はこれからさまざまな人に出会い、さまざまな考え方を知る。上京の汽車の中でそれは既に始まっているのだ。だから、「()うして見ると、御光さんの様なのも決して悪くはない」などと浮かれている場合ではないのだが、この時の三四郎はまだそのことに気づかない。


「爺さんは蛸薬師も知らず、玩具(おもちや)にも興味がないと見えて、始めのうちは只はい/\と返事丈してゐたが、旅順以後急に同情を催ふして、それは大いに気の毒だと云ひ出した」…「始めのうちは只はい/\と返事丈してゐた」から、女の方が積極的に語りかけていることが分かる。旅の憂さや無聊を慰めるためか。

「自分の子も戦争中兵隊にとられて、とう/\ 彼地(あつち)で死んで仕舞つた。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価(しよしき)は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」…各国のトップたちに聞かせたいセリフ。

爺さんは、「世の()い時分に出稼ぎなどゝ云ふものはなかつた」と女に同情し、「何しろ信心が大切だ。生きて働らいてゐるに違ひない。もう少し待つてゐれば屹度(きっと)帰つて来る」と「慰め」、「やがて汽車が(とま)つたら、では御大事にと、女に挨拶をして元気よく出て行つた」。最後はあっけなく退場する爺さん。この明るさは、女への同情は嘘だったということではなく、世を渡る庶民の持つ長所なのだろう。


この爺さんは、野卑な感じで登場し、最後は人情味ある人として退場する。また、女の人物像が、爺さんに語り掛けることによって浮かび上がる。このように、爺さんの登場は冒頭のこの部分だけなのだが、自身と周囲の人物像を表情豊かに描き出し、また物語を深めるのに役立っている。


田舎を走る汽車に乗る野卑な田舎者たち。しかし彼らの人情は厚い。その終着点である東京には、都会人士が待っている。田舎者で人生未経験の三四郎は、彼らとどのように交流し、どう成長するのだろうか。

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