妖狐、再び百貨店に行く1
「相変わらず大盛況だな」
その言葉に僕は「うんうん」と大きく頷いた。
百貨店は入り口も中も大勢の人間がひしめき合っている。上の階にある催事場で演奏会があると案内しているからか、洋装姿や綺麗な着物を着た人たちが上に向かって動く階段にたくさん列を作っていた。それを見た孝志郎が「エレベーターにするか」と言って上下に動く箱の入り口に向かった。
(えれべぇたぁ)
よし、覚えた。ちなみに動く階段はえすかれぇたぁという名前らしい。
「おいおい、勝手に顔を出してもらっては困る」
(あっ、ごめんなさい)
「まったく、袖の中に潜り込んで百貨店にまでついてくるなんてな。おまえは俺の使い魔であって愛玩動物じゃないんだぞ?」
やれやれとため息をつく気配に耳がしゅんと垂れた。
「おかげで俺はたびたび書生のような格好をしなくてはいけなくなった」
そこまでしょっちゅうついて来たりはしていない。今日はあのいなり寿司を売っている百貨店に行くと聞いたからついてきただけだ。そう文句を言おうと着物の袖口から鼻先を出し「わぅ」と小さな声で鳴く。
「こら、人がいるところで鳴くんじゃない。俺以外に聞こえでもしたら騒ぎになるだろう?」
そうだった。人間の中には妖の声が聞こえる人もいる。慌てて鼻を引っ込めて袖の中でくるりと反対側を向いたけれど、そうすると今度は外の様子が見えなくなる。
(これはちょっとつまんないや)
僕はもう一度くるりと体を動かして袖口からそっと外を覗き見ることにした。耳が出ないように気をつけながら、落っこちてしまわないように尻尾を孝志郎の腕に絡ませてキョロキョロと目を動かす。
ちなみにふさふさした自慢の尻尾には真っ赤な紐が結んである。これは一年前、孝志郎が買ってくれたいなり寿司の容器を包んでいた紐で僕のお気に入りだ。
「やれやれ。これじゃあ妖狐というより管狐だな」
笑う声に「妖狐だよ!」と心の中で文句を言った。プンプン怒りながらも僕の気持ちはすっかり好物のほうに向かっている。いなり寿司の匂いがしないか鼻をクンクンさせていたら、また孝志郎に笑われてしまった。
「ま、たしかに管狐はいなり寿司なんて食べないか」
(だから管狐じゃないってば!)
「はいはい。ほら、顔を出すんじゃない」
孝志郎の言葉に袖の中でぷいっとそっぽを向いた。
僕が袖口に潜り込んでいるこの人間は藤ノ守孝志郎という名前で祓い屋をやっている。祓い屋というのは人間の世に現れた妖を文字どおり祓うのが生業だ。
一年前、僕はこの百貨店で念願だった笠間のいなり寿司を孝志郎に買ってもらった。その対価に使い魔になれと言われて、いまはこんな感じで使い魔をやっている。
(やってるっていうか、なってもいいかなって思ったっていうか)
最初はてっきり祓われるんだとばかり思っていた。ところが僕を家に連れて帰った孝志郎は「俺の使い魔になるか?」と尋ねてきた。
(このまま寂れた稲荷神社にいるよりは使い魔のほうがいいかもしれない)
丸一日考えた僕は、そう考えた。何より食べたいときにいなり寿司を食べてもいいというんだから僕には極楽みたいな話だ。
(妖が極楽に行けるのかは知らないけど、きっとこういう場所を極楽って言うんだ)
そんなわけで、僕は一年前から孝志郎の使い魔をしている。使い魔は僕のほかにも双子の狛犬と三本足の烏がいるけれど、烏は滅多に姿を見せない。狛犬は家で掃除や料理なんかをやっていて、今日も掃除や料理が忙しいと朝から忙しなかった。
(たまには狛犬たちも一緒に来ればいいのに)
「こんな人混みに来たがる妖なんておまえくらいだぞ、イナリ」
だって、笠間のいなり寿司は一年に一度この時期にしか売っていないんだ。それに孝志郎に任せていたら、また買ってくるのを忘れてしまうかもしれないじゃないか。
(だって孝志郎、いなり寿司のこと忘れるかもしれないでしょ)
「おいおい、俺はそんなに信用ないか?」
(この前は限定の黒糖のを忘れたし、その前だって銀杏入りのを忘れたくせに)
「はいはい、いつものは買って帰ったというのに文句が多いな。本当にいなり寿司のことには細かい奴だ。一応悪かったと思っているからこうして連れて来てやったんだろう?」
(当然)
「まったく、イナリは段々と態度が大きくなってくる。その割には体は管狐のままだが」
(だから管狐と一緒にしないで! 僕は立派な妖狐なんだから!)
同じ狐の名前がついていても管狐と妖狐は全然違う。もちろん妖力も妖狐のほうがずっと強い。
(それなのに管狐なんて言うし、しかも名前がイナリなんてどうなんだ)
見た目がいなり寿司みたいな艶々の茶毛だから、という理由でイナリという名前をつけられてしまった。納得はしていないけれど、一度つけられた名前を変えるなんて妖力の弱い僕にはできない。
「イナリというのはなかなかいい響きだと思うがな。それに稲荷神社のイナリだぞ?」
(……別に、嫌いだとは言ってない)
僕の返事に孝志郎が「ははっ」と笑った。そんな孝志郎の腕を締め上げるように少しだけ強く尻尾を絡みつける。
そのとき、ちょうど動く箱が到着して扉が開いた。途端に僕の全身の毛がぶわっと逆立った。髭までぞわぞわして落ち着かない。
(変なのがいる気配がする)
「よく気づいたな。偉い、偉い」
(なんとなく獣臭いんだけど……これ、何の匂い?)
「さぁて、何だろうな」
そんなことを言いながら孝志郎が箱に乗った。ようやくひゅんとするのに慣れてきたけれど、お腹がそわそわするからやっぱり尻尾の毛が逆立ってしまう。それでも我慢しながら乗っていると、ようやく箱が止まって扉が開いた。