妖狐、ご隠居に会う(犬神の件の結末)
「犬神の件では手間をかけたね」
「いえいえ、観音様の足元が揺らぐのは俺にとっても困りますからね」
「そう言ってくれると助かるよ」
何だか難しそうな話をしているのは孝志郎と着物姿の老人だ。老人は「ご隠居」という人で、これまでにも何度かこの家に来たことがある。
僕はチラチラとご隠居を見ながら、いつも食べるものより大きくて分厚い油揚げを火鉢の網に置いて炙っていた。これに醤油をほんの少し垂らして食べるのがおいしいと教えてくれたのは狛犬のコマタだ。
「おや、子狐は油揚げを炙って食べるのかい?」
「最近覚えたみたいですよ」
「そりゃあまた、大きくなったら呑んべぇになりそうな食べ方だ。主のおまえさんに似たのかねぇ」
「さぁて、どうでしょう」
そんなことを言いながら、僕が炙っていた油揚げを孝志郎がひょいと摘んだ。
(あっ、孝志郎!)
「ん、うまい」
僕が目をつり上げると、皿に並べた油揚げを一枚、火鉢の網に載せながら「まだたんとあるだろう」と笑う。
「おやおや、子狐の油揚げを横取りするなんて悪い主だ」
(ほんとだよ)
「ほら、子狐も怒っているぞ?」
(僕、怒ってるんだからね)
ぷんぷんと頬を膨らませていたら「やれやれ、そう怒るな」と言った孝志郎がもう一枚網に載せる。二枚の油揚げを丁寧に炙りながら、ちろっとご隠居のほうを見た。
(僕の声、本当に聞こえてないのかな)
人間に変化しているときは、ただの人間も僕たちの姿を見ることができる。でも人間の言葉をうまく話せない僕の声は聞こえないはずだ。それなのに、ご隠居というこの人間は聞こえているような反応をした。
(ほんと、変わった人間だよね)
見るたびにそう思った。僕たちが妖だと知っているのに平気な顔でこの家に来る。お土産に油揚げを持って来てくれるからいい人間なんだろうけれど、やっぱり変わっていると思う。
(それに、ほんの少しだけど妖の匂いもするし)
もしかしてご隠居の近くにも妖がいるんだろうか。そんなことを思いながら、いい感じに焼き色がついた油揚げにはふっと噛みついた。
(ん~、おいしい!)
いつも食べる油揚げより外がサクッとしていて中はふわっとしている。大きさもだけれど、いつものやつと味が全然違う。
「それは福井の有名な油揚げだ。ご隠居にちゃんとお礼を言うんだぞ?」
(これ、とてもおいしいです)
「あぁ、かまわないよ。たまたま福井に住む親戚が届けてくれたものだからね」
(たくさんの油揚げ、ありがとう)
ぺこりと頭を下げたら、ご隠居が「あれとは大違いだ」と笑った。
「そういえば、彼はいまどうしてます?」
「さて、夏頃は京の都にいたはずだが、いまはさらに西に下ったか東に向かっているか」
「妖狐だというのに気ままな一人旅ですか」
「旅先で見たものを手紙に書いて寄越してくるんだよ。老いたわたしの足ではもう旅はできないから、自分が代わりに見て回るんだと言ってね」
「なるほど」
「いい男だろう?」
「惚気はやめてくださいよ」
「はっはっはっ。あれはいつまでたってもいい男だよ。そういえばおまえさんのところにいた、ほれ、美人の狐も京の都から何やら送ってくるそうじゃないか」
「こっちは嫌がらせですよ。まったく、大社の奥で妖狐たちを囲うなんてろくでもない奴だ」
「まぁまぁ、そう邪険にするものじゃない」
僕はちょうどいい焼き色になった油揚げを皿に載せてご隠居に差し出した。それを見たご隠居が「おぉ、いい色だ。さすがは狐が炙っただけのことはある」と褒めてくれる。
褒められるのは嬉しい。そう思って返事をする代わりにニコッと笑ったら、「それに可愛い狐だ」とまた褒めてくれた。僕はニコニコしながら追加の油揚げを二枚、網の上に並べる。
「妖に比べれば人の寿命は短い。彼らはそれをよく知っている。だからこそ、ときに心を寄せてくれるのだろう」
「彼はそうかもしれませんが俺のほうはどうでしょうね。あの狐に何度夜這いをかけられたことか、思い出すだけでも頭が痛くなります。だから追い出したんですよ」
顔をしかめる孝志郎にご隠居が「はっはっはっ」と楽しそうに笑った。
「何にしても、妖狐がいなくなってからはわたしにできることも少なくてねぇ」
ご隠居がトンとキセルを叩いた。慌てて火鉢の網をどけようとしたら「あぁ、いいよ」と止められる。そのままキセルを傍らに置いたご隠居が「そこに先日の犬神ときたもんだ」とため息をついた。
「あんな代物に暴れられては客が寄りつかなくなる。仲見世に十二階にオペラ館、活動写真館と大賑わいのこの辺りで犬神が暴れたりすれば、それこそ死人が何人出てもおかしくない。いやはやとんでもないことになるところだった」
「御内儀も追い詰められていたんでしょうね。ようやく子が生まれたというのに亭主は新吉原に通い詰めで店に顔を出すこともない。腹に子がいたときからだそうですから、堪忍袋の緒が切れても仕方ありません」
「まったく、亭主のほうは小さい時分からよく知っているが、困ったものだね」
二人の話は難しくてよくわからない。そもそも人の世のことに興味なんてない僕は、ひたすら油揚げを炙り続けた。そうして熱々の黄金色になったところで醤油を少しだけ落としてハフハフしながら食べる。
孝志郎としばらく酒を飲んでいたご隠居は、「また来るよ」と言って日が落ち始める前に帰っていった。
(またおいしい油揚げ、持って来てくれるかなぁ)
「ご隠居は狐好きだから、いい子にしていれば持って来てくれるんじゃないか?」
(いい子って、僕はもう子どもじゃないよ!)
ぷんぷんと怒りながらも「ご隠居は狐好き」という言葉が引っかかる。
(ねぇ孝志郎、あのご隠居は妖狐が好きなの?)
「長いこと妖狐をそばに置いていた人だからな」
(そばに置いてたって、妖狐の使い魔がいたってこと? じゃあ、あのご隠居も祓い屋なの?)
「あぁ、違う違う。妖狐のほうがご隠居を好いていて、それでそばにいたんだ」
(好きでそばに……?)
孝志郎が頷きながら「自分の意志でご隠居のそばにいたってことだな」と言って盃に酒をつぎ足す。
「白い毛ですらりとした妖狐だった。人の姿になれば女性たちがきゃあきゃあと騒ぐ美男子だったが、あいつの目はいつもご隠居しか見ていなかった」
(周りで騒ぐなんて、それってうるさくなかったのかな)
「ははっ、イナリにはまだ早かったか」
何が早いのかよくわからない。でもわかったこともある。
(使い魔じゃないのに人間のそばにいる妖狐なんて変わってるね)
「そうだな」
(そんな妖もいるんだ)
「滅多にいないが、たまにはいる」
(ふーん)
まだ酒を飲んでいる孝志郎をじっと見た。僕は使い魔だから孝志郎のそばにいるけれど、もし使い魔じゃなかったらどうしていただろう。
(……わかんないや)
でも、いなり寿司を食べさせてくれるならやっぱりそばに居続けるような気がした。
(使い魔じゃなくても、百貨店で会ったときみたいに食べさせてくれただろうし)
そういう人間のそばになら、いてもいい。それにここにはいろんな妖が遊びに来るから退屈しない。コマジはちょっとうるさいけれどコマタは優しいし、烏に会えたのもここにいたからだ。それならやっぱり使い魔じゃなくてもここにいるような気がする。
(でも、前の妖狐はいなくなったんだよね)
狛犬たちより前に孝志郎の使い魔をしていた妖狐は、いまは京の都に棲んでいると聞いた。
(ねぇ、前にいた妖狐はどうして孝志郎の使い魔になったの? 使い魔なのにどうして遠いところに行っちゃったの?)
「……あいつか」
孝志郎の顔が嫌そうな表情に変わった。眉をぎゅっと寄せながら「あれは押しかけ女房みたいなものだったんだ」と言って盃をぐいっとあおる。
(押しかけ女房?)
「おまえが気に入っただの何だのと言って、つきまとわれたんだ。よそに迷惑をかけるくらいならと仕方なく使い魔にしたが、余計なことばかりするから結局追い出すことになった。縁は切ったはずなのに、いまだにねちねちと追いかけ回されて困っている」
こんなに困った顔の孝志郎は初めて見た。こんな顔をさせるなんて、一体どんな妖狐だったんだろう。
(ねぇ、強い妖狐だったの?)
「まぁ、強かったな。それに美人で強欲だった。玉藻の前の再来じゃないかと何度疑ったことか」
(たまものまえ?)
「気にしなくていい。おまえはそのまま素直に大きくなってくれ」
(よくわからないけど、わかった)
孝志郎に言われなくても僕だって早く大きくなりたい。大きくなれば狛犬たちみたいに家のこともできるし、烏みたいに遠くに行くこともできる。
(それに孝志郎の役にも立てる)
だから早くムキムキで強い妖狐になりたいと思っている。もし僕が大きくなっていれば、孝志郎が犬神に腕を噛まれることもなかったはずなんだ。
(よし、もっといなり寿司を食べ……違った、がんばろう)
拳を握りしめながら気合いを入れたら、なぜか孝志郎に「おまえはそのままでいいよ」と笑われてしまった。