妖狐、稲荷神社に行く2
棲み処だった神社に行った三日後、珍しく孝志郎のほうから「少しつき合え」と僕を誘ってきた。でも、どこに行くのかは教えてくれない。「また僕が棲んでた神社に行くの?」と聞いたけれど「さぁな」としか答えてくれなかった。
(いなり寿司を買いに行くならついていってもいいけど、そうじゃないなら行きたくない)
「いまから行くところは、近くに寿司屋通りなんて通りがあったな」
(寿司屋!)
耳がピンと立った。
(それっていなり寿司もあるってこと!?)
「あるんじゃないか?」
(帰りにいなり寿司買って! 絶対に買って!)
「わかった、わかった。まったく、おまえはいなり寿司のことになると目の色を変えるな」
(絶対だからね!)
いなり寿司を買ってくれるなら僕はどこにだってついていく。今日も洋装の上に外套を羽織った孝志郎は、外套の下に僕を入れて隅田川のほうへと歩き出した。昔、渡し船があったところにできた橋まで来たら、橋を背に門前町を横切る。
(この辺は相変わらず人間が多いなぁ)
両側に店がずらりと並んでいる通りは、いつだって人間がひしめき合っている。その様子を外套の隙間からキョロキョロと眺めた。
(おっと、鼻が出ないように気をつけないと)
僕は窮屈な袖には入らず、外套の胸元の隙間から外を覗くことにした。もちろんふさふさの尻尾は孝志郎の腕に絡ませて落ちないように気をつけてもいる。
(あれ? いまのって……)
門前町を横切ってしばらく進むと目の前を黒猫が通り過ぎた。猫なんて珍しくないからいつもは気にしないんだけれど、いまの黒猫はどうしてか気になってしょうがない。
(そっか、尻尾だ)
一瞬だったけれど尻尾が三本あるように見えた。ということは、さっきの猫は妖だったに違いない。もしかしていまの妖を探しに来たんだろうか。
(孝志郎、いま尻尾が三本ある黒猫がいたよ)
「この辺りは昔から妖がよく棲み着くからな。化け猫の一匹や二匹はいるだろうよ」
(棲み着くって、神社やお寺から離れてるのに?)
「妖が棲み着くのは何も神社仏閣だけじゃないぞ?」
(そうなんだ)
僕は生まれたときから稲荷神社に棲んでいた。たまに遊びに来ていた妖狐や妖狸も棲み処は大体が神社やお寺だ。獣の体を持つ妖は、身を隠したり妖力を集めやすいそういう場所に棲み着くことが多い。もちろんそうじゃない妖もいるけれど、こんなふうに人がたくさん行き交う場所に棲む妖には会ったことがなかった。
「この近くには花柳界があるから人の欲がよく集まる。そういう欲に引き寄せられる妖も多い」
(じゃあ、今回はそういう妖を祓いに来たってこと?)
「いいや、祓いに来たわけじゃない」
仕事じゃないなら一体何をしに来たんだろう。首を傾げながらキョロキョロと外を見る。
周囲をよぉく探ると、たしかにあちこちから妖の気配がした。でも、僕たちに何か仕掛けてくる感じはしない。僕よりずぅっと強い妖の様子まではわからないけれど、よくない妖がいるなら孝志郎が気づくはず。その孝志郎が「こっち側も相変わらず賑やかだな」なんて呑気に歩いているということは、妖を探しに来たんじゃないってことだ。
(賑やかだけど、大人の人間ばっかりだね)
さっきまでは子どももたくさん見えたのに、この辺りには大人しかいない。それに変わった着物を着た女もちらほらいた。歩いている男たちも普段見かける人間とは様子が違うように見える。
(……嫌な気配がする)
大きな門が目に入った途端に全身の毛がぞわっとした。これは妖じゃなくて人間が出す嫌な気配だ。百貨店に鵺を閉じ込めていた口ひげ男が出していた気配に少しだけ似ている。
(孝志郎、よくない人間がいるよ)
「人が多い中でもわかるようになったか。偉い、偉い」
(孝志郎!)
「大丈夫だ。嫌な気配がしても何かされない限りは様子を見るだけでいい」
そんなことを言いながら孝志郎が大きな門に近づいた。途端に尻尾がぶわっと膨らむ。思わず孝志郎の腕を締め上げるみたいに力んでしまった。
(この近くに嫌な気配の人間がいる)
僕は目を皿のようにして周りを見た。何人もが通りを歩いているけれど、どの人間も毛が逆立つほどの気配は漂わせていない。それでも視線をあちこちに向けていると、門のそばに立っている人間に目が留まった。
(……あの女だ)
百貨店で見かけるような綺麗な着物を着て髪も綺麗に結っている。人間の持ち物には詳しくないけれど、たぶんお金持ちと呼ばれる人間だ。そういう感じの人間から嫌な気配が漂っている。
(何を見てるんだろう)
女は何かを熱心に見ていた。門の向こう側に何かあるのかと思って見たけれど、とくに変わったものは見当たらない。大人の人間が何人も歩いているだけで、たまに変わった着物姿で歩く女が珍しいかなというくらいだ。
いまも少し変わった着物姿の女と男が寄り添って歩いているのが見える。男は着物に腰辺りまでの外套を羽織っていて、手に小さな折り詰めのようなものを持っていた。前にコマタが買ってきたまんじゅうの包み紙によく似ている。
(ひっ)
急に嫌な気配が強くなった。慌てて門を見ると、あの女がギラギラした目で二人を見ている。あまりにもすごい目つきに首のあたりがゾワゾワした。
(孝志郎、あの人なんだか変だよ)
「あれを感じられるようになったのは成長している証だ。よし、いなり寿司を十は買ってやるか」
(もうっ、孝志郎ってば真面目に聞いてよ! あの着物の人、絶対に変だってば!)
「さぁて、それじゃあその変なものが何かまでわかるか? わかれば、いなり寿司をさらに三つ追加してやるぞ?」
(わかるかって言われても……)
変なものは変なだけだ。でも、答えを見つけないと孝志郎はきっとここから動かない。
嫌な気配に尻尾を膨らませながら女を見る。じぃっと見ているうちに、肩のあたりに黒いものが載っていることに気がついた。
(さっきまでなかったのに)
変だなと思いながら、さらにじぃっと見る。すると黒いものがウゴウゴと動き出した。
(あれって……もしかして賽銭箱の隅っこにいた黒い塊と同じ?)
「正解だ」
孝志郎の言葉に「そんなわけないよ」と言い返した。
(あれは人の願いの中の恨みつらみが残ったものだよね? ああいうのは神社やお寺にいるものだよ)
「あれは人が生み出したもので、元は人の近くにあるものだ。そう考えれば人の肩に載っていてもおかしくはない」
肩でウゴウゴしていた黒いものが一瞬にしてぶわっと膨れ上がった。そのまま大きな黒い塊になって女の体に覆い被さる。そのままウゴウゴ動くせいで、人間じゃなくてそういう生き物みたいに見えてきた。
(……あれ、すごく嫌だ)
「あそこまでいくと怨霊と変わらないからな。いや、生きているから生き霊か」
(いきりょう、)
「どちらにしても、人にとっても妖にとってもろくでもないものには違いない」
気がついたら全身の毛が逆立っていた。口ひげ男のときも嫌な感じがしたけれど、それよりもずっとひどい感じがする。それに嫌な匂いもしてきた。鵺に刺さっていた破魔矢の傷のような腐った匂いというより、甘い物が腐って煮詰まったような吐き気がする匂いだ。
(あれ、絶対によくないやつだ)
「そう、よくないものだ。そして、あの黒いものが稲荷神社の妖を生み出そうとしている。あれが犬神という妖を生み出すもとというわけだ」