10:一日の労働
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西暦1860年6月14日
暦などが現代とは異なっているので、現代でも使われているグレゴリオ暦に換算して記憶することにした。
朝起きたら現代に戻っていないかなと思っていたが、あいにくそんな簡単にタイムスリップで元通りになるなんてことはなかった。
現実は非情である。
目覚ましのアラームが鳴る前に、成剛によって起こされたのだ。
「おい牧夫、起きろ……朝だぞ」
朝の6時になったと思い、腕時計を見てみると時計の針は午前3時40分を指していた。
おい、起こすの早すぎじゃないか?
いくら何でも早すぎると俺は成剛に抗議した。
「……おい成剛、まだ午前4時にもなってねぇじゃねぇか。起きるのは朝の6時……明け六つじゃないのか?」
「すまん、間違えていたんだ。明け六つといっても……この時代は事実上のサマータイム制度やっていたんだよ」
「は……サマータイム?」
「そうだ。明け六つといっても春や秋であれば午前6時でもいいけど、夏は時間も早いから午前4時頃にはすでに明け六つという扱いをしていたんだ」
元々朝の6時に起床することになっているのだが、実は江戸時代は半ばサマータイムみたいに日の入りによって時間を決めていたので、冬場は時間は短い反面、夏は長いのだ。
奉公人や丁稚は、すでにこの時間には起きてから作業を始めるのが決まりになっていたという。
「危ない、危うく初日から遅刻するところだったわ」
「不思議と胸元がソワソワしちゃったからな。それで目が覚めてハッと気が付いたというわけさ」
「成程な……そんじゃ、着替えるとするか……」
早速、俺たちは七本屋の統一された紺色の浴衣に着替える。
派手な模様や柄に関しては、罰則の規定になってしまうようなので、目立たないとはいえ一発で七本屋で働いていることを示すために【七本屋】の刺繍が付けられている。
よく江戸時代を題材にした時代劇なんかでも、町人の多くが来こなしているのが浴衣や小袖なんだそうだ。
今でも夏祭りにいけば浴衣を着こなしているカップルが目に付くと思うが、あんな感じと思えば分かりやすいかもしれない。
浴衣に着替えて部屋を出ると、薄暗い廊下で提灯を持ったゆりさんが待っていた。
薄暗いといっても現代基準ではLED照明が照らされているが、まだ電気すら普及していない時代であることを考慮すれば、これでも十分に明るいだろう。
なぜなら廊下には四方を照らす行燈に灯りが灯されているので、俺が想像していたよりは薄暗いとはいえ、ずっと明るかった。
「……しっかりと明け六つの鐘が鳴る前に起きて準備をしていたのですね」
「ええ、仕事の初日に寝坊をすることがあってはいけませんからね」
「実にしっかりしていていいですね。では、早速ですが皆の前で挨拶をして頂きたいと存じます、こちらにいらしてください」
「「はい」」
ゆりさんの案内でやってきた先には、同じ七本屋の浴衣を着た男衆が待ち構えていた。
やはり視線が気になるのは致し方無いにしても、いずれここで働く中で彼らの顔を覚えなければならない。
「今日からここで働くことになった高峰成剛様と植付牧夫様です。お二人は諸事情により今日から手代として働くことになりました。まだ御二人は旅籠で働いた経験が浅い為、色々とお聞きしてくることがあるかもしれません。その際はしっかりと助けてやってください。では、成剛様と牧夫様、それぞれ挨拶をお願い致します」
「はい、私は高峰成剛と申します。気軽に成剛と呼んでくださって結構です。何分にも私よりも皆さんのほうが経験が豊富故、色々とお聞きすることが多いかもしれません。何卒宜しくお願い致します」
「植付牧夫です。皆さんのお力になれるよう、精一杯努力いたします。何卒宜しくお願い致します」
「では、まず皆さんは泊まっているお客様に明け六つの鈴倫を鳴らし、部屋からお客様と遊女が退室したのを確認次第、布団の片付けや、部屋の掃除を行ってください。くれぐれもお客様を急かすような言動は謹んで、気持ちよくお帰りになられるように心掛けてください」
「「「はいっ!」」」
挨拶を終えると、早速男衆はそれぞれの部屋で宿泊している男性客と遊女を起こしに向かう。
この時間というのが明け方頃に帰宅する客も多いのもさることながら、吉原を含めて遊女の多くがお客との関係を一晩限りとしていた為、朝帰りまで見送ることでようやくお勤めが終わるということだったようだ。
それぞれ、飯盛旅籠で働く男衆がこっそり鈴倫を鳴らして知らせるというのがルールであったようだ。
なので、飯盛旅籠で働く男達の朝は早い。
しかしながら、遊女たちに至っては早朝まで身体を張って男性客のお相手をしなければならないので、実質的に遊女のほうが大変な思いをしているのだ。
「さて、成剛様と牧夫様にまず最初にやってもらいたい仕事がございます」
男衆が遊女たちを起こしているのを見届けてから、ゆりさんは最初の仕事を与えてくれた。
それは、部屋の点検であった。
「これから遊女がお客様を連れて、見届けに向かいます。その間に部屋の中にお客様や彼女たちの私物が落ちてないか調べてもらいたいのです」
「私物ですか?」
「ええ、これで男衆がお客様を見届けるまで遊女に何かあってはなりませんので、その間は付きっきりになるのですが、部屋はがら空きの状態となるのです」
「……成程、部屋に忘れ物があればそれを一時保管し、遊女が落し物をしていれば、それを預かって後でお渡しするという事ですね」
「それもありますが、時折手癖の悪いものがお客様をお見送りしている隙を狙って簪や櫛といった私物を盗むものが出てくるのです」
「つまり、盗難防止のために我々が部屋を調べて、落し物がないか調べる……というわけですね」
「その通りです。万が一盗難があってはなりませんので、男衆が部屋に戻って布団の整理や部屋の掃除を始める前に、私物が落ちていないか調べてください」
遊女と一緒に、男衆も出払うタイミングで盗難が起こることがあるようだ。
それを防止するために、手代が先に部屋を確認して私物が落ちていないか調べるのが、この七本屋でのルールとなっているようだ。
「分かりました……ところでゆりさん、部屋の数はどのくらいあるのですか?」
「部屋は全部で二十ですが、昨日お泊りになっていたお客様は十六です」
「では、私と牧夫がそれぞれ八つの部屋を手分けをし、私物が落ちていないか確認いたします。牧夫、早速やるぞ」
「おう、あとゆりさん、いつまでに部屋の確認を終わらせればよろしいでしょうか?」
「遅くても四半刻(30分)までには終わらせてください」
「四刻半……?」
「牧夫……現代だとだいたい30分ってところだ」
「30分か……わかりました。では四刻半までには点検を終わらせて参ります」
「よし、早速二手に別れて点検しよう。牧夫は奥の部屋から点検を頼んだ」
「おう、任せておけ」
俺たちは30分後までに部屋の点検を終わらせるべく、二手に別れて点検を行うことにした。
部屋の点検といっても簡単なものではないだろう。
何と言っても、ここは遊女と男性が一時的に親密な関係になって一夜を過ごす場所だ。
当然ながら、部屋の内部が相当散らかっているような状態なのは容易に想像が付いた。
そして、その想像はあながち間違いではなかった。