表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前編

薫の誕生日が終わって2日後、2月14日がやってきた。

言わずもがな、バレンタインデーだ。

大学生はまだまだ長い春休みの真っ最中。

俺たち二人は美咲さんのお宅に使用人として、その日も働きに来ていた。

昼休憩の時間になると、しょうさんはいつも賄いだからと言いながら、俺たち二人の昼食を用意してくれた。

薫は妊婦の晶さんに出来るだけ面倒かけまいと料理を手伝って、俺は飲み物の準備や配膳を手伝い、出来るだけ彼女の負担を減らした。

そして栄養バランス考えられた食事をいただいた後、俺は皿洗いに徹していたけど、何やら後ろのオーブンの前で楽しそうに鼻歌を歌う晶さんが気にかかった。


「今日も何かお菓子作ってるんですか?」


俺が背中越しに尋ねると、彼女は何かガサガサと包みを用意する音を立てながらご機嫌に言った。


「ええ、今日はバレンタインデーだから、たくさんクッキーを焼いたの。もちろん二人も持って帰ってね?結構こだわって作ったのよ~。」


「あぁ、なるほど、ありがとうございます、なんかいつもいつも・・・いただくことが多いような気がして申し訳ないんですけど・・・」


トイレに行っていた薫が戻ってくると、晶さんは小走りに駆け寄った。


「そんなことないわ、私があげたくてあげてるんだもの、ね、薫くん♪」


「え?え?」


どうやら晶さんは薫を可愛い弟のように慕っている様子で、手を握って嬉しそうにクッキーの準備があることを話している。

薫も晶さんのテンションや扱いに慣れ来たのか、特にスキンシップを気にすることなく対応していた。


「あ、そうだわ。二人に言い忘れてたんだけど、14時頃に小夜香ちゃんがうちに来るの。一緒にチョコレートケーキ作る予定でね♪」


「そうなんですか。・・・毎年一緒に作ってらっしゃるんですか?」


「ううん、一緒に作るようになったのは去年からねぇ。一昨年は私本家にいたし・・・。小さい頃は文通をしててね?その後は携帯電話でメッセージのやり取りをして・・・一緒にいられなかった時期はあるけど、小夜香ちゃんは生まれた時から、私たちの大事な妹なの。」


晶さんは懐かしそうにまた紅茶を淹れなおしながら話してくれた。

御三家についてや当主だった頃の仕事について、わざわざ聞くことはないけど、彼女は時々自分の周りとの人間関係を話してくれる。

話しづらいことも多々あるだろうから、俺も薫も極力詮索したりはしないけど、晶さんからは美咲さんの話より、高津先輩や小夜香さんの話題が多いように思えた。


その後小夜香さんがいらっしゃって、二人は楽しそうにケーキ作りに励んでいた。

俺たちは今日の分の手伝いも済んでいたのと、小夜香さんが美咲さんが帰るまでいると言うので、スマホで報告して早めに上がることにした。

まだ日が高い昼間に家を後にして、いつものように薫と手を繋ぎながら帰り道を歩く。

俺は昨日からこっそり薫に渡したいチョコを冷蔵庫に入れていることを考えながら、チラリと横目で薫の表情を伺った。


「実はさ~・・・バレてるかもしんないけど、俺チョコ買ったやつ渡そうと思って冷蔵庫入れてんだ。」


「・・・そうなの?気付かなかったや。」


余計に買ったお菓子に紛れさせていたからか、薫にはバレていなかったようだ。


「そっか、よかったわ。ちょっといい店でさ、ちょっといいチョコ買っちゃったんだよな~。」


「ふふ、そうなんだ、ありがとう。ちょっといい店って・・・?」


「えっとさ・・・表参道にお洒落なチョコレート菓子専門店があってさ・・・」


内心薫からのチョコも期待して、ソワソワしつつそんな話をした。

けど家に着いても特に、薫は俺の話以外のチョコの話題に触れず、いつものようにお気に入りの紅茶を二人分淹れて、晶さんからもらったクッキーの包みを開けた。

お茶の準備をする薫を背に、俺は冷蔵庫を開けてそれを取り出した。


「はい、薫・・・」


「ああ、ありがとう。じゃあ一緒にいただこうかな。」


薫はニッコリ微笑んで同じく冷蔵庫に手をかけた。


「大量に板チョコあるとビックリさせちゃうと思ったから、野菜室に入れておいたんだ・・・。夕陽気付いてなかったみたいだね?」


「へ?」


「ふふ・・・今から作るから待っててね。あ・・・夕陽からのチョコ溶けちゃうかな、一旦やっぱり冷蔵庫に入れといてくれる?俺は今から溶かして成型して固めるだけの、簡単なトリュフ作るからさ・・・」


「・・・手作りチョコ?今から?」


「うん。・・・・手作り嫌?」


薫は上目遣いで俺を見上げて、少し不安そうな表情を見せる。


「んなわけ・・・ねぇじゃん。死ぬ程嬉しいんですけど。」


「ふふ、そう?よかった・・・待っててね。」


ぐあああああああ!もう無理!!!可愛い!!!


心臓がぎゅ!っとなって思わず胸元を鷲掴みして耐えた。

つらい!可愛い!可愛すぎる!

俺がシンクに手をつきながら呼吸していると、薫は俺を覗き込んだ。


「どうしたの?大丈夫?」


ぐうう!!更に可愛い!可愛いお顔が近い!!!


「だいじょぶ・・・・・可愛い・・・・」


「へ??」


抱きしめてキスすると、薫は少し照れてはにかみながら、また自分からも可愛いキスを返してくれた。

ダメだ・・・・死ぬかもしれない・・・・


「あのさぁあぁ・・・・」


「ん?」


「・・・・・・薫ってさ・・・可愛いじゃんか」


「・・・・・ん?」


「どうする?春になって大学行って・・・新入生がさ、俺みたいに薫を見つけて、『は!?あの先輩マジ可愛い!やば!』ってなって口説いてきたりしたらさ~~どうすんの~?」


俺がダラダラと何も考えずに抱き着きながら言うと、薫はクスっと笑った。


「どうするって・・・・同棲してる恋人がいるからって丁重にお断りするよ?」


「・・・じゃあその口説いてきた奴がさ、めっちゃイケメン、もしくは薫の好みどストライクの可愛い女の子だったらさ、心揺らがない?」


薫は俺をじ~っと眺めて、またふっと口元を緩めた。


「夕陽が同じように口説かれたら、揺らいじゃうの?」


「んなわけ・・・・俺は薫のことしか眼中にないもん。どちゃくそ可愛い子だったとしても、あ~可愛い子だなぁくらいだよ。」


「そっか、俺もそうだよ?」


薫はさっと離れて板チョコの包みをはがしだした。


「あとさぁ・・・」


「なあに?」


カサカサパリパリめくってはチョコを取り出す薫を、横で眺めているだけで幸せだった。


「薫ってさ・・・こう・・・俺とか他の男と明らかに違う特徴があるのわかる?」


「・・・何だろ・・・小柄で中性的とか?」


「いや違う・・・そういう子は割といると思う。」


「・・・夕陽は俺と似てる感じの、小柄で可愛い男の子がいたら心惹かれちゃいそうだよね。」


チラリと横目でそう言う薫が、果たして本気で心配して言っているのか冗談なのか測りかねる。


「え~?どうだろ・・・薫と感じが似てるな、いやでも薫の方が数百倍可愛いなって思うよきっと。」


「ふふ・・・思ってたより強めな惚気で返ってきた・・・」


「じゃなくてさ・・・薫の特徴ってのはさ、話し方だよ。口調。」


「口調・・・そう?変?」


薫はキッチンの戸棚からボウルを取り出して、まな板の上にチョコを置いた。


「いや変とかじゃない。ほら、俺はさ・・・割とガサツなっていうか、粗暴な話し方しちゃうじゃん。何とかだろ?とか、んなわけねぇじゃんとかさ。」


「ああ・・・そうだね、青年っぽい話し方というか。」


「他の奴も大概そうだろ?でも薫はさ・・・丁寧じゃん。雑じゃないじゃん。何とかだと思うな、とか、そうだよね、って全体的に可愛いじゃん。」


「かわ・・・・・可愛いかどうかはわかんないけど・・・。でも咲夜もそうだよ。小夜香さんの前・・・というか女性に対しては話し方を変えてるって言ってたけど、語尾が変わったり、丁寧な話し方にしてるって。」


「あ~・・・まぁ確かに先輩も俺みたいな口調ではなかったな・・・。でもなんか薫とは違うんだよなぁ・・・・。説明しづらいな。」


薫はザクザクとチョコを包丁で刻むために、その細い腕に一生懸命力を入れている様子だった。


「それで・・・その俺の話し方が気になるってこと?」


「うん、何でそもそもそういう育ちのいい感じの話し方になったんだろうなぁって、結構前から思ってた。」


「そうだったんだ・・・。何でかぁ・・・・何でだったっけ・・・・。起因していることがどういう理由かっていうのは思い出せないかもしれない。そういう口調になる頃の思い出を掘り起こせたらわかるかもしれないけど、幼少期の記憶って曖昧だし、入院してた頃とかになると体調がそもそも安定してないから、記憶も断片的だったりするし・・・。」


ザラザラと刻んだチョコがボウルに入って行くにつれて、薫の手にチョコの欠片が沢山ついていく。


「そうかぁ・・・。」


改めて思うけど・・・薫ってホントに小さい頃から苦労の連続だったんだよな・・・

病気で死にかけるって相当だよな・・・


薫はまた何枚も重ねた板チョコを刻んだ。


「口調を人に指摘されたことって今まで特になかったなぁ・・・。でも夕陽の言う通り、確かに周りの人達の砕けた口調とは明らかに違うね。あ・・・でも透さんはさ、俺と話し方が似てなかった?」


「んああぁ・・・・確かに・・・。いやでも・・・あいつはわざとああいう話し方してるからなぁ・・・」


「そなの?」


薫は手を止めてキョトンと俺の顔を見た。かんわい・・・可愛すぎるその表情。


「らしいよ。丁寧に話した方が伝わりやすいってのと、話し方と声のトーンで相手に圧力かけつつ、不気味がられるようにしてるって言ってた。だからさ、それが板についてんのかもしんねぇけど、透のはわざとだってわかってるからさ、逆に違和感なんだよな・・・。きっと本来は砕けた話し方してんだろうなぁってのを何となく感じるし、薫の自然体な丁寧さとは違うっていうかさ・・・。」


「ふぅん・・・?ふふ・・・俺の話し方一つで随分考え込むね。そんなに不思議に思ってたの?」


薫はようやく刻み終えたチョコを入れて、今度は湯煎の準備を始めた。


「思ってたと言うか・・・薫の話し方は薫に合ってるし、可愛いし・・・特徴的だし、薫のパーソナリティだと思ってるよ。だからそれがどういう理由で始まってんのかなって、もっと薫を知りたくて気になってたっつーか。」


「そっか、なるほどね。夕陽の話し方についても俺聞いたもんね。」


「あ~父さんの関西弁っぽさが移ってる話しな・・・。」


薫は湯気の立つボウルの上に、チョコが入ったボウルを重ねてゴムベラを持った。


「残念だけど俺の口調の始まりは、俺が覚えてないからわからないっていうことで迷宮入りだけど・・・。俺も日頃の夕陽に対しての疑問があったこと思い出したよ。」


薫はニッコリ笑ってゆっくり手元を動かす。


「えぇ?なあに~?」


「夕陽はさ・・・俺に対してすぐ可愛いって言うでしょ?そりゃ好きな人フィルターかかってるんだろうなっていうのはわかってるんだけど・・・それにしてもなんというか・・・我が子に言うような、ペットにでも言うような・・・それくらいのデレデレが目に余るからさ・・・。俺最近、可愛いって夕陽に言われる度に自分の言動を振り返ってたんだよ。」


「お?おおん・・・・マジで?」


「うん。例えば・・・一緒にソファに座ってテレビを観てた時に、俺が映画のコマーシャルに食いついて話してたら可愛いって言ったんだよ。そこはまずさ、特に可愛いこと言ってないし、あの俳優さんがどうの・・・って説明してただけなんだよ、可愛いわけないでしょ?後はさ、ベッドで一緒に寝る前に、近距離で小声で話してた時、頭を撫でながら俺に可愛いって言ったんだよ。・・・俺その時も特に可愛い行動したわけじゃないし、話してたことも他愛ない話だったし・・・何もしてないんだよね。」


薫は特にいつもと変わらない淡々とした口調で、特に俺を責めているわけでもなく説明していた。


「挙句の果てには俺が目の前で夕食を食べてる時も可愛いって小声でつぶやくし・・・。女性っぽい服装じゃない、まるっきり男性用のファッションをしてても、可愛いって言ってたんだよ。・・・・・釈明出来る?」


「釈明・・・俺今非難されてんの?」


「ううん、誤解だったら釈明が必要でしょ?」


半ばニヤニヤしそうなのを堪えながら考えるふりをした。

薫はチョコを溶かし終えて、何やら他の材料の袋を開けてそこに入れ始める。


「んえ~?でも薫が最初言った通り、好きな人フィルターのせいだよ・・・・。全部可愛く見えちゃうんだよ。好きなものを熱弁してる様子は可愛いし、俺の腕枕で上目遣いしながら話してる薫は最上級に可愛いし、もぐもぐ咀嚼してるほっぺは最高に可愛いし、着替えて姿見で確認しながら、よし・・・って表情してどう?って聞いてくるのはもう可愛いじゃん・・・逆に何で可愛くないのかを聞きたい。」


薫は俺の釈明を聞きながら次第に口元を持ち上げて、少し呆れたような視線を返した。


「そっか・・・。ふふ・・・・まぁ聞いた俺が馬鹿だったのかな。」


「え~~~?どういうこと~~?」


後ろからハグしながら薫の匂いを嗅ぐと、ほんのりチョコの香りまでついてきた。


「恋人に・・・そんな風に愛されてることを、変だなって思うこと自体無粋だし、俺はまんざらでもないわけだから指摘することじゃないかなって。可愛くないよって言い返してもきっと、その反応が可愛いって言われるんでしょ?でも何となくわかるからさ・・・なんていうか、夕陽はお兄ちゃん気質だし、自分より小さくてか弱そうな人が好きなのかもしれないなぁっていうのは、だいぶ前からわかってたしね。それに・・・俺もちょっと夕陽側だったことがあるし。」


魔法みたいに薫はサラサラとオレンジの何かをチョコに振りかけて混ぜる。


「そなの~?」


「うん。でも夕陽が嫌な気持ちになるかもしれないから、詳しくは言わないけど。」


薫は断言してそれ以上の詮索を愚問とした。

俺は薫のその言い方に大方どういうことか予想はついたので、特に尋ねることはしないでおいた。

ある程度混ぜ終えると、薫はボウルにラップをかけて冷蔵庫にしまった。


「まだまだ時間がかかるから・・・ごめんね、食べるのはだいぶ後になるかも。」


「ん?いいよ、先に俺のチョコ食べてろよ。俺ももらったクッキーいただいとくかな。」


「そうだね、紅茶冷めちゃったかな・・・。おやつの時間は過ぎちゃうし、成型した後更に固めるから・・・デザートに食べてもらおうかな。・・・ついでに夕飯の下ごしらえもしちゃうか・・・。」


薫は手際よくまた冷蔵庫から取り出した野菜を刻みだした。

それからあれこれ夕飯のおかずについて、今後食べてみたいものや二人で作ってみたい物を話し合った。

そのうち連想ゲームのように話題は派生していって、二人で旅行にも行きたいと言うと、薫は旅館に泊まって温泉旅行がいいなと提案した。

ゆっくり落ち着いた空間で二人っきりで過ごしたり、自然がいっぱいの田舎を歩いたり、観光出来たりするのは、確かに療養中の薫に向いているかもしれない。

誕生日には人通りが多い場所を結構歩いたし、ホワイトデーには温泉旅行でお返しっていうのも悪くない・・・

多少の貯金はあるし、予算を計算して切り詰めたら、来月までにお金を作れるかもしれない。

そんなことを俺が画策しつつクッキーをもぐもぐ食べていたら、向かい座った薫は頬杖をついて、俺をジーっと眺めている。


「なに~?」


「ん・・・ふふ、夕陽も十分普段から可愛いなぁって思って。」


「え~?マジで~?やったぁぁ。」


尚もデレデレしながらふざけて言うと、薫はまた柔らかい笑顔を返してくれる。


もっともっと大事な薫を特別扱いしたい。

ゆっくり紅茶を口に運ぶその姿は、行儀良くて所作が綺麗で、いいとこのお坊ちゃんのようだ。


「薫はさぁ・・・お金持ちの家の子って感じだったん?」


彼は実家や両親の話を決してしない。親戚や祖父母の話も聞いたことがない。

けど友達付き合いとしても、恋人づきあいとしてもそれなりに長い今なら、話してくれるかもしれない。

薫はカップを口元からそっと離して、視線だけを俺に向けた。


「そう見える?」


「うん。育ちがいいっていうか・・・行儀がいいじゃん。頭もいいし、年相応なとこもあるけど、基本的に大人っぽいっつーかしっかりしてるじゃん。」


俺がそう言うと、薫はポリポリと頭をかいた。


「・・・・・・ごく一般的な家庭だったと思うよ。二人とも職業柄稼ぎはいい人だったと思うけど、一軒家だったわけじゃないし、高層マンションに住んでたわけでもないね。家の中の物もシンプルだったし、高そうな物だなって思うような家具とかは無かったと思う。・・・・かと言って倹約家で節約することを強いられてたかっていうとそうでもなくて、母は映画や外食に連れて行ってくれたこともあるし、父は俺が入院している間は好きなものを何でも買ってきてくれてたように思う。もしかしたら・・・結婚した頃はそれなりに裕福だったのかもしれないけど、俺の治療費や入院費でほとんど使い果たしてしまったかもね。でも二人は俺に対してお金の話をすることは絶対なかったから、夫婦間で養育費や生活費の揉め事は起こっていたと思うよ。」


「そっかぁ・・・・。」


薫は退院した後ほとんど一人でいる時間の方が多かったはずだ。

二人ともなかなか帰ってはこなかったと話してたし、両親が一緒に家にいるのを見たこともないと言っていた。


「夕陽が疑問に思ってる部分の答えは、母はとても作法に厳しい人だったんだ。勉強の面でもそうかもしれないけど、それは俺がまぁまぁ出来が良かったから厳しくなりはしなかったけど・・・お箸の持ち方、テーブルマナーとか、基本的なことからマナー教室でしか教わらないようなことも、母は熟知していたし完璧を求めてた人だと思う。だからって出来ないことや知らないことを大袈裟に叱る人ではなかったけどね。」


「へぇ・・・お母さん自身が厳しい家庭で育ってたんかな?」


「さぁ・・・祖父母の話は聞いたことないし、健在なのかどうかも知らないね。幼い時に尋ねたことはあったかもしれないけど、ハッキリ答えてくれなかったから記憶にないのかな・・・。何にせよ残念なことに・・・今になると母の顔も、声ももう覚えてないってことだね。」


薫はそう言ってため息をついて、寂しく思うことさえもう疲れた、という顔をした。

けど何となく、父親に対してより母親に対しての方がまだ、嫌悪感はないのかもしれない。

それは側に居てくれた時間に差があるんだろうか。

あの電話での会話があってから、薫には一切父親の話をしないことにしていた。


「もっと知りたい?」


淡々と説明してくれていた薫は、俺を探るような目をしながらそう短く尋ねた。


「・・・知りたいよ?薫のことも、薫の身内のことも。だって薫を産んでくれた人だから。」


そう言うと薫は少し意外そうな表情をした後、ふんわり優しいけど悲しそうな顔をして、わずかな沈黙の間で、そっと目を伏せてわずかに涙をにじませた。


「・・・・母さんのことは・・・それ程話せる思い出が多くないし、どういう人だったのかとか・・・さして与えられる情報はないかな。俺が抱いてた母さんの印象やイメージは、もしかしたら俺の前でだけだったかもしれないし、人間は変わっていく生き物でしょ?今はどういう人なんだろうなぁって・・・思うこともあるけど・・・・」


歯切れ悪くポツリポツリと落とす言葉の中に、薫の気持ちは涙と同じように滲む程度だった。


「会いたいけど怖い・・・って感じかな。」


まとまらない言い訳のような説明を放棄した薫は、その一言を渡してくれた。

一緒に居た時間が曖昧で、多い物でないから、親に対して安心感がないんだろう。

薫にとって彼らはいつでも話せる相手ではなくて、側にいて守ってくれる存在でもなかった。

確かにあった愛情だけが残っていて、けどそれが今もあるとは限らないってことをちゃんとわかっているから、薫は何も母親に連絡をしないんだろう。

以前から少しずつ考えていたけど・・・どうにか薫の中でつっかえてるその気持ちに、いい意味で終止符を打ってやりたい。

俺が出来る手助けって何だろ・・・


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ