昔話
弓月が初めて怪異を見たのは、まだ物心もつかない頃だった。
霧が立ち込める草原で、泣いていた弓月の衣を誰かが引っ張った。視線を落とすと、小さな白い生き物が、右手の袖を咥えている。
「うさぎ……?」
弓月は首を傾げた。
兎に羽なんてない。
その生き物は羽をぱたぱたさせて、弓月の目線の高さに、ふわふわと浮かんでいるのだ。
白い獣は弓月の袖を咥えたまま、霧の中を飛んでいく。弓月はそれに引っ張られるまま足を進めた。
どれくらい歩いたのか、いつの間にか霧は淡くなり、遠くに自分を呼ぶ声が聞こえた。
「弓月っ」
「おじうえ……」
駆け出した弓月を、吉野は腕を広げて抱き締めた。
気づけば、いつの間にか白い獣は消えていた。
「虎に似た怪異…………」
帰路での出来事を話すと、吉野は考え込むように目を伏せる。
この叔父に隠し事は出来ない。
こと、弓月と怪異に関しては敏感だ。
「確か、ルゥオ何とかって…………」
「羅羅か?」
「あ、うん」
弓月が頷くと、吉野は更に表情を険しくした。
「葛城殿とは今夜初めて会ったのか?」
弓月は「何故、そんなことを聴くのか」と言う顔で頷く。
身につけた衣、立ち居振舞いから見ても、彼は良家の子息だろう。だが、「葛城」という名を吉野は聴いたことがない。
怪異に詳しく、霊力も高い、武芸にも秀でているようだ。「もしかしたら」と思ったが、彼の瞳は琥珀色だった。何より、彼がここに来た理由が分からない。
家人が入ってきたので、話は一旦中断となった。
広間に入ると、浅緋色の衣を纏った葛城がいた。
「よくお似合いだ」
「お心遣いに感謝いたします」
吉野が用意した衣は、葛城によく似合っていた。
飾り気がない分、葛城の美貌を引き立てている。
三人で囲む夕餉は和やかなものだったーーと思っているのは弓月だけで、後の二人は笑顔の裏で互いの腹の内を探り合っていた。
「葛城殿は生まれはどちらですか?」
「因幡です。幼い頃は母の実家で育ちました。都に来たのは冠礼少し前です」
「お父上が都に?」
「はい。冠礼のすぐ後に亡くなったので、縁は薄かったのですが……」
「辛いことを聴いてしまった」と詫びる吉野に、葛城は微笑んで首を振る。
「弓月殿を育てたのは、吉野殿だと聴きました」
「ああ、臆病なくせに頑固で、面倒な子供だったよ」
「叔父上っ」
「本当のことだろう? 雷の夜は決まって私の寝台に潜り込んで来て……」
更に続けようとする吉野の口に、弓月は芋の煮物を突っ込んだ。吉野は喉を詰まらせ湯飲みの白湯を流し込む。
「お前っ、殺す気か!?」
「それくらいで死ぬなら、苦労しない」
「…………ふっ」
睨み合っていた二人は、揃って葛城を振り返る。
葛城は小刻みに肩を震わせていたが、耐えきれないという風に吹き出した。
「申し訳ありません………あまりに微笑ましかったもので…………」
どうやら葛城は笑い上戸だったらしい。なかなか笑いの止まらない葛城を見て、二人は何事もなかったかのように、菜を口に運んだのだった。