国史覚書
夢なのか、それとも誰かの記憶の欠片なのかーー
ひらひらと舞うのは雪……いや、桜の花びらか……
ふくふくとした赤子の手が、花びらを追っている。
暖かな光が満ち、遠くの山々は仄かに霞んで見える。
「綺麗ね」
そう微笑む顔は光の加減で唇しか見えない。
ただ、唄うような軽やかな声が、ひどく懐かしく思えた。
「ゆ……月…………弓月っ」
聞き慣れた声に、意識が浮上する。
「叔父……上…………」
目を開けると、吉野と葛城が此方を見下ろしていた。
二人とも髪は乱れ、目の下にはうっすら隈が見えた。
心底ほっとしたというように、深く息を吐く。
(珍しい表情だな………………)
ぼんやりとそんなことを考えていると、吉野の掌が、弓月の頬を覆うように触れた。
「大丈夫か、どこか痛いところは?」
「ない…………俺、どうしたんだっけ…………?」
「俺と話してて、いきなり倒れたんだ。覚えてるか?」
弓月は記憶を辿る。
ああそうか、迎えに来た葛城と話していて、翡翠を貰った後に何か変な感じがして…………
「なかなか目を覚まさないから、心配した」
「え、でも……」
室内はまだ明るく、窓から見えるのは夕景だ。それほど時間は経っていないように思える。
「お前、丸一日眠ってたんだぞ?」
「え…………」
葛城の言葉に、弓月は目を丸くする。
「そんなに」と呟いて、弓月は腹を撫でる。
「どおりで、腹が減ってる」
「…………お前なぁ…………」
葛城は額に手をあて、「はぁ」と深く息を吐いた。
「問題がないならいい、食事の仕度をさせよう」
そう言って、吉野は寝室を出ていった。
二人きりになると、葛城は弓月を呆れたように見る。
「お前が倒れてから、吉野殿は一睡もしていないぞ」
「えっ……?」
「まったく、ここまで呑気だと腹が立つ」
「…………葛城も寝てないのか?」
「俺は、別に…………」
「心配させて悪かった、ありがとう」
そうである事を疑いもせずに侘びと礼を礼を言えば、葛城は視線を反らしたまま、弓月の髪を乱暴に撫でた。
翌日、東雲が邸を訪ねてきた。
葛城と入れ違いで食堂に入ってきた東雲は、桃を食べる弓月の向かいの席に座る。
まだ日は沈んでおらず、外は十分に明るい。
「大丈夫なのか?」
「うん。どこも痛くないし、食欲もある」
「みたいだな」
東雲綺麗に切り分けられて、器に山と盛られた桃を見て呟く。
「『倒れて目を覚まさない』って聴いて、心配したんだぞ?」
「悪かったって、葛城や家の者達にも散々言われたよ」
昨日は寝台から下りることすら許さず、出仕しようとすれば葛城から「馬鹿か」と怒鳴られ、吉野からは無言の圧力をかけられる始末。しかも、萌葱に泣かれてしまっては弓月も大人しく寝台に戻るしかなかった。
「心配しなくても、特に急ぎの仕事もないし、折角『休んでいい』って言ってくれてるんだ、のんびりすればいいだろう?」
「そりゃ、そうなんだけど……」
弓月は本の虫だ、書簡に囲まれているだけで幸せなのだ。今の職場は「趣味と実益」を兼ねた、非常に居心地のよい場所なのである。
「どうせ、車庫が恋しいんだろう?」
「うぅ…………」
安静を言いつけられている弓月は、書物を読むことも禁じられている。
「だろうと思ってな、見舞いだ」
東雲は紫紺の布に包まれた物を差し出す。
中を見て、弓月は目を丸くした。
「これ、『国史覚書』の弐巻じゃないかっ」
「葵様が、暇潰しに読んでろってさ」
『国史』は、この国の成り立ちから歴代の王の名、系図、その功績、起こった事柄等が時代毎に記されている、文字通り和国の歴史をおさめた書だ。
『国史覚書』は、「国史に付随する書」という位置付けだが、国生み神話や物語的な要素強く、未だに解読されていない部分が多い。
図書尞の書庫にある書物は、目録で管理されているのだが、この『国史覚書』は何故か目録に載っていないため「誰かが悪戯で書いたものでは」との声もあった。書かれた筆跡が国史の初巻と同じだったため、その説は否定されたのだが。
東雲が持ってきたのは写本だが、未知の書をじっくりと読めることに、弓月は興奮している。
「『是非、この難解な書を読み解いてみろ』だってさ」
東雲の言葉など聴いていないのだろう、弓月は瞳を輝かせて写本の表紙を撫でている。
葛城が運んできた茶をぐいっと飲み干し、東雲は暇を告げた。




