-モイライが差し伸べる手- 3
シャワーを浴びた後、火照った体に冷たい水でも飲もうと台所に寄れば、もう灯りは落ちていて、全て片付けられエールの姿もない。
冷蔵庫から氷を出し水の入った瓶をあける。コップの中の氷がカランと鳴り喉を潤す。
そう言えば、今日は李真が居ないんだなぁと。
あの男は多分とても強い。
佳大も混血である上にダウンタウン育ちだ。日常的に暴力が側にあった。喧嘩を知らない訳ではない。
だけど李真はそれとは別次元の強さ。どちらかというときちんと鍛え上げられたもの。
( 俺も鍛えようかなぁ…… )
この島にはエールに害為す者は入れないとは言われているけれども、一応、李真が居ない以上自分が警戒しなくてはと、自室に戻る前に建物を見回りながら佳大は思う。
一度チラッと見た自分より11歳も年上だった男の腹筋は、見事にバキバキだった。
中庭が見える廊下にさしかかる。テラス土間にはまだ椅子が放置されたままで、エールの部屋のガラス戸も開け放たれたままだ。
佳大は中庭から部屋を覗くが、中は電気も付いていない。
「エール、……寝てるのか?」
返事は返らない。やっぱり寝てるんだろうか?
「――エール?」
もう一度少し大きめに声をかけてみれば、少し離れた場所からエールの声がした。
「……佳大? 居るの?」
「ああ。 起きてるのか? 扉閉めとくから鍵掛けて早く寝ろよ」
それだけ言って、テラス戸を閉めて立ち去ろうとした佳大に、外にいたのかバルコニーから部屋に入って来たエールが、
「待って、少し話ししようよ」と誘った。
「…………」
無言で、思わずしかめっ面になった。
「……どうしたの?」
佳大の顔を見てだろう問いかけに、深くため息をつき、
「こんな時間帯に、そんな格好のサーシャの顔と声の側に居たくはない」
佳大はしかめっ面のまま言う。
そんな格好といってもズボンとTシャツという、ただのラフな格好なのだが、如何せん露出が多い上に、時刻は寝静まる夜。
今は自分の忍耐力の自信が持てない。
エールは一瞬きょとんとした顔をしたが、直ぐに察したのか、あはは。と笑う。
「じゃあ、こっち来てよ。外に行こう」と、
またバルコニーに向かった。
場所の問題ではなく、どこだろうと同じことだと思うのだが、
( 理解しているのか? )
佳大は再び深くため息をつくと、椅子に置きっぱなしのままのブランケットを持って、エールの後を追った。
バルコニーに出てみれば、もうエールの姿はない。砂浜に降りたのかと階段の方に向かえば、「こっち!」と声がする。
上から、顔を覗かせたエールが言う。
「その通路の先に上に昇る階段があるから」
言われた通りに先に行けば、降りる時と同じような狭い階段があった。上がれば、そんなに広くはない屋上のような場所。それよりも――、
視界いっぱいに広がる満天の星。
「……凄いな…」
「でしょ。今日は新月だから星が良く見えるんだ」
リクライニングチェアに寝そべったエールが言う。
けど、ふいに起き上がって、
「あっ、佳大もここに寝てみて!」
立ち上がり、佳大が持っていたブランケットを奪い、それを羽織ったエールは、自分が今寝ていた場所へと佳大を引っ張る。
「――え? うわっ、ちょっ……!」
「ほら、こっちの方が見やすいでしょ!」
無理やり転がされて、確かに星空は見やすくなった。でも、
背中に、今まで寝ていたエールの温もりを感じて、正直それどころではないのだが。
横ではそんなことも知らずにエールが星を指差して、星座の話をしている。
「あれがはくちょう座で、あれがこと座、その一番明るいのがベガだね。佳大は星座の神話を知ってる? こと座のオルフェウスとエウリディケの話」
「……詳しくはないけど、オルフェウスって言えば、死んだ妻を冥界に迎えにいくけど最後に失敗するんだろ?」
「身も蓋もない説明だねー。まぁ、そうなんだけど」
エールは笑う。
「しかも失望の内に殺されちゃったんだけどねオルフェウスも。
それを憐れんで神様が彼の琴を夜空の星にしたんだ」
そこはオルフェウスじゃなく、都合良く琴なんだよね。と、軽く笑い声を立てて。
それは、どこかの似たような話。神話の中では良く聞くありふれた話。
憐れんだ神に愛され永遠を得た魂の話もまた。
「神様っていうのは勝手だよね」
ひとしきり笑った後、静かに語ったエールに、
「……望んだんじゃ、なかったのか…?」
誰が。とも、何が。とも言わずにただ、そう口にすれば、
「そんな昔のことはもう忘れちゃったよ」
星座を見上げたまま呟いたエールの声は、少し寂しげに聞こえた。