-誰が為になされる罪- 10
あの時に気付くべきだったんだと思う。
気付けた、はずなのに。
だって李真は…、
サーシャと同じ瞳を、――していたのだから。
風もなく、空気も滞ったような夜更け。
佳大は寝苦しさに目が覚めて、水でも飲もうと台所へと向かう。
氷を入れた冷たい水を一気に飲み干し、少しでも涼しいかと食堂から続くバルコニーへ出れば、自分を見下ろすのはもう直ぐ満ちる月。
そのまま視線をずらせばエールの部屋にまだ灯る明かり。
( まだ起きてる…? )
エールも眠れないんだろうか?
もう季節は秋だというのに、潮の匂いを運ぶ蒸っとした風に、台所に戻りもう一度水で喉を潤してから、冷蔵庫から瓶をひとつ掴んで廊下に出た。
「こんな時間にどこ行くの?」
廊下の影から急に掛かった声に、佳大は一瞬ビクッと身を強張らす。
月明かりの下にひょいと姿を表したのはダニー。佳大のように驚く訳でもなく、いつものようにニコニコ顔で。
( び…、びっくりした… )
全く気配を感じなかった。
李真もカインも気配を消すのが上手いのだが、こいつもか。
( ほんと、なんなんだ。こいつら… )
ちょっとムッとしながら心臓がバクバク鳴るのを宥めて、佳大は口を開く。
「ちょっと目が覚めて…、台所で水飲んでたら、エールの部屋の明かりが見えたから…」
ちょっと言い訳がましいかなとは思ったけど、手に持った瓶を掲げる。
ダニーは笑顔の中に、何故か少し困ったような表情を混ぜて、
「ああ――、…そう」との返事。
「……どうかしたのか?」
「いや、何でもないけど…、」
うーん。とひとつ唸った後、
「俺もついて行っていい?」
ダニーが言う。
別に断る理由も権限もないし、
「エールが起きてるかわからないけど?」
ダニーが何しにくるのかもわからないまま答えれば、
「それは大丈夫」と、何故かの断言。そして、
「ありがとう。――佳大」
意味のわからないお礼を口にしたダニー。浮かべている表情はさっきと変わらない、
はずの笑顔。なのに――、
一瞬の違和感。
……背筋に走ったのは、警戒か?
蒸し暑く感じていた空間が瞬間に気温を落としたように感じる。
ヒヤッとした首筋に思わず手を当てた佳大だったが、目の前のダニーに変化はない。
「どうかした?」と、逆に問われる。
「…何でも、ない」
小さく首を振って誤魔化すが、足が進まない。
エールの元へと向かおうと、そう思っていたはずなのに、今は行ってはいけないような気がする。その反面、早く行かなくてはと急かす何かがある。
何にせよ、今目の前でニコニコと笑う男の前を歩くことに気が進まない。
背後に着かれたくない気持ちが強い。
何か言おうとして躊躇する佳大に、
「――じゃあ、行こっか」
ダニーはそう告げて、そのままくるっと背を向けた。
その男の背に、とりあえず佳大はホッと息を吐き、後ろに着いた。
廊下に差し込む月明かりは、壁と窓とを交互に繰り返し床に光と影を作る。
前を歩くダニーの背を見つめ佳大は歩く。
男への違和感は消せない。李真の身内だというこの男は一体、
どちら、なのだろうか?
二人が鳴らす足音と遠く聞こえる波音。静かな空間。
「あ、そうそう。ちゃんと聞いた?」
そこに交ざったのは、思い出したふうな問い掛け。
ダニーは振り替えらない。だけど、声から察するに浮かべているのはきっと楽しげな笑み。
問いかけに返事もせず、何となく口をつぐんだままの佳大に、ダニーは気にせず続ける。
「あはっ。やっぱり聞かなかったかぁ、当事者には…」
ダニーは後ろ手に後頭部で指を組み、首だけこちらに向けた。
「――教えてあげよっか?」
そう言って立ち止まったのは影の中。月明かりの下にいる佳大は、男に視線を止めたまま一度ぐっと口を引いてからゆっくりと開く。
「いらない。俺には必要ない」
「――そう?」
意外と残念が顔に浮かぶ。
「だって、それは過去の話だろ」
続けた言葉に男の細い目が開かれる。
想いを引き摺るのはしょうがない。やり直したいと、もう一度望むのは誰でもあること。
だけど囚われては先に進めない。過去は過去だ。やり直すことなんて出来ないんだから。
初めてサーシャを失った時、それでも彼女を求めた。
彼女からの断罪を受け入れる覚悟で。
2回目の喪失で、でも諦められずに無様だろうとエールの側に居ることを望んだ。
3回目の喪失………。
彼女の笑顔に、思い出に、足を止めることもあるけれど。
自分は信じているから、信じたいと望んでいるから。その先を――。
「あは……、あははははっ! なんてっ……!」
体を折り曲げて笑うダニー。目の端に指を添えて佳大を見る。
「あはっ………、………なるほど。
李真があんたには構うなと言うはずだ。
……俺達とは決定的に違う」
今までとは違う低い、低い声。嫌悪感を含んだ。
その意味を問おうとして、だけど男の声が先に遮る。
「とりあえず、早くしないと見逃しちゃうから行こうか?
舞台はここじゃないしね」
ダニーが向けた視線の先。
見えるのは、中庭からエールの部屋に続くガラス戸。カーテンで中の様子は見えないが、灯る明かりははっきりと分かる。
「――さぁ、楽しいショーの始まりだよ、佳大」
ダニーの言葉に怪訝に眉を潜めたが、
誘う声に佳大は庭へと足を向けた。




