-誰が為になされる罪- 9
夜の海より尚暗い瞳が、遠く過ぎ去る船の灯りを追う。
「やっぱり馬鹿だったんだな、お前」
後ろから掛けられた声。
気配もなく背後に立った男に動揺することもなく。李真は微かに首を傾けカインの姿を捉えると、言われた言葉には何も返さずまた視線を戻す。
無言のまま背中に漂わせたのは拒絶――。
だけどカインは気にせず煙草に火を付け、その横へと並んだ。
潮風に混じる煙草の香り。
「………何しに来たんだ?」
不機嫌を隠そうとしない李真の問い掛けに、
「別に、何も」
答える声は、愉しがるような口調。
細い煙が目の端を通りすぎ暗い空を昇る。その行く先を見届けて。ひとつ吐いた小さなため息に、唐突に投げ掛けられた言葉。
「――俺が殺してやろうか?」
誰が?とも、何が?とも言わない、抑揚の伴わないカインの声。
その意味をきちんと理解しているのか、眉間にシワを寄せた李真はいつもと変わらない態度。男に視線を送ることもない。
「…お前では、意味がないだろ」
だだ深く息を吐くと、静かに告げる。
自分の口元から出た煙に目を眇めたカインは、
「まぁ、そうだな」と、珍しくあっさりと引き下がった。
若干怪訝に思い視線だけ男に向ければ、カインはこちらを見て薄く笑う。
「まぁ、お前の目的は達成しないと思うがな」
「…………」
「お前が言う、甘いあいつは、優しい上にお人好しだからなぁ」
いつの間にか普段通りの小馬鹿にした笑みに戻ったカインが言うあいつとは。
「…佳大は、何も知らないだろう…」
「そうか?」
「…………」
「…何にせよ、邪魔するな」
李真はカインを睨み一言告げると、もう話すことはないとその場を後にした。
短くなった煙草の火を指先で潰す。
シュボッと音を立てて新たに灯る赤い火に、カインの顔が照らされる。浮かぶのは、何故か自嘲の笑み。
「人はいつまで経っても愚かだな。
なぁ、―――」
声に出さずに呼び掛けたのは、今はもう呼ぶことのない名。
あのお人好しの男のように、挫けることなく真っ直ぐに思いを貫くことが出来ていたら、何かが変わっていただろうか?
「――はは。 ……馬鹿らしい」
それは既に、戻ることも思いを馳せることも出来ないほど遠い遥か昔。
浮かんだ感傷を、着けたばかりの煙草と共に握り潰して視線を伏せる。
船の姿も消えた暗い海が、男の薄い青い瞳に影を落とすままに。
「李真!」
佳大の声に、振り向いた男が足を止める。
同じ建物の住んでいるはずなのに、避けられているのか? 最近では普段通りの生活ではめったに顔を会わすことはない。
「何だ?」
だけど、問い掛ける顔には通常通りの眉間にシワを刻んでいるものの、その声にこちらを厭うような響きはない。
「エールがまたカインと……、」
佳大が言い終わるより先に、李真の口からため息と共に一言。
「……ダニーは?」
「?」
何故ここにダニーの名が?
不思議に思いながら口を開く。
「ダニーはカインを見かけると姿隠すから……。――え、ちょっと待って。 どういうこと? あいつって強いの?」
カインを止めれるとでもいうのだろうか?
体格的には差ほど変わらないし、そんな風には見えないけど?
この前荷物運んでた時は意外と力あるんだなぁとは思ったけど……。
なんとなくショックを受けた佳大の目の前で、李真がまたため息ひとつ。
佳大の質問はスルーされて。
「もうあの二人はほっておけ。お前が関わらない限り害はない。むしろ関わるな」
それは…。 多分、事実だろうことを口にして、李真は佳大に背を向け再び元の道を行く。
カインは、佳大をダシにエールを構う。
言うように原因は佳大で、二人だけであればエールはカインを無視するだろう。
単純な動機。裏を返さずともただ認めればいいだけの。
「――李真!」
歩き去ろうとする男を、佳大はもう一度呼び止める。
簡単なことのはずなのに。何故か歪んで元の答えを無くしていく。
もう思い出すことさえも難しくなってしまう。
それはきっと、怪訝に振り返ったこの男も同じ。だから、佳大は口を開く。
『何で雪蘭を…、エールを殺したんだ?』
でもそれは、言葉にはならなかった。
「――? 佳大?」
不思議そうに尋ねる李真には、口を開けたまま固まっている間抜け面な自分が見えたんだろう。
「李真は……、」一度躊躇って、
「李真は、エールを憎んでいるのか?」
結局こぼれ落ちたのは、また違う言葉。
「…………なんだ、急に」
「い、いや、別に、深い意味は……」
その声の低さに思わず視線を逸らしてしまったけど、それが――、
……答えなのか?
李真もあの男と、青い瞳を翳らせエールへの憎しみを語った男と、同じだというのか…?
「……さぁ」
俯いた佳大に声が落ちた。
顔を上げれば、微かな笑みを浮かべた李真。
それは痛みを称えた。でも、透明で静かな。
「……どうなんだろうな…」




