-忘却の果てのエデン- 3
男の背について廊下を行けば、向かう先に開けた中庭が見えた。
庭の壁には鮮やかな赤紫のブーゲンビリアが溢れんばかりに咲きほこり、他にも佳大の知らない花や植物がところ狭しと植えられている。
廊下から中庭に降りた李真の後を追い、佳大も中庭へと降りた。
コッコッと、鳴き声をあげて、邪魔だと言うように鶏達が足元を横切り、草をついばみながら庭に置かれた古ぼけた木製の机に近づいて行く。
それを、机の上から艶やかな白い毛並みの猫が見下ろして、小さく一鳴きした後、大きく伸びをした。
そのまま猫はトンと机から降り、でも鶏達には構うことなく中庭の奥、大きく開け放たれたガラス戸の部屋へと向かう。先行していた男の足元をすり抜けて。
猫が入っていった部屋の中には人影が見えた。
中庭とは違う、外へと開けたバルコニーに置かれた一人掛けの椅子に座り遠くを見つめる、亜麻色の短い髪が縁取る整った横顔。
先ほどの白猫が再びニャーと一鳴きして、その膝へと飛び乗った。
外へと向けられていた視線が膝の上の猫へと向かい、そのまま、
「――エール」
呼び掛けた男へと向かう、その翠の瞳が。
( ――ああ、やっぱりサーシャだ…… )
間違えようのないその面差し。
10年の歳月が経ったというのに、自分とは違いサーシャにそんなに変化は見られない。髪が短くなってるくらいだろうか?
再会できた歓びを噛みしめながら佳大も部屋の中へと歩を進める。
男からこちらへと視線をずらして、翠の瞳に怪訝そうな色を浮かべてサーシャが言う。
「李真、今日は客の予定は無かったんじゃ?」
「――ええ、予定外の来訪者です」
ひょいっと、膝の上で寛ごうとしていた猫の首根っこを掴んで李真が答える。
澄んだその声も昔と変わらない。
サーシャの瞳は、相変わらずこちらを見ている。にもかかわらず、自分のことがわからないのか、眉を潜めたままなのは佳大が変わってしまったからだろうか?
あれから大分身長も伸びた。施設を出て一人で生きていく上で、生活の中、自分の容姿も随分変化してしまっただろう。
「サーシャ!」
佳大はその名を口にした。
だけど彼女は困惑の表情を浮かべて。
「……サーシャ? 佳大だよ。佳大・ハーディング!」
「………、李真?」
ますます困った顔となったサーシャは助けを求めるように隣に立つ男を見上げた。
その姿に――、
「…………俺が、わからないの?」
思わず声が震えた。
その声に視線をこちらに戻したサーシャは、一瞬言葉を詰まらせて、
「……すまない」
ひどく申し訳無さそうに謝った。佳大が浮かべた表情を見て。
なんの冗談だろうと思ったが、彼女が冗談を言ってるようには見えない。
「え?……ははっ…、どういうこと、だよ?」
小さく笑いが漏れた。ひどく混乱しているはずなのに、どこか冷静な自分がいる。
こんなに全てが彼女だというのに、違うとでもいうのか?
そんなはずはない。
あの時も、彼女は選ばれたのだと男達は自分に言った。――いや、彼女は選んだのだと。
「……李真」
彼女が再び男を呼ぶ声がする。
その声に、佳大も訳がわからないとばかりに、男に視線を向けた。
二人の視線を受け、一つ息を吐いて李真は言う。
「選ばれた器の元の記憶は基本的に残らない」
「………?」
「継承の儀というもので魂を移し換える。それを終えた時点で元の記憶は消え去り残らない。本来なら親族には伝えられる事柄だが、お前はその対象では無かったのだろうな」
「―――はっ…?
じゃあ、何か? 今喋っていたのはサーシャじゃないって言うのか?」
「厳密にはそうだな。彼女の姿ではあるが、中身はエール。神に愛されし魂の持ち主」
「………じゃあ、俺のことも全て忘れたっていうのか……?」
「忘れたのではなく、そんなもの最初から持ち合わせてなどいないのだから」
男はただ淡々と話す。
「だから言っただろう。もういないと」
急に、カクンと膝が崩れた。床に手を付き、呆然と俯く。
自分が愛したあの少女はもういない……?
その為に10年の歳月を費やしたのに。
じゃあ、自分が生き残った意味は何だったのか?
佳大は拳を握る。
思考は何故かクリアで、でも胸の痛みが考えの邪魔をする。
目頭が熱い。視界が歪む。
サーシャはもう、いない……?
どこにも――…。
( そんな……、そんなこと…っ! )