-赦されざるもの- 2
太陽が登る前の青く染まった時刻。海岸にまだ人影はない。
寒さと、それとはまた別の震えに、
「サーシャ、寒いの?」
佳大はそう言うと自分の上着を脱ぎ私の肩に掛ける。これから二人で、更に寒い場所へと向かおうというのに。
本当にどこまでも優しい恋人、愛しい人。
「……ありがとう」
サーシャのお礼の言葉に、何も言わず微笑む佳大。
そう、私は、そんな愛する人を、
これから自分の狂気に巻き込むのだ。
薬で曖昧になった意識のおかげか、冷たさは感じない。だけどぎゅっと握りしめた彼の手の温もりははっきりと感じ取れた。
当たり前だが一歩進むごとに徐々に水位は上がり、私の口元まで達した海水に少し噎せれば、握られていた手の力が強くなった気がした。
ふいに、強い波が私の体を攫う。
瞬間に揉みくちゃにされ、引きずり込むように底へと向かう。苦しさにゴポッと漏れる息。
だけど――、
繋いでいた手が急に引かれ、
ぎゅっと抱きしめられて唇が触れる。
触れあったところから息苦しさが解消され、
抱きしめられていた腕が、繋いでいた手が、離された。
私を、上に押し上げるように。
海に入ってからは佳大の顔を見ないようにしていた。
…いや、見れなかった。怖かったから。
彼が怒っているだろうとかそういうことでなく、分かっていたから。
押し上げた反動で、代わりに沈んでゆく佳大。苦し気に眉を寄せてはいても、やはり私に微笑む。
その眼差しが、私に愛していると告げている。
そう、……分かっていた。
分かっていた。
分かっていた……っ!
だから、見ないようにしていた。
共に死ぬ、これが完成された愛なのに。
私も彼もここで終わる。邪魔するものはない。
はずなのに。
邪魔するのは…、
結局、最後に邪魔をするのは、
私の、心――…。
( 今さら、何て馬鹿な…… )
「…誰か……、誰でもいい。
誰かっ…――――」
彼を助けて。殺さないで。
私の愛する人を。
( 自らが、それを壊そうとしていたのに… )
不思議なくらい急に、苦しさが消えた。
焦燥も不安も嘆きも。
「………?」
「やっぱり、一番君がいいな」
「―――!?」
急に聞こえた声に、サーシャはビクッと顔をあげる。そこに居たのは、
長い黒髪の美しい女性。見覚えはない。
そして僅かにその体が水に揺らぐ。
水…に……?
「――!!」
瞬時に思い出し、彼の姿を探す。
波間に漂う佳大を見つけ、直ぐに手を伸ばそうとするが柔らかい膜のようなものに隔たれて届かない。
それでも必死に手を伸ばせば、
「何? 彼を助けたいの?」
先ほどの女性だろう、鈴の音のような声がし、
「あのまま彼の心ごと死という檻に閉じ込めることが望みではなかったの?」
陽炎のように揺れる女性が傍らから覗き込む。
今のよく分からない状況の中、でも、女性の発した言葉から分かったことがある。
「彼を、助けて」
貴女は出来るはずだと、迷いなく告げるサーシャに、陽炎の女は黒い瞳で暫くこちらを眺めた後、
分かった。と静かに頷いた。
膜は広がり、波間に漂う佳大をも包み込む。
目を瞑ったままの佳大に近づいて、その頬に触れようと伸ばした手。
だけど、自らの意思でその手を止める。
「大丈夫だよ? ちゃんと生きてるから」
背後から聞こえる声に、サーシャは首を振る。
「疑ってる訳ではないわ。ただ――」
私はもう彼に触れてはいけない。その温もりを、眼差しを、愛を、求めてはいけない。
その全てを奪おうとしていた私は。
「やっぱり…、君がいいな」
サーシャはゆっくりと振り返る。
「他の者でなく、君がいい」
黒い瞳が私を見る。
「本当はこんな形でお願いするつもりじゃなかったんだけど、こちらにもやむを得ない事情があってね。それで――、」
「受けるわ」
サーシャは躊躇うことなく言う。
先ほどより揺らぎが酷くなった女性が言おうとしていること。聞かなくとも、最初から既に検討はついている。
サーシャは告げる。
「私が貴女になる」
目の前の女性は小さく目を見開き、直ぐに歪めるように微かにその瞳を細めると、
「………そう」と、彼女は呟いた。
額にキスを受けた瞬間、身体中を何かが駆け巡るのを感じた。言葉では言い表すことが出来ないような。
「もう、この体も限界だな…」
独り言のように囁かれた言葉の後に、見惚れるような笑みを称えた女性がこちらを見た。
「じゃあ、最後に君の望みを叶えようか。
君は、何を望む?」
そう問われたが、サーシャは俯き、小さく首を振る。
「もう、叶えてもらった。彼が生きてる。それだけで充分」
「それはただのついでなのだけど? 彼を君と共に連れてゆくことも出来るよ?」
サーシャの肩がピクリと揺れる。
それはとても魅惑的な誘い。だけど――、
「……いいえ、佳大は私の側に居てはいけない。
誰か……、優しい人と出会い、愛し合い家庭を築き、最期まで生きてその生を終えて欲しい」
もう遅い、私では駄目だ。
愛という名で彼を殺そうと思うような、あさましく惨めな私では。彼に相応しくない。
「彼がそれを望まなくても?」
何となく不機嫌な声に、視線をあげるが、
もう女性の姿はない。
「…………」
僅かな迷いが答えることを躊躇わす。
「……望まなくても」
でも、絞り出すように答えて、目を閉じたままの佳大を見つめる。
これが佳大を目にする最後になるだろう。
愛しい、誰よりも愛しい人。
あなたは私を詰るかもしれない。責めるかもしれない。また、求めるかもしれない。
――でも何れ忘れる。
あなたを解放しよう。私の醜い思いなど全て忘れて、幸せに生きて欲しい。
「大好きよ。愛してるわ、佳大」
だから、さようなら。
彼の姿を目に焼き付けて、瞳を閉じる。
再び開けた瞳に宿る光は、どこか切なげで。
「――さぁ、行こうか。サーシャ」
呼び掛ける言葉に、頷く声はもうない。




