-寛容という戯言- 3
レイチェルが―、彼女が、こちらに好意を持っていることは分かっていた。
けれどそれは自分には必要の無いもので。
ただ目的の為に役に立つのならばと、敢えてそのまま知らないふりをした。
佳大にとってはサーシャ以外の者など本当にどうでも良く、どうしようが何をしようが、自分の行動に支障をきたさなければ別に気にすることもなかった。
だけどそのせいで、彼女にあんな顔をさせた。あれは、自分がエールに詰め寄った時と同じ、
渇望と懇願――、哀れで無様な。
佳大は暗くなった浜辺を歩く。今日は少し風が冷たい。
立ち止まり見上げた空は、生憎雲が多く星は少ない。でもその隙間から微かに細い月が見えた。
「――エール」
仰ぎ見たまま呟いた佳大の声は大きくはない。
ともすれば波の音に掻き消されそうな。
届かなければそれでも良かったが、小さくカタンという音が耳に聞こえた。
暫くしてバルコニーからエールが顔を出す。
翠の瞳が静かに佳大を見下ろし言う。
「こんばんわ、佳大。 散歩? 今日は雲が多いから星を見るにはむいてないよ?」
小さく笑みを浮かべて。
それはただの挨拶に過ぎないけれど、その声だけで、それだけで佳大の心を締め付ける。
( 今、自分はどんな顔でエールを見上げているのだろうか? )
きっとそれはひどく………、
夜の闇に紛れて、見えなければいい。
「ちょっと考えごとをしてたんだよ。
――それと、」
話出そうとした佳大をエールが止める。
「大丈夫だから――、佳大」
言葉と共に雲の切れ間から細い月が顔を出した。
「……消さないよ。
貴方の中から私は消さない――」
低く響く言葉。闇に紛れたのはエールの方。
その顔は、雲が晴れて姿を現した月を背後に影になる。
「……エール?」
いつもと違うように感じ、佳大はその名を呼ぶ。だけど月が隠れて、再び見えたエールの顔は先ほどと変わらずに、小さく笑みを浮かべたままだ。
「だから、心配しないで。どうせ佳大が望まないことは出来ないし、するつもりもないよ」
そう言って、エールは伸びをすると、
「じゃあ、私は寝るね。 おやすみ、また明日」と、
そのままバルコニーの向こうに姿を消した。
誰もいなくなったバルコニーを、それでも暫くの間佳大は見上げていた。静かな浜辺に響くのは、打ち寄せる波の音だけ。
あきらめて視線を足元に落とした佳大に、小さく呼び掛ける声がある。見れば、寝間着だろう姿のレイチェル。
「レイチェル…? どうしたんだ、そんな薄着で」
明らかに外に出る格好でない彼女の姿に、佳大が尋ねれば、
「佳大が…、外に見えたから」と、レイチェルは小さな声で呟く。
寒さでか、声が少し震えている。ちょっと前から外にいたのだろうか。
佳大は小さくため息を付くと、
「今日は寒いよ。早く中に入ろう」
近づき建物の方へ促し言う。
だけどレイチェルは、それを拒み動かない。ただ無言で、何かを待つかのように佳大を見つめている。
「………」
レイチェルの視線を受けて、同じく沈黙を落とした佳大。
彼女はさっき皆の、佳大の目の前で自分の想いを告白した。もう、知らないふりは出来ない。
「ごめん…、レイチェル……」
佳大はゆっくりと言葉を刻む。
彼女は初めから全てを持っていた。だのに何も持たない自分を気に掛けるのは、ただ珍しいものとしての一過性の、飽きればすぐに忘れる程度の、そんな好意だと思っていた。
ここまで来て今、そんな眼差しを向けることなどないと。
堪えきれずに視線を落とす。
「……ごめん…」
佳大にはそれだけしか言えない。
緩急をつけ囁く波の音と共に流れる沈黙。
ただそれは張り詰めてはいない、むしろ穏やかなほどで。
ふっと漏れる息を聞いた。俯いた視界に、伸ばされた手が見える。
のろのろと持ち上げた視線の先では、苦笑を浮かべるレイチェル。その両手が佳大の頬にそっと添えられて、
ふいにぎゅっとつねられた。
「―――!?」
驚いた佳大に、レイチェルが言う。
「佳大は馬鹿ね、貴方が謝ることではないじゃない。私が勝手に佳大を好きになっただけ、それだけ」
「でも――、」
「サーシャって、いうの? 佳大がずっと想い続けてる人は?」
佳大の頬から手を離し一歩下がると、風に煽られた髪を押さえてレイチェルは尋ねる。
やはりエールとの会話を聞いていたのか、レイチェルはその名を知らないはずだ。
佳大は小さく頷く、「ああ……」と。
急にひと際強い風が吹いた。波は一瞬高くなり、汀に勢いよく打ち付ける。
「……でも、サーシャはもういない」
――はずだ。はずなのだ。
強い風により一層煽られて、両手で髪を押さえていたレイチェルは、「――え?」というようにこちらを見た。
佳大は何でもないと首を振ると、
「風邪を引く前に早く戻ろう、レイチェル」と、再び彼女を促した。
レイチェルは今度こそ佳大の誘いに応じると、建物の方へと足を向けた。